異世界風聞録

焼魚圭

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第八幕 日ノ出ズル東ノ国

野郎

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 幹人は壁を見渡した。材質がイマイチ頼りなく感じてしまうのは幹人が人生の大半を過ごしてきた世界の中の普遍的な造りが災いしてのことだろうか。木の壁土壁、どう足掻いても幹人の知るものと比べてしまう。六文払って異様に低い入り口をくぐり抜けて薄暗い部屋へと入り込む湯気が敷き詰められていて、男どもがひしめき合っていて、実に息苦しい場所。熱に苦悶の表情を浮かべていた。蒸し暑さはこの上ない心地悪さを生んでいた。
 石榴口、浴室へと繋がる背の低い入り口はそう呼ばれているのだそうだ。屈み入ることから鏡鋳る、鏡鋳るとは鏡を磨くことで鏡を磨くために用いられる道具がザクロの実であるがためにそう呼ばれるのだそうだ。
――ダジャレ大国日本に万歳だな
 幹人の心の声など異界の向こうの考えで、世界には届くこともなかった。分かり切っていることではあったものの、少しばかりの寂しさを感じていた。
――真昼さん、元気にしてるかな
 ついつい考えてしまうこと。彼女の目的と幹人の理想は互いに見つめ合ったところでぶつかり合って交わることが出来ないだろう。敵になるかも知れないと分かっていながらも密かに気になってはいた。
 そんな想うだけでは状況も動かすことも出来ないものなど他所に置いて、幹人はかけ湯をして湯船に浸かる。水は貴重で身体や髪をせっけんの類いで洗うと水を大量に使ってしまう、特に髪は男女問わず伸ばすため、非常に大量の水を使ってしまう。そういった理由で風呂場で洗うのは禁止しているのだそうだった。
 のぼせ上ってしまいそうな湯気の熱に全てが染まり始める。元の世界で入っていた風呂よりもはるかに暑い、それは間違いなかった。熱いお湯は幹人を茹で上げようと熱で息までをも締め上げにかかる。
 少しの間、少しだけ、耐え抜いて、我慢して。
 幹人は耐え切れずに風呂から上がる。想像以上に苦しい熱はそこにいるだけで修行僧となったような気分だった。熱が喉にまで這いずるように入り込んで来る感覚を思い返し、幹人の全身にえも言えぬ震えが走った。それは寒気だろうか。熱い空間に慣れてしまったがために感じる普通の空気が冷え冷えとしていた。
 タオルで身体を拭いて着替えて、冷静という言葉の示す心情を取り戻したようで大勢の人を閉じ込める蒸し焼き窯を見つめながらため息をついた。
――結局久ぶりのお風呂もこの程度の時間で上がっちゃったし、愉しめなかったなぁ
 時代の違いがここまで体感温度の差を生み出しているのだろうか。
 早く上がろう、上がらなければ、身体よ動け。身体。言うことを聞いてくれる気配を感じさせない身体、のぼせかけで既に茹でタコのよう。
 そんな幹人の頬を叩き、耳を振って魔法をかける魔獣が頭の上にいた。

「リズ!」

 幹人としてはあまりにも想像からかけ離れた状況、リズの世話になるという予想の外側で塗りつぶされてしまっていた展開。露わになった途端、展開は素早く踊り出すように目立ち幹人を引っ張った。
 リズが魔法で幹人を操り、浴室を出て着替えてその場で待ち始めた。

「リズ、ありがと」

 礼を述べ、感情の色でリズの心を塗って。
 リズは何かを言われても幹人の頭の上でただ耳を揺らしているだけだった。
 それから時を待たずして洋子が目を見開きながら戻って来た。肩にはリリの腕が欠けられていて、動かないリリが状況を物語っていた。

「熱かった……」

 その顔に余裕など宿ってはいなくて茹で上がりの赤なのか疲れによる青ざめなのか、良く分からない色合わせだった。顔は赤くて貌は青白い。

「リリものぼせてる」

 疲れ果てて冗談を言う力も気も残されていなくて出てきた言葉は簡単なものだけだった。

「危なかった、オンナノコたちの色気にのぼせるとこだった」

 リリの口から飛び出してきた言の葉は本音なのか冗談なのか、幹人の心に届いたそれは全く噛み砕くことの出来ないもので、ただただ困惑の味を噛み締めて見ていることしか出来ないでいた。

「ああ、幹人の可愛さに更にのぼせて行く」
「そういうのいいからっ!」

 幹人は少しばかり元気を取り戻したのだろうか、先ほどよりも声の芯が通っているように感じられた。
 そんなやり取りが洋子の心に刺さったのだろうか、手で口を覆い隠して静かに笑い、ふたりにキラキラとした感情を撒いていた。

「ふたりとも良い夫婦になれそうですね、良かったね、リリ」

 女子風呂の中でどのような会話が飛び交っていたのか想像も付かないものの、少なくとも幹人への愛を語ったことだけは理解できた。不明の中から見つけて引いた糸を大切に抱くような構図をしていた。

「さあ、幹人、私を引っ張って。その間に絡まって解けなくしてみせるから」

 情を絡めて心を強く結びつける。そんな意志を感じて幹人は洋子の肩に掛けられたリリの腕を取り、共に歩き出そうとするも、揺らめいて視界は地を向いていた。倒れてしまったのだと理解するまでにそれなりの時間を過去へと流していた。

「きっと五十度くらい、幹人にもきつかったかな」

 大きく頷く。幹人の風呂の温度は四十度前後だった。リリに至っては蒸し暑さは砂漠や火山といった研究関係でしか触れたことの無いであろう。起き上がることも叶わずにふたりのぼせが引くのを待つ他なかった。

「ずっとこのままだったらどうする? 私は幹人とずっとそばにいられるのは嬉しいけど」

 嬉しいはずの言葉、光栄に思って浸るべき言葉、その色は何故だか幹人には寂しくて、未だ来ない時を想っているだけで胸が締め付けられた、煮崩れしてしまいそうだった。
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