異世界風聞録

焼魚圭

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第八幕 日ノ出ズル東ノ国

なに故

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 倒れている洋子をリリは抱き締める。身体の温もりや息遣い、人としての活動を続けていること、生きていることを確かめてほっと一息ついた。

「よかった、生きてる」

 ただ寝ているように見えた。リリは幾度となく揺すってはみるものの、起きる気配が全く感じられなくて不安の霧は晴れることもなくて。

「起きるのかしら、心配」

 幹人にも伝わったようで、顔を覗き込む。眠る美女の意識は梅の柄の絢爛なる薄緑を身に纏っていずこへ向かったのだろう。

「起きたらいいけど、元気になれば」

 幹人としては洋子の眠れる表情の中に眠り続ける感情が少しばかり浮き彫りとなっていて、覚えのあるその貌を過去から引きずり出していた。邪気の少ない貌、何をしてもそれは正しいのだという意志を感じさせるそんな表情。追憶の中でのあるふたりのある時の顔のようだった。
――これじゃあまるで
 その時は心配ばかりで気が付かなかったが、思い返して視れば視るほどしっかりはっきりと確認できた。リリは気付いていない、気付かせるのは危ない。眠る洋子、消えた男と残された男の纏っていた服の布切れ。幹人の推測が正しければきっとリリは洋子に容赦などしないだろう。

「洋子が見つかったのはいいけども、夫の方はどこに行ったのかしら」

 有象無象の魔力が気ままに走り回り混じり合う、この場に於いて個人の魔力の察知すらままならないのだろうか。それがために幹人は口を閉じることを許されていた。リリは頭が限界を超えてしまうこと、意識がパンクしてしまうことを分かっていたがために魔力を眺め過ぎないように気を付けていた。万物に魂の宿るという信仰が昇華されて生まれたこの国特有の魔力群。

 幹人は八百万の神聖なる色彩たちに感謝していた。

 どうにか息を整えて、言葉を慎重に探し出して、リリに向けて。

「女の子を狙う人から洋子さんを守ったんじゃないかな」

 悟らせてはならない。洋子はきっと一週間近く目を覚まさないだろう。嫌な予感が寒気を誘う。外の空気と一体となって、ますます寒気は強まって行って。
 目を閉じて魔力を視る。辺り一帯の魔力を掻き分けて、洋子の魂を見つめる。何かが充たされて大きくなったそれはやはり幹人の想像が的中しているのだと語っていた。
――ああ、やっぱり
 洋子は、夫を取り込んだのだろう。もしくは夫を殺した者を。しかし後者であればどのように夫の跡をここまで残さずに、抵抗の痕跡すら残さずにやったのだろうか。前者もまた同じ疑問が覆いかぶさるものの、比較的目の前の状況に近いだろうか。
 ひとり分、およそ倍になっている魔力は洋子に纏わりつくように絡みつきながら宿っていた。夫は未だに洋子の中で生きているのだろうか、否、洋子が真に愛している者ではないのだから取り込んで長らく生かすはずもなかった。
 魂の姿を使った後の眠り、それは明らかなものだった。分かりはしたものの、問題は幹人の中で膨れ上がっていた。
――なんでだろう、どうしてだろう
 わざわざ身近な人物を取り込む、つまり食べなければならない理由、それが理解できなかった。
 食事の時間は一緒でないためどのような食生活を送っているのか分からないものの、飢えていたことだけは間違いないだろう。本当の想いを映し出した姿となって人すら食べてしまうのだから。ただそれならば夫でなくてもいいのではないだろうか、女を喰らえば噂に便乗できるのではないだろうか。洋子を背負ってリリは歩き始める。

「こんなところで寝てたら風邪ひいてしまう、というより死に飲まれるな」

 寒さは肌を刺す。厳しい気温は容赦という言葉を知らない。いつだってそう。人間が環境に合わせようにも彼らの歩みは歴史の流れを見れば分かる通りあまりにも遅すぎる。
 リリに歩幅を合わせてついて行く一方で幹人の思考は目にも止まらない速さで流れ続ける。
――もしかして、女の子もうほとんどいないから、次は男にも手をかけ始めて……
 この町に住まう人々、その全てが洋子の食料なのだろうか。そう考えるだけで幹人の背筋に新たな寒気が走った。きっと数年後には町ひとつが消えてしまうだろう。
 そこから疑問がまたひとつ、加えて産み落とされた。
――でもどうして女の子ばかり
 魂の姿は本音の姿。食べたいだけ、飢えた魔法使いの秘術ならば性別を問わないか、性別にこだわるのが本音であれば別の集落でも探して女を喰らうだろう。
 考えれば考える程おかしなことばかり、洋子と向き合うにあたってもどう接すればよいのか。分からないことだけで塗り上げられた世界がそこにはあった。
 幹人の様子から落ち着きは一切見て取れなかった。袖がせわしなく揺れて、美しい模様から美しさの欠片も見せない動き。
 激しい動きはひたすら続けられていたものの、突如右側の袖が動きを止めた。

「あの……大丈夫?」

 幹人の右の袖を控えめにつまむのは幹人の鼻の辺りに頭が来るほどに小さな女の子。茶色がかった金髪は、異国の香りを漂わせていた。

「大丈夫、大丈夫ですから」

 顔を上げた女の子は控えめな輝きが射し込んだ大きな茶色の瞳で幹人を覗き込む。

「……本当に?」

 なぜ訊ねて来るのだろう、疑われているのだろうか。分からない。その疑問を「いやホントウですから」のひと言で済ませて傍で立ち尽くすリリの方へと足を向けようとしたその時だった。

「待って、お話……終わって…………ない、から」

 目の前の純粋の権化のような柔らかな香りと色をした女の子は細くて小さな高い声で、その名を口にした。

「私の……名前、鈴香っていうの。……よろしく」
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