異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

入国

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 目の前に張られた壁はあまりにも非現実的な光景、入ることの出来る口は狭くて少ない。そこにもまた、入国審査を行う騎士がいるのだというものだから、狭き門である。門の広さは番人の厳しさにゆだねられていた。背伸びしても手を伸ばしても、王どころか上流貴族にすら届くことの無い階位に居座る男の指ひとつで国に入る権利や資格すら決められてしまう。
 幹人は立ち尽くしていた。目の前にて鎧を着て立っている男は不安定にふらついていた。地に立つことすら満足にできていないのだろうか。

「なんだろ、この匂い」

 門番としてはあるまじき匂いが漂っていた。それは仕事終わりの夜、夜の外食で大人が注文して美味しそうに息を吸うように飲んでいる印象を受ける匂い。話によればかつてはリリも飲んだことのあるはずのもの香りが鼻を強く突いていた。
 男は紙と筆を持って幹人に見下しの視線をぶつけながら口を開く。

「なんらあ、ガキが入国かあ? せっかく美味しい酒にいらってらのいいい」

――黙れ酔っ払い

 幹人は男の酒に溺れた態度と漬け込まれたような息の匂いに対して強く眉を顰める。元の世界の日本で今の勤務態度ならばほぼ確実に懲戒モノである。異世界懲戒モノ、幹人は少しばかりの嘲笑を抱き締め人の表情の違いすら把握できない酔いどれ門番を睨みつけて、例の塊を見せつけた。剣の交差した獅子のエンブレムが刻まれしそれはこの国の顔とも呼ぶことの出来るランス本人から手渡されたものだった。
 男はそれを震える目で見つめ、顔を上げる。

「なんだこれ、分からねえ」

 その表情たるやあまりにも頓珍漢で笑い者になること間違いなしだろう。リリは笑いながら言葉をお届けした。

「流石は騎士の道を通し続けた紳士的な国。真っ直ぐな人材を雇うことに努力を惜しまないようだね」

 馬鹿一直線、そんな言葉を嘲笑の感情をリボンにしてくくって飾り付けて贈りたい衝動を堪えつつ、リリは酔っ払いに更なる言葉を送り届けた。

「言っておくわ、門を護るあなたの態度が霧国の顔だと判断されるの。この国は酒を飲みながらでも重要な資料を扱う国だと思わせたら底を見透かされてしまうわ」

 偽りの底を、あらぬ偏見をみんなで創り上げてそれぞれに想うことだろう。国に直接使える者がこの程度の勤務態度。この国はその程度の心持ちでも満足に職にも食にも困らない底の浅い国なのだと。
 リリは問う。男の目を見て圧を掛けて問い詰める。

「いったい何人審査した? どれだけの身分を相手にして来た? その度に相手の事情は考えたのかしら」

 男の口は震えるばかりで声のひとつも出て来る事はない。それ程までに痛い意見だったのか酔いで言い返す頭が回らないのか。恰好だけが立派な騎士は存在すら知らない紋章を見て、ふたりをその場に留めて駆け出した。

「考えてるのか考えなしか、どちらにしても変わりないわ」

 入ることが出来ればどちらでも問わない、あの男のこれからなど知らない。闇に飲まれようとも霧に隠されてしまおうとも笑って生きようとも、少なくとも今は不満、それだけだった。

「そういえば物価とか高かったんだよね?」

 念のための確認は大切だった、いかに公に仕える役職だったとしてもそう毎日酒に溺れられるほどの金をもらっているものだろうか。

「幹人、人をあまりなめない方がいいわ。ああいった人って、他のどの食べ物や衣類を切り捨ててでも欲しいものに執着するものよ」

 今日の朝ごはんはパンと安酒かしら、などと楽しそうな声を聞く中で、幹人は衝撃に頭を打ち揺らされていた。もしかすると幹人の将来もそうなってしまうのかも知れない。現代社会を生き抜くことを想定すると、満足な食事か趣味を取らなければならなくなってしまうことが多いのだった。
 それからどれだけの間、国の外にまではみ出てしまっている霧に包まれ続けただろうか。排気ガスによって、未発達の科学によって造られた霧模様は、この上なく汚かった。

「長居は無用だね、ランスさんに会ってすぐ大樹について教えてもらおう」

 見渡しても見当たらない、それが答えだった。そもそもの話、天空を貫く大きな木が本当にあるのならば、旅の途中で気が付くのは当然のはずだった。
 そこにないということはただのうわさ話なのだろうか、それとも既に朽ちてしまったのだろうか。大樹の近くであり、この世界の中でも非常に優れた文明を持ち続けているこの国の記録にならば何か書き留め纏められているのではないだろうか。
 考えている内に、時間は更に過ぎ去って行く。

「帰って来ないのね」
「うん……帰って来ないね」

 入国希望者をいつまで待たせるつもりなのだろうか、商売であればとっくに信用を失っているだろう。
 息を浅く吸う。呼吸はずっと浅く保ち、出来る限り次の呼吸までの時間も引き延ばしていた。健康を害する空気など吸いたくもなかった。
 霧の中、黒い影が現れた。それは次第に大きくなって、やがて本当の姿を現した。戻って来た者から酒の匂いは漂っておらず、鎧をしっかりと纏った男だった。

「申し訳ないが俺にも見せていただけないか」

 確認、ただそれだけのことだった。幹人は例の紋章を男の顔に突き付け、男はその効力を認めてふたりを門の向こうへと入ることを許した。
 ふたりがため息をつきくたびれた様子を見せながら入って行く姿を背に、入れ替わりで門の番を始めた男は焼き物の酒瓶を手にして蓋を開けていた。
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