異世界風聞録

焼魚圭

文字の大きさ
上 下
194 / 244
第八幕 日ノ出ズル東ノ国

夜道

しおりを挟む
 家の中と外、隔たりは大きなものなのだろうか。団子を焼きつつリリを眺める。アサガオの柄が生きた薄紫色の着物はリリが動く度に広い袖を揺らして活きていた。昼間の労働、目の前で水越しに見ているように感じられるその姿はこの世で最も美しくて儚い白昼夢。手を伸ばそうとして、そこで留める。出来上がったそれに触れるのは、壊してしまうのは、違うのだと思い直して。

「幹人、団子と緑茶を頂戴、運ぶから」

 緑茶を淹れて、団子を乗せた皿と共にお盆に乗せて手渡して。夢の続きを、美しき幻想のような現実に瞳を潤し見渡し続ける。細かな日差しの中で見せるための笑顔を作って武士に頼まれた品を差し出す姿、髪を簪で留めているがために露わとなっている額、何もかもが妙な色気を放っていた。
 幹人の熱が行き渡ったのか、リズが頭から降りて顔を激しく振って丸まり、耳をゆっくりと揺らす。こうした動作のひとつひとつにまで幸せの感情を得られるのはリリに抱いた恋心とリリからの本音を伝えられると言った経験を通してのことだろうか。
 人が持つものの中で、人が見る世界の中で、最も美しい花は咲き誇ることでどこまでもセカイを広げているように思えた。この旅を通して幹人は明らかに成長していた。きっと誰の心にも眠っているはずの感覚を起こして視るヒト、恋の花を咲かせたあの人はどこまでも美しくて見ているだけでも息が詰まってしまうほどだった。

 そうして幹人が恋に溺れて考えごともおぼつかない中で働いている姿を一瞬だけ窺いつつ、リリは武士と言葉を用いたやり取りをしていた。

「見ない顔だろう? 私は最近ここに来たばかりで旅費を貯めるために働いてるの」
「ほほう、少し肉付きが足りない気がするし美しさが足りない気もするけどいいな」

 黙って面食い、吐き出したくなる言葉をどうにか抑えて、リリは別の言葉を選び抜いた。

「この国に入って初めて聞いたのだけど、簪を挿した夜に気を付けろ、ってどういうことかしら」

 お訊ねに対して得意げな顔で返す武士。彼の自信に満ち溢れた純粋な貌は、大人でありながら幹人よりも子どものように思えた。

「それはな、そもそもこの町では女はみな簪を挿すのだ」

 ここまで言えば察せよの精神で言葉を止めた。これ以上武士からは語られそうにもなくて、リリは考えを巡らせた。この町で女はほぼ全員が簪を挿す、つまり女は夜道に気を付けろということだ。
 この町に来てからというものの、リリは戦いの出来る女というものを見ていない。武士は全員男。力のある者はみな男。つまり、女をつけ狙う卑怯者がいるのだということ。快楽目的か、金銭目的か。
 そして一応逸話から生まれたおぞましき妖怪の祟りという可能性も考えていた。
――後者なら面倒ね、前者なら私のチカラで
 魔女としての能力全開ですぐさま取り締まることが出来る。ただそれだけのお話だった。
 思考するリリをよそに何やら怒鳴り声のやり取りがあって、昨日に似た光景が繰り広げられていた。

「ようこは俺のもんじゃ!」
「うっせ! ようこは俺の将来の妻になるもんじゃもんじゃもんじゃ焼き」

 聞くに堪えない低くて太くてよく通る叫びに耳を思い切り叩かれて、リリは無理やり声を絞り出して飛びついた。

「もんじゃもんじゃうるさいわ! ようこには『素敵な』旦那さまがいるの!!」

 言葉と共に飛び出した魔法は少々荒々しくて武士ふたりは身体から紅くて生温かな液体を流させてしまっていた。

「新入りの醜女が何か騒ぎ立てておるのじゃぞ!」

 そのひと言に対してリリの傍にいる人物の熱量が上がっていた。堪忍袋の緒が切れたのはどうやらもうひとりの女だったよう。大きなため息をわざとらしく着いて洋子は武士たちにつららのように冷たくて鋭い言葉を向けた。

「誰が醜女ですって? うちの彼氏持ちの可愛い働き手をよりにもよって黄泉の鬼に例えるだなんて余程締め出しの刑を受けたいそうですわねえ」

 どこが黄泉なのだろう。ここがそうなのだろうか、ふたりの武士は鬼の如き怒り狂う女ふたりの様に怯え狂って団子代と茶代、合わせて八文を投げて震えながら後ろを振り向いたままにおぼつかない足取りで逃げ出した。

「悪鬼はあなた方の態度が生んでいるのだと、言って差し上げたいものですね」

 成長すらしないままにあそこまで育って上から妻をもらって結婚する、そういった生き様が当たり前な男たちに成長など見られるはずもなかった。
 終わったことは終わったこととして頭の中から消し去って気持ちを切り替える。

「ふふぅ、ようこに罵られたい」
「向こうのアサガオの声で叱られたい」

 救いようのない変態たちが忘れることを許してはくれないようだった。
 それから仕事を終えて日が暮れて、空が闇に閉じられると共に店は閉じられて。リリと幹人のふたりは粗末な着物に着替えて、分厚い布を羽織って中に大量の綿を詰め込んで紐の帯で縛っていったん戸をくぐり外へと向かった。話によれば夜遅くまでやっている場所、夕食が待っているこの時間が稼ぎ時の店もあるのだそう。
 夜道を歩くふたりの中で警戒心は膨れ上がる。提灯を手に、頼りない明かりに大きな頼りを乗せて進む。夜の闇の中、澄んだ空に輝く星たちは辺り一面に散りばめられたひとつの芸術だった。

「星が綺麗」
「幹人もそう思う?」

 町の中を歩いて、気が付けば町から出ていたようで人の気配が失われていた。それでも構わずにリリは右へと進む。そこはちょっとした森を抜けて現れた崖。木が不自然に伐採されて作られたような広場は観光用なのだろうか。
 そこにたどり着くと共にリリは提灯を幹人に手渡して森の中へと戻る。きっと今日の夕飯をこしらえてくるつもりなのだろう。幹人はその場にあった切り株の椅子に座り込んで空の海に広がる星を眺め始めた。全てが生きているようで幻想的な光景、蛍のようにも泡のようにも見えるそれは、綺麗という簡単な言葉しかこぼすことが出来ないほどまでに幹人を壮大な美で圧倒していた。
しおりを挟む

処理中です...