異世界風聞録

焼魚圭

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第八幕 日ノ出ズル東ノ国

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 リリは髪を掻き上げて幹人に視線を流す。うなじと流れるような滑らかな髪が日に透けて幹人の心の底までしっかりと光を届けて美しく彩る。
 その魔女は、時たま色の魔法を扱う。

「どうかな、この辺りに簪を挿すのだろうけど、似合うかな」

 白く細い絹を想わせる傷ひとつない手は、目には見えない柔らかさを持っているのだろう。触れずに想像の世界の中で味わう。調和を重んじて世界を回す国で周囲の人々の目線を気にすることがいかに大切なことなのか、未だ長くは歩んでもいない人生の中で既に脳が焼ききれてしまいそうなほどに学んでいた。
 態度に気を付けながら、ふたりの痴態を世の中の明るみに出してしまわないようにそっと感想を述べる。

「大丈夫、きっと、いや、絶対似合うよ」

 リリは口元を緩めながら、幹人と並んで歩き続ける。

「良かったわ」

 彼女の想いはどこから来て何処へと流るるか。幹人の言葉がきっと心に此の世で最も澄んだ墨汁のように周囲へと滲みながら広がって行って、愛に色を付けているのだろう。

「草鞋くらいは手に入れた、甘味処の売り子でもやってみたいわ」

 赤い布を掛けた机やじゃばらの傘といった気品のある装飾を想像していたものの、幹人の目にはそういったものが一切見当たらなかった。
 きっと売り子などの着物は華やかで美しいものだろう、そう信じて通りに並ぶ様々な店の内『スイグウ 処味甘』と書かれた横書きの看板を見て『甘味処 ウグイス』と頭の中で読み上げながら既に障子の戸の開かれた建物の中へと足を踏み入れる。

「此の顧は彼の拠へ向けるか、此岸と彼岸はあの線を隔ててここにあり。六文の銭を戴きて渡りし刻、漸く鹿の子と茶の取引が始まりを引くであろう」

 怪しげな文言、歌にしては形と成っておらず、説明としてはあまりにも親切を知らな過ぎた。
 なんとなくといった調子で幹人は言葉の意味を読み解いて答えを差し出した。その手に握られたものなど何もなく、ただ振って店を出るのみ。

「何かしら、さっきの」
「知らない、にゃんにゃん!」

 あの甘味処は建物の内側、戸を境界線として店の中を彼岸と表現して六文の入店料を取ってから注文を承るという制度を取っているようだった。
 幹人はそうした店の存在に覚えがあった。格式高き店に見られる光景で、居座るための席にすら価値をつけようという店。
 先ほどの行ないを思い返して、幹人の中であの店の敷居が高くなってしまった。何も払わずに出て行ってしまった。知らないとは言えども一度入った上で。そうした行動の追憶が幹人の心に重々しく響いては澱を残して店の敷居を上げてしまう。
――やっちゃったなあ
 甘味処ウグイス、もう二度と身を運ぶことはないだろう。まるで青春の病を拗らせてしまったような接客も痛々しくて、宜しくないのはお互い様だった。
 次にふたりが身を運んだのは障子張りではなく、木の面だけで作り上げられた無地の戸。それもまた半分ほど開かれており、店をやっているのだと控えめな主張をしているようだった。店の名は『んとんき 処味甘』と書かれており、『甘味処 きんとん』と読むことが出来た。
――縁起がいい名前
 幹人の目から明るい感情は伝わったようで、リリもまた、目を輝かせていた。

「いらっしゃいませ、二名様でございましょうか」

 今度はしっかりと客をもてなす店のようだ。幹人は声を潜めながらリリと軽い会話をしてみた。

「あの武士さん、お金あったのかな」
「そこそこいい草鞋履いてたんだろうね、おかげさまでお団子フィーバー」

 耳に向けて言うような仕草とともに行われたそれはすぐ様その幕を降ろしてふたりは女が差し出した手の向こう、導きの果てにて腰を下ろす。
 団子は四文、茶も四文、日差しに掻き消されてしまいそうな薄桃色の着物を纏った若い女の話によれば大衆の味方、とのこと。故に茶も団子も四文という最低値で提供しているのだという。
 女の顔は見るからにリリよりも大人だと示しており、彩りに欠ける簪を挿していて、幹人の目はそうした色に充てられて正気を保つことが出来ずに右往左往していた。

「ふふっ、美しいものね、私だって視線に迷った」

 女をも惚れ惚れとさせてしまう落ち着いたその立ち振る舞いは甘味処の看板娘としての姿がとてもよく似合っていた。風景に溶け込んでいながらも目立つという、違和感のない調和のとれた異彩を放っていた。
 辺りを見回すと畳に座る人々はみな腰に刀を携えていたらしく、客の手元に刀が置かれていた。客は男しかいないというのだろうか。

「茶屋でもないのに武士や旅人、たまに物好きな男性しかいらっしゃらないの、どうしてでしょうね旅人さん」

 そう訊ねる女に目を向け、リリの方へと目を向け視線を合わせる。ふたりして出た結論は合致していた。
――あなたのせいだよっ!!
 きっと気が付くまでに一生という時を費やしても間に合わないだろう。或いは偶然が起こってようやく気が付かされるだろう。
 その偶然を、幹人は今ここで起こして見せた。

「恐らくあなたに惹かれてだと思います。美人がもてなす甘味処、みたいな」

 明らかに通い詰める客の殆どの身分が武士のみだという事実がそれを物語っていた。アイドル喫茶、とでも呼ぶことが出来るのかも知れない。
 いつの世も男は下心をぶら下げ顔にだらしなく映し出して生きている、その事実にため息をつくばかりだった。
 ふたりで団子を食べながら緑茶を心行く迄堪能していた。そんな中起こった出来事だった。女は大きなため息をついて「また……」とこぼしていた。
 大きな男ふたりが胸倉をつかんでにらみ合っているというその姿はそれだけでも家屋を壊し飛ばしてしまいそうな程に荒々しい気迫を放っていた。
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