異世界風聞録

焼魚圭

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第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

食料生産領

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 ふたりが訪れたそこは広い畑に覆われた土地だった。生き生きとした雑草は作物を育てるために敷き詰められた土の中にその根を伸ばすことを許されず、人の意思によって虐げられて傷つけられ、濃い緑をただその場で滾らせ続けていた。青々とした匂いが国中に漂う中で働く姿はまさに自然の中に生きる人々を描いていた。空の蒼と草原の青、北を見ればそこには海の青。

 世界中が青々としているようにすら思えた。

 辺りを見回してもピリピリとした緊張の静電気や冷たい空気感の気配は指先にすら伝わって来ない。

「北の研究国から遠ざかったんだね」
「ああ、よかった。私たち、生きてるみたいだね」

 安心は計り知れない程に大きくて、すぐさま心になじんで荒波の心模様を静めてくれた。
 田舎の国で働く人々ののどかな生活模様を見ているだけでふたりして疲れを強く感じていた。それでも泊まる場所を見つけるまではと身体に鞭を打って歩き続ける。今の幹人が纏っているイノシシの毛皮の服は真新しくて周囲の目を引き付ける。旅の途中で毛皮を加工して作ってもらったものだった。イノシシ頭のフードを被ることで更に注目を集めることとなる。
――って、これ浮いてるだけじゃん
 存在そのものが浮いている、この景色の中では悪い意味で異彩を放っていた。リリはというと特に変わりのないオリーブ色のコートを羽織っていた。上品という言葉がこの上なく似合うその姿もまた、この国の中では大きく浮いていた。深緑の紐帯をリボンのように結んでいて、それがいつでも幹人の目を惹き付けてしまっていた。心に甘い薄緑の濁りを滲ませて、幸せな旅をしていたのだった。
 そんな旅行者のふたりの姿を見て取って、畑を耕していた男が鍬を肩に担いでやって来た。

「よお、旅行者か、霧国か芸術の国に行くつもりだな」

 正解。否定の言葉を用いる理由などこの世の何処にも見当たらなかった。

「ええ、でも疲れたから、泊まる場所ないかしら」

 男は鍬を海の方へと向けて、必要以上に力強い声を必要以上に振りかざした。

「向こうに泊ってけ。あとここ抜けたら霧国まで泊まれる場所はねえ」

 曰く、この国と霧国の間にはかつて人の住んでいた街の成れの果てがあるのだという。そこはとても栄えていた。この世を救った勇者が持ち込んだ技術を用いて勇者を讃える銅像を作るほどの余裕があったのだという。しかし、いつの時代からか、雨が街を蝕み始めたのだという。町を溶かし、脅かした。人々はそれを神々の怒りの涙と呼び、ついにはみな街を去ってしまったのだとか。
 その人々の子孫の大部分が今この国で作物を耕しているのだという。
 栄えた街に住まう一族の未来は農地で耕す貧民。文明の逆戻りとも呼ぶことができた。
 親切な男に手を振って、幹人はリリに問いかける。

「良いの? ここで泊まって」

 リリは巾着袋を取り出して金を数え始め、途中で放り出した。

「いいわ、お金あるなら命を買わなきゃ。時は金なり、未来の時間を金で買うわ、なんて言ってみたり」

 時と金は同じように貴重なものだから無駄にしてはならない。幹人の頭の中に居着いている言葉の意味はそう言ったもののはずだった。つまり、誤用である。

「リリ、その言葉の意味」

 途端にリリは笑いだし、言ってみせた。

「分かってるわ」

 意図的な誤用だったらしい。あの男を思い出して言いたくなったのだろうか。
 それからふたり、宿へと足を運んだ。受付の若い女がふたりを目にして、死んだ目で訊ねた。

「おふたり様でしょうか旅行者様。家族割は適用されませんがよろしいでしょうか」
 後半は語気を非常に強めて死したような瞳に冷たい圧を掛けていた。

「家族じゃなくて恋人」
「似合ってねえっつってんだ」

 あまりにも乱暴で無礼な女を雇ってしまったよう。リリは支配人に心の中で手を合わせ、態度においては隠し通した。

「最近の作物窃盗事件の犯人ぜってーおめえらだろ。宿じゃなくてサツに寝泊まりしに行けよ」

――最悪な接客だ
 クレーマーが現れて当然の態度、それでも出てこないのはなに故だろう。
 しかし、宿はここひとつ。渋々リリは金を払い、女から多額のチップを要求されたものの、しっかりと断り部屋へと上がり込んで、荷物を置いて食事に行ったのだった。
 外食は基本的な生活スタイルだったようで、どの店も等しく混んでいた。人が入り乱れ、食事を頼んではそれを持って出て行く。みんな手に持っているものは薄い生地で野菜や肉を巻いた料理。つまり、手に持って歩かせることで食事スペースを用意しないという形だった。
 リリは注文の際、気になったことを訊ねていた。

「そういえば、作物泥棒の被害が深刻だそうだけど」

 その問いに答える男、その様は怒りに満ちて、感情がこぼれ出ていた。

「ああ、犯人ぶちのめす、つうか旅行者に言っちゃいけねえって決まりだったよな」

 お金を手渡しながら、リリは凍り付いた。その指先から金が零れ落ちる。全てを悟ってしまったのだ。

「みんなー捕まえろ! 泥棒の犯人が現れたぞ!」

 あの女はここぞとばかりにいじめを仕込んでいた。そう、例えそのせいで人が死んだとしても所詮は他人事。原因といえば自分事だがしらを切り通し、全てを閉ざしてしまえば死人に口なしひとりの世界。
 リリは息を切らしながらどうにか一歩一歩、進んでいるという意識すら認める余裕もなく、ただ進み続けていた。
 幹人といえばあの女に対して大きな殺意を吐き散らしながら走り続けていた。頭の上に乗っているリズと、リリの肩に留まっているメイアを手に、指示を送り込む。
 どちらも共に幹人とリリを助けるべく風を吹かせて宿にみんなで飛び込み、壁に身体を打ちつける。長閑な田舎はどこへやら、幹人は素早く体を起こして部屋に置いていた荷物を手にしてリリを抱いてリズとメイアが互いに撫で合う微笑ましい光景の傍に寄った。途端、リズが大きく耳を振り、強大な風を巻き起こした。内から爆発のように暴れ狂う風は宿を圧して膨れさせ、その姿を悲惨なものへと変えた。
 受付の女は身構えて歯を食いしばっていたものの、建物を破裂させるほどの風に耐えられるはずもなく、風の向きに流され掻き回されて地面に雑に放り出されていた。
 リズたちはそのようなことに気を掛けることもなく、仲間たちをそのまま風で運び、村の外へと脱出したのだった。
 それから夕暮れも薄暗い空へと色を変えて、幹人は疲れに、流れる運命に身を委ねつつ歩き続ける。キツネやイノシシが幹人たちとすれ違い、素早く駆け抜けた様を目にしてリリは全てを悟った。

「噂の作物泥棒って……獣害かい」

 弁解する気力も戻る体力もなくて、リリたちはそのまま誰の領土にもならない外れ土地の小さな宿の一室を借りて、貧しい食事を済ませてすぐさま眠るという作物泥棒と変わりのない本能に身を任せた一夜を過ごしたのだという。
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