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第八幕 日ノ出ズル東ノ国
倒れて
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帰りの道は暗闇に閉ざされていて、そこに浮かぶ提灯の群れが世界に色を塗っていた。幹人の目は闇を流れる提灯たちへと引き付けられて、心は灯りの芸術に惹き付けられる。
夜道にご用心、それはこれだけの人の混みあいの中でも言わなければならないことだろうか。夜の住人、女を狙う何者かは現れる気配もなく、幹人は警戒心を忘却の壁の向こうにまで放り投げていた。
「夜の光の川、人が作ってるのにまるで此岸と彼岸を分けてるようにも見えるよう」
リリの落ち着いた声は夜の賑わいの中、闇の芯に留まる静けさをいつでも思い出させてくれる。余裕のある時に人だかりの中でふたりきり。誰も見えなくて、誰もが幻想の陰のよう。リリに手を引かれてただ歩くだけの幹人は影法師。
リリの言葉を受けて人だかりが三途の川にも思えていて、ふたりきりの感情が強く鳴り続けていた。誰にも気付かせないまま広がる波紋の残響は、染み渡り澄み渡り、薄れて行っても尚、心地よく残り続けていた。
「此の世だと思って歩いてたら彼の世だった、なんてことないよね」
あまりにも沈み切った闇、澱のような濃い暗黒は美しさを運ぶ一方で幹人に不安を抱かせる。
リリは静かな声に艶と強さを乗せて答える。きっとあの微笑みを浮かべて言葉を奏でているのだろう。しかし、幹人にとっては笑い飛ばすことの出来ないものだった。
「山を歩いてたら異界に突然飛んできたんだろう? もしかしたら」
寒気がより一層強く立ち込める。存在感を増しているように感じるのは気のせいだろうか。リリの手の冷たさは気温によるものだろうか、それとも彼岸に落ちてしまったのだろうか。
流れる沈黙は、蔓延る静寂は、幹人の想いを閉じた口に代わって告げていた。
見えなくても伝わってしまうものだろうか、リリはいつもの控えめな笑いを声に出しながら幹人の心に言の葉を落とした。
「冗談。大丈夫、私たちは生きてる」
それから少しの間、寒気に身を震わせながら甘味処へと戻る。あの男は既に許してくれたのだから入っても構わないだろう。そう言い聞かせながら男の言葉の気迫の残り香に圧し潰され竦める身を無理やり押し込んだ。
一度植え付けられた恐怖はそう簡単には取り払われないようで、湿っぽい埃のようにいつまでも纏わりついていた。
「今思い出してみてもあの男、激しく怒りすぎじゃないかしら」
リリも同じことを思っていたようで、それを支えに幹人の震えは少しだけ収まった。
そこからの行動は早く、布団を敷いて中へと潜り込む。気温に毒された布団がふたつ。冷たい敷布団と厚くて冷え切った敷布団に挟まれながら身を震わせる。
「冷える」
「本当に」
彼らが帰って来る時が来れば戸が開く。開かれた戸からは恐らく恐ろしい冷気があいさつもなしに堂々とお邪魔してくるだろう。出来るならばその時よりが来るよりも早く夢という不可避の世界に逃げ込んでしまいたかった。眠ってしまえばこちらのもの、気温によって冷蔵保存されていた布団たちが人の温もりによって心を解かしていく。温まり始めて、まだまだ気持ちの悪い温もりを帯び始めていた。布団はすぐに人に感化される、嬉しそうに言うリリはそこからすぐに静けさを手に入れ寝息を立てるだけの女と化した。
――もう寝てる、羨ましい
幹人の寝付けは良いとは言えなかった。夜、女が隣の布団で眠っている。それを想うだけで眠りのセカイは遠ざかり、心は妙な熱い踊りを繰り広げていた。
救いようのない自身の心、少なくとも今日は救われようのない思春期の想い。それに浸りながら、リリを想いながら身体を布団と変態心に預けて成り行き任せ。
「リリ……カワイイよ、リリが、大好き」
ついつい声に出して呟く。共に意識は膨れ上がって更に色濃くなって。それからどれだけの時を楽しくも苦しい味に浸かり続けていただろう。気が付くこともなく意識は布団に手伝ってもらって作られた温もりと闇に飲まれていた。
☆
意識が帰って来た。瞼は重いものの、目は開いた。その時出迎えてくれていたのはキジバトの優しい鳴き声。独特な鳴き声は癒しを静かに差し出している。それを自然と受け止めて、幹人は浸っていた。
――冬でも鳴くんだね
活発ではないものの、多少の響きがとても可愛らしくて幹人は好きだった。ただし、リリに理解してはもらえないというのが現実というもので。
「幹人にはこれが可愛いと思えるのね、朝から鳴いて」
リリがセミの鳴き声を聞いたその時の反応が楽しみで仕方がなかった。耳を殴りにかかるような騒音の洪水は未だ来ず。
体を起こして見渡して外で団子の準備をしているはずの男の姿を見かけないことに気が付いて、幹人は焦りを抱えていた。
「いないんだけど。どうする? 今日の営業は中止かな」
リリはそれを耳にして、洋子の姿もないことを確認する。
「夫婦揃って帰って来てないだなんて……何があったのかしら」
膨れ上がる疑問、止まらないそれを抱えてふたりは走り出した。銭湯に行くまでの道、その途中にあるはずの食事処や着物屋の暖簾をくぐっては人々に訊ねるものの、手がかりは何ひとつ得られないまま焦りと不安だけが募って脈を打って加速して。
やがて銭湯の近くに留まる人だかりがあるのを目にして立ち止まる。幹人はある光景を目にして、全てが無の白に染め上げられてしまった。遅れてリリも瞳に映したそれの衝撃に頭を打たれて思考は止まって吹き飛んで。
その場にいた者、それは地に眠る洋子と色の異なる布の破片だった。
夜道にご用心、それはこれだけの人の混みあいの中でも言わなければならないことだろうか。夜の住人、女を狙う何者かは現れる気配もなく、幹人は警戒心を忘却の壁の向こうにまで放り投げていた。
「夜の光の川、人が作ってるのにまるで此岸と彼岸を分けてるようにも見えるよう」
リリの落ち着いた声は夜の賑わいの中、闇の芯に留まる静けさをいつでも思い出させてくれる。余裕のある時に人だかりの中でふたりきり。誰も見えなくて、誰もが幻想の陰のよう。リリに手を引かれてただ歩くだけの幹人は影法師。
リリの言葉を受けて人だかりが三途の川にも思えていて、ふたりきりの感情が強く鳴り続けていた。誰にも気付かせないまま広がる波紋の残響は、染み渡り澄み渡り、薄れて行っても尚、心地よく残り続けていた。
「此の世だと思って歩いてたら彼の世だった、なんてことないよね」
あまりにも沈み切った闇、澱のような濃い暗黒は美しさを運ぶ一方で幹人に不安を抱かせる。
リリは静かな声に艶と強さを乗せて答える。きっとあの微笑みを浮かべて言葉を奏でているのだろう。しかし、幹人にとっては笑い飛ばすことの出来ないものだった。
「山を歩いてたら異界に突然飛んできたんだろう? もしかしたら」
寒気がより一層強く立ち込める。存在感を増しているように感じるのは気のせいだろうか。リリの手の冷たさは気温によるものだろうか、それとも彼岸に落ちてしまったのだろうか。
流れる沈黙は、蔓延る静寂は、幹人の想いを閉じた口に代わって告げていた。
見えなくても伝わってしまうものだろうか、リリはいつもの控えめな笑いを声に出しながら幹人の心に言の葉を落とした。
「冗談。大丈夫、私たちは生きてる」
それから少しの間、寒気に身を震わせながら甘味処へと戻る。あの男は既に許してくれたのだから入っても構わないだろう。そう言い聞かせながら男の言葉の気迫の残り香に圧し潰され竦める身を無理やり押し込んだ。
一度植え付けられた恐怖はそう簡単には取り払われないようで、湿っぽい埃のようにいつまでも纏わりついていた。
「今思い出してみてもあの男、激しく怒りすぎじゃないかしら」
リリも同じことを思っていたようで、それを支えに幹人の震えは少しだけ収まった。
そこからの行動は早く、布団を敷いて中へと潜り込む。気温に毒された布団がふたつ。冷たい敷布団と厚くて冷え切った敷布団に挟まれながら身を震わせる。
「冷える」
「本当に」
彼らが帰って来る時が来れば戸が開く。開かれた戸からは恐らく恐ろしい冷気があいさつもなしに堂々とお邪魔してくるだろう。出来るならばその時よりが来るよりも早く夢という不可避の世界に逃げ込んでしまいたかった。眠ってしまえばこちらのもの、気温によって冷蔵保存されていた布団たちが人の温もりによって心を解かしていく。温まり始めて、まだまだ気持ちの悪い温もりを帯び始めていた。布団はすぐに人に感化される、嬉しそうに言うリリはそこからすぐに静けさを手に入れ寝息を立てるだけの女と化した。
――もう寝てる、羨ましい
幹人の寝付けは良いとは言えなかった。夜、女が隣の布団で眠っている。それを想うだけで眠りのセカイは遠ざかり、心は妙な熱い踊りを繰り広げていた。
救いようのない自身の心、少なくとも今日は救われようのない思春期の想い。それに浸りながら、リリを想いながら身体を布団と変態心に預けて成り行き任せ。
「リリ……カワイイよ、リリが、大好き」
ついつい声に出して呟く。共に意識は膨れ上がって更に色濃くなって。それからどれだけの時を楽しくも苦しい味に浸かり続けていただろう。気が付くこともなく意識は布団に手伝ってもらって作られた温もりと闇に飲まれていた。
☆
意識が帰って来た。瞼は重いものの、目は開いた。その時出迎えてくれていたのはキジバトの優しい鳴き声。独特な鳴き声は癒しを静かに差し出している。それを自然と受け止めて、幹人は浸っていた。
――冬でも鳴くんだね
活発ではないものの、多少の響きがとても可愛らしくて幹人は好きだった。ただし、リリに理解してはもらえないというのが現実というもので。
「幹人にはこれが可愛いと思えるのね、朝から鳴いて」
リリがセミの鳴き声を聞いたその時の反応が楽しみで仕方がなかった。耳を殴りにかかるような騒音の洪水は未だ来ず。
体を起こして見渡して外で団子の準備をしているはずの男の姿を見かけないことに気が付いて、幹人は焦りを抱えていた。
「いないんだけど。どうする? 今日の営業は中止かな」
リリはそれを耳にして、洋子の姿もないことを確認する。
「夫婦揃って帰って来てないだなんて……何があったのかしら」
膨れ上がる疑問、止まらないそれを抱えてふたりは走り出した。銭湯に行くまでの道、その途中にあるはずの食事処や着物屋の暖簾をくぐっては人々に訊ねるものの、手がかりは何ひとつ得られないまま焦りと不安だけが募って脈を打って加速して。
やがて銭湯の近くに留まる人だかりがあるのを目にして立ち止まる。幹人はある光景を目にして、全てが無の白に染め上げられてしまった。遅れてリリも瞳に映したそれの衝撃に頭を打たれて思考は止まって吹き飛んで。
その場にいた者、それは地に眠る洋子と色の異なる布の破片だった。
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