異世界風聞録

焼魚圭

文字の大きさ
上 下
224 / 244
第九幕 霧に覆われし眠らぬ国

コウモリ

しおりを挟む
 それはある日ある時の記憶。幹人の脳裏に焼き付いて沈着して、未だにたまに蘇ってくる光景。あの日見た夢の景色。
 リリが幹人の首筋に歯を立てて、血を飲むあの幻。そこに立つ彼女の頭からはコウモリの耳が生えていて、腕にも薄くて広い膜が張られていた。艶めかしい口をゆっくりと動かして幹人の耳元で囁き混じりに呟く姿に釘付けだった。

「白くて細い首、まるで女の子みたい」

――やめて、思い出さないで
 大好きな記憶ではあるものの、すぐ隣に本人がいる限りは恥ずかしさがこみあげて来る。更に上から罪悪感が降り注いで恥ずかしさと混ざって馴染んで、目も当てられない感情の味を何度も知って何度も忘れて繰り返し見て来た古めかしい程に体験した想いを新しく知って。
 焼き付いては冷めて、毎回同じ心の動きをしていて、それでも学ぶことが出来ないのか更に同じ心の動きを再び回して。
 今もまた、同じことを思い出し、否応なく襲い掛かって来る罪悪感の苦みを噛み締めていた。リリに目を向けて、大きく息を吸って、どうにか心を落ち着けようとするものの、行き場のない感情は留まり続けてすっきりとした気持ちに換気が出来ないでいた。息をどれだけ吸い込んだところで奥まで行き渡らない違和感が残り、得も言われぬ息苦しさを作り上げていた。息を吐いてみてもその感覚がつっかえとなって気分は優れることもない。
 そんな幹人の想いなど知る由もなく、リリは遠くを見渡す。目で捉えることの出来る景色は枯れ木色。沈み切った自然の色はいまいち生の気を感じさせない。
 どこまで見通したところで広がる景色は枯れ木の色に充たされるのみ。冷たい木枯らしも相まってとても寂しく感じられた。幹人を抱き寄せて進むものの、リズとメイアの仲良しこよしのじゃれ合いを見つめるものの、寂しさを拭い去ることなど出来なくて。
――私だけ、自分の身も守ることが出来ない
 無力なだけならば問題は大きくない。しかし、それ以上にこの仲間外れから感じ取るものがあった。
――私だけ。みんなと違う……この旅にいなくても、変わりないじゃないかい
 戦いも出来ない、火起こしや食料調達、縫い物まで、全てを魔法に任せていた。その魔法を失った今、幹人の旅に同行する必要もないのだった。一緒に連れて行きたいのなら、幹人がその方法を見つけるまで待ち続けていればいい。今も幹人は何とも言えない表情をしている。
 まさに、存在そのものが必要ないようにすら思えていた。
 リリの悩みは毎日繰り返されて、ずっと纏わりついて来ていた。今まさに直面している悩みというものはそれほどまでに瑞々しくて苦々しい。幹人と顔を合わせる度に自分が欠けていても進んでしまう日々のことを思ってしまう。
 そんな中、今日はひとつ、異なることが飾られた。幹人が一軒の木で造られた家を目にしたのだった。

「あそこで泊めてもらおうよ。リリも疲れてるみたいだし」

 なんということだろう、またしても迷惑をかけてしまっていた。リリが思い詰めているせいで幹人の旅の妨げにまでなるのだ。もうこの旅について行かないことがせめてもの手伝いのように想えていた。
 幹人はほっと息をついてドアをノックする。開いたドアから現れたのは力なき男。ヒゲも髪も伸ばし放題で放置しているのだろう。
 色無き瞳、冷たい感情、感心してしまうほどの関心の無さ。幹人は目の前の男からどことなく父親のような雰囲気を感じていた。
 幹人が事情を説明したところ、男は何度か頷いて、リリの方へと目を走らせた。

「分かった、入れ」

 男にありとあらゆる悩みを見透かされてしまったような気分だった。澱の溜まったような埃で濁り切った感情を殺した目、日々死んだように生きている男の顔をしていた。
 リリは今すぐ己の顔を確かめたくなった。あの男と何ひとつ変わりのない貌をしているのかも知れなくて。感情の鏡映し。リリの住まう国では存在そのものがあり得なかった鏡。自分とは少しだけ違った顔で同じ貌をするそれのように思えて、瞳の上澄みに影が走っていた。
 中へと招待されて待ち受けていた光景にリリは目を見開いた。そこに収まっている物は数々のガラスの管。様々な色の液体を収めて保管されていた。

「北の国の行ないだ、国総出で創り上げた私たちの罪。今では葬り去られた人体改造の薬」

 処分に困って自主的に退職したというラベルを男に貼り付けて保管庫としているそうだ。幹人はひとつ、訊ねた。

「そんなところに招き入れて大丈夫だったんですか」
「別に構わないだろう」

 男は幹人の言葉など全て受け流してリリを見つめ、鋭い笑みを浮かべた。

「なにかを失ったような顔をしてるな、分かるぞ」

 俺がそうだから。そう続けられた。その時点でようやく幹人はリリの悩みに気付かされたのだった。

「もしかして、魔女じゃなくなったから」

 リリは目を閉じ大きく息を吸って、感情露わな瞳と共に口を開く。

「ええ、悩みはそれ。でもそれだけならよかった、ただの役立たずなら。それだけじゃなくて、仲間外れな感じがしたし、何もできない私なんて幹人と一緒に行かなきゃよかったって後悔してるの。幹人が帰る場所を探して私を迎えに来てくれればそれだけで。」

 いやだ、やめて。幹人の口から思わず声が零れ落ち、乱れ咲いていた。

「そんなこと、言わないで。リリと一緒だからここまで来れたんだ。リリがいなかったら、とっくの昔に全部諦めてた」

 ただ帰ったところで父も幹人にそこまで関心がないだろう。帰る価値なんてない。いなくてもいいなら、その場にいてもいなくても同じ事なら、わざわざそこを目指す意味を感じられなかった。
 男はリリに一本の試験管を手渡す。飽く迄も幹人のことなどいないものとして扱っているようで、どこかもどかしかった。

「この薬が全てを解決できる。俺の妻を生き返らせようと作り上げた薬だったが、死人に口なし、飲ませることが出来なかった」

――誤用だ、この人、東ノ国の言葉の使い方間違ってる
 もはや口にすることすら憚られる言葉、仕切りすらないはずの部屋の中で、見えない壁が大いに立ちはだかっていた。幹人の言葉はあの男に情報を渡すための道具にしか成り得なかった。

「かつてこの世には夜しか出歩かずに人の生き血を吸うことで不老不死を貫いた異形がいた。俺は確信している。それはきっとコウモリと同じ習性や似た姿を持っている」

 幹人がかつて見たあの夢、そこに現れたコウモリの姿をしたリリ、思い出すだけで幹人の中で小刻みに震える危機感が幹人に対して悪い予感を告げていた。強い警告の色をぶちまけて、言葉を熱い衝動に乗せて口から噴き上がらせる。

「ダメだ、夜でなきゃ外に出られなくなるよ!」
「飲む飲まないは自由だが、飲めば楽になる」

 不穏な響きを持った言葉はしかし、幹人の知る使い方ではなく、単純にコウモリのチカラを手に入れて戦うことが出来るようになるのだということだろう。

「お前の不満に訊け、他の誰でもないお前自身に」

 テーブルに並べられた試験管は中に入っている薬によって色とりどりのビンとなっていた。人生の選択はただ一度、どの道を選ぶのか、それによってどのような色にでも変わってしまう。
 リリは渡されたガラスの管を試験管立てに戻し、男をしっかりと見て、感情の色を抑えた冷たい声で答えを示した。

「ありがとう、でも、夜だけの冒険は都合が悪すぎるわ」

 それから加えられた言葉、それにリリの心の中を大きく渦巻く想いがにじみ出ていた。

「夜という時間は、最もよくお互いの本音が出るもの、ゆっくり過ごしたいね」

 幹人にはリリの表情が少しばかり緩んだように見えた。
しおりを挟む

処理中です...