異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

溶けた街

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 目の前に待ち構えている街は、既に人という存在を歓迎していなかった。石やアスファルトが織り交ぜられた建物は朽ちて壁に大きな口を開けていて誰でも出入り自由な状態で、勇者を模って作られたのだという銅像は変色していて顔や挙げた手は滑らかな破壊によってその姿を変えられていて背徳的な芸術品と化していた。
 かつては人のために造られ死した街、今となっては人すら受け入れることの出来ない亡霊のような街、ゴーストタウン。
 どこか無機を感じさせる溶けた街に足を踏み入れて、幹人はリリに訊ねた。

「なんだか、寂しいね」
「幹人もそう思う?」

 リリの答えは明らかな同意だった。かつては様々な人々の想いや行動、笑顔や涙、怒りに無心、安らぎに出会う嬉しさや別れの寂しさ、とにかく人というものが常に入り乱れていたであろう。その残骸、人々たちが積み上げ築き上げて来た全てはもうそこにはない。人が無と呼ぶことの出来る情緒の追憶の破片すら遺されていなかった。
 そこに在るのは食い破られたような無機質な街の成れの果て、ただそれだけだった。
 リリは、ひとつ疑問をこの町に響き渡らせていた。無機の色を、疑問という感情で染め上げようとしていた。

「果たして如何にしてって是非とも訊ねたいね。なぜこのような様になったのか」

 その言葉はもっともなものだった。ただ溶ける街といううわさ話だけが流れている状態で、雨が街を溶かしているらしいということ以外は分かっていない状態だった。
 不規則に溶けて独特な踏み心地をしている地面を歩きながら幹人は疑問を自然とこぼしていた。

「雨にしても溶けるならもっと均一じゃないのかな」

 リリもまた、地面を踏み締めて言葉を溢れさせていた。

「雨が原因なら人々が歩いたり台車を引いたことでついた跡に溜まってこうなったのかも知れないね」

 いずれにしても酷い在り様だということだけは悲惨な状態から見て取れた。街の存在そのものが揺らいだとしても揺るぐことの無い事実に、ただ寂しさを感じながら震えることしか出来なかった。

「街全体が溶けてるよ」

 幹人は何度でもその事実を心の中で唱え、想いを繰り返しながら霧国の方から吹いて来る風に撫でられていた。きっと遠くからはるばるここまでやって来たそれに関しても、全体的に埃っぽく濁り切っているように感じた。

「ただ酷い状態ってだけで特別なものとかはないのね」

 リリの言葉によって思い出していた。そう、何もないところには用もないのだ。ただし、雨がなにかの真実へと繋がっていることだけは確か、その正体を探るべく、幹人は溶けた家の中へと不法侵入を開始した。
 乾いた壁に手を触れて、朽ちた手触りを手掛かりに不明は不明のまま、特に何かが変わったというわけでもなく。

「参ったなあ」

 何も収穫がないまま時間だけが過ぎ去って行く、好奇心は今にも折れてしまいそうだった。
――このまま霧国行ってもいいかな
 そう、次元移動に関しては既に最も有用そうな手がかりを鈴香から頂戴しているのだ。それならば集団失踪事件の起きた大樹を目指すべきではないだろうか、ランスに一度会って霧国でのこともそれで終わり、それで。

「それにしてもここだけなのよね、普通に考えて周囲全体のはずなのに」

 リリの言葉に頷いた。恐らく霧国の技術進歩による酸性雨、それを疑っているものの、大きく言えない理由のひとつだった。

「だよね、霧国では多分色々と開発発明されてるから酸性雨かなあって思ったんだけど、この国だけっていうのが気になるんだよなあ」

 工場の煙に充たされて霧に覆われ常に動いて眠らない国。排気ガスが天気をも変貌させてしまう世界、科学は時として魔法をも上回る脅威となることもあった。

「これ以上調べても出ないでしょうね、手がかり」

 雲があたりを覆って、このゴーストタウンをまたしても解体しようと雨を溜め込んでいた。
 リリたちは歩みを進め始める。銅をも溶かす雨になど当たりたくなかった。あまり浴び続けていると全員銅の勇者のようになってしまうかも知れない。雨が降る前にどうにか雲の視界を抜け、ゴーストタウンの外に出た途端、幹人は目にしてしまった。ひとりの男が霧国に漂う死の霧を、つかみ取って雨雲の中に溶かしている姿を、雨雲を操ってゴーストタウン一点に集中させている姿を。
 ここで魔法使いという陰の存在を久々にお目にかかった。彼がすべての元凶だったのだ。

「魔法使いさん、何やってるんですか?」

 訊ねられ、魔法使いはいやらしいニヤけを浮かべながらさぞ愉快そうに無邪気な笑い声を上げた。ふたつの笑いの意味合いはどうにも噛み合っていないように見えた。

「これはな、本来周りに散るはずの雲や霧国の中の霧を集めてるんだ。生け贄は出るが、被害を最小限に留める我々一族の救いだ」

 彼の言うことはあまりにも残酷に感じられた。まるでひとりに苦しみを押し付ければみんなが苦から解放されると言わんばかりの思想。
 幹人は震え上がる。
 この男とはもう二度と関わりたくないとすら思った。仲良くしていても、いつ周りの幸せのために不幸の底に落とされてしまうか分からない関係など、必要ないと思った。
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