異世界風聞録

焼魚圭

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第八幕 日ノ出ズル東ノ国

洋子の空腹

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 空の頂から太陽が落ちようとしていた時のことだった。腹を空かせた女はただ歩きながら、夫に欲を伝える。食べ物が欲しくて、腹を満たしたくて、頭の中で食べろ生きろと騒ぎ立てるひび割れた調。

「すまないが、耐えてくれ」

 この国では満腹を実感しながら生きることの出来る者などほんの一握り、貴族の他にはほぼほぼ手の届かない贅沢だった。

「私の飢えは悲しみは、いつまでも充たされないのね」

 ため息をついて、いつまで経っても忘れ去ることの出来ない不満を静かな声で伝えていた。
 再びため息が零れ落ちる。顔の整った女、洋子の美を台無しにしてしまいそうな行ないを、夫は洋子の柔らかで温かで艶やかで心沸き立たせ彩りをもたらす色気の権化のような唇に指を当てて止める。

「落ち着け、悲劇なんて大きくも小さくも、形は様々だがそれは此の世で最もありふれた感情だ」

 悲しみや苦しみを見渡して浸ることは易く、喜びや楽しみを見つけて心を晴れやか笑顔に変えることは非常に難しい。

「どんな時でも希を望むことに臨め。手を伸ばせばいつでも隣に隠れているものだ」

 洋子は空を仰ぐ。
――違うよ、私はお腹いっぱい食べることが幸せで
 洋子の望む幸せは今の世の中ではあまりにも高すぎて、どれだけ手を伸ばそうとも届かないほどに遠い空のようだった。太陽を掴むような話は手に負えなくて途方に暮れる。太陽が落ちて陽が暮れて、それでも届かない程に遠い憧れ。

 洋子は、様々な美味に憧れ恋焦がれ明け暮れることない欲望の闇に閉ざされた想いを抑えようと思いに暮れていた。
 満腹や飽食は町の中の誰の口からも出て来ることはなく、洋子は想いを共有することすら出来なくて。共感することにすら飢えていた。
 この世の全てに不満はついて来て、蔓延る仄暗い感情は洋子の中の何もかもに飢えをもたらした。
 夫がいて甘味処で看板美人として持て囃されているからなんだというのだろう。幸せに気付くことが出来ないことが不幸なのだと誰にでも分かる簡単なことを言う者もいたが、それが大嫌いだった。幸せすらもたらされないこと。分かりやすいことだが認めようとしない。その欲望を軽蔑する人々が嫌で堪らなかった。そんな建て前だと分かっている態度の裏の感情を知っていても読み取れても尚、本音を共有したかった。明るい話題で話すことに飢えていた。人と本心で触れ合うことに飢えていた。
 飢えて飢えて飢えて飢えて飢えて。
 気が付けば幹人とリリのふたりがいた。荒々しい者を抑える力と本音を放つ彼らに惹かれて雇って。
 しかし、全ては遅かった。
 溢れ出る飢えは今更充たそうとしたところですでに我慢の限界を超えていた。彼らの楽しそうな笑顔に浸りながらそれに嫉妬していた。味わっているにもかかわらず、同じものを欲していた。食べても食べても食べている気がしているはずなのに食べていない気がしている。心の飢えを充たしているはずなのに全くもって充たされなくて、遂には魔女の力を目覚めさせてしまって夫を――――


 洋子は目を開いた。全ては悪い夢だったのだろうか、着物は梅が咲き誇る桃色をしていた。簪からも、零れ落ちてしまいそうな大きさの椿が咲き誇っていた。
 全ては、悪い夢だったのだろうか。暗い森の中、寝そべった洋子を抱きかかえるように頭と胸の下に手を回している女の子が洋子に優しい声で言葉を聞かせていた。

「だいじょうぶ……全部、気のせい……だから。後ろ……振り向かないで、ね」

 鈴香に励まされて、小さな手から弱々しい声から、大きな優しさと強い温もりをかんじていた。洋子は幼い少女の手によって救われていた。
 そんなふたりを差し置いて、綾香は疲れ果てて弱り切った身体を引き摺って、ある死者へと歩み寄る。額に貼られた呪符を剥がし、原型の残された顔を眺めて、綾香は驚きに目を見開いて。しかしすぐに笑顔に変えて抱き締めた。

「悠菜!」
「あ……あぁ…………綾……香」

 幼いまま、時を止めてしまった、今を歩むことすら許されなかった幼いあの子の顔が、愛しいあの子の貌が、夜の闇をも払い消すような無邪気な笑顔を咲かせていた。

「悠菜、悠菜! 会いたかったよ」

 呪符の力は悠菜の身体から抜けて行く。抱き締められた幼子の身体は本来とっくの昔に訪れていた死へと戻りゆく。

「えへ……大……好き」

 綾香、最後にその名を呼んで、死の世界、此岸の向こうへ、川を渡って戻ってしまった。
 その様を見て吐き捨てられる晴義の言葉は綾香の全てを踏みにじるものだった。

「とんだ茶番だ! 俺はお前如きの茶番のためにあの女を呼んだわけではない! 返せ! あれを呼ぶための苦労と時間と俺の目的を……返せ!」
「何が目的だったのか話せよ」

 幹人の言葉に食いついて、晴義は声を振り絞って、目の前でしゃがみ込む女に対して軽蔑のまなざしを向けながら答えて見せた。

「この女が犯人だったことは分かっていた、しかし、行方が分からなかった。だからあれを呼び出して気配を探ろうとしたんだが、上手く行かなかったからな。せめて人質にして、最終的には両方殺そうと思っていたのだが」

 幹人の脳が沸騰する勢いで熱を発していた。怒りのあまり、普段では考えられない程に荒々しい声が出て来た。

「お前には人の心がないのか! お前みたいなのが人を名乗る資格なんて」

 もはや綺麗な言葉など、美しいきれいごとで飾られた想いなど、必要なかった。本音で語り、本気の怒りをぶつけるだけ。
 それだけでよかった。

 この世界には主役も脇役も悪役も、役柄など何ひとつないのだから。
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