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第六幕 再会まで
歩く辞書
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幹人が振り向いた先に立っている人物は柔らかな印象をメイクの代わりに塗り付けたような少女だった。ふんわりとした体つきは動くことがあまり得意ではないのだと姿で語っているようで、少女の目は図書館というひとつの宇宙を手のひらに収めたような自信に輝きの炎を添えていた。
少女は表情を固めたまま幹人に、かすれた小声で語りかける。
「私を呼んだ? 本は読んだ?」
途切れ途切れのようにも聞こえる声。高いのか低いのかそれすら悟らせない弱々しい声は図書館という環境での生活で手にしてしまったものだろうか。同じ声の調子で続ける。
「あまりうるさいなら出てって」
会話はあまり得意ではないのだろうか、鬱陶しいという感情を言葉に滲ませていた。幹人は微笑みながら少女にひとつ訊ねた。
「あなたが『歩く辞書』ちゃんですよね」
「そう、誰も本名で呼んでくれない」
いやじゃあ本名教えて── この世に現れてしまいそうになった声を飲み込み言葉を砕いて。沈黙の果てに本来無口なはずの歩く辞書がまたしても口を開くこととなってしまった。
「あなたも訊かない、私は辞書であればいいだけ」
幹人は歩く辞書に会いに来た目的を想いの中で再生しつつ心を鞭で打たれていた。幹人がここに来た目的は間違いなく辞書として連れ歩く行為だったのだから。
「誰も『私なんて要らない』の」
「そんなこと」
「要るのは私じゃなくて辞書」
苦しい話、きっとこれまでただひたすら便利な辞書として利用され続けてきたのだろう。これからもそうした扱いしか受けないことを悟ってしまっているのだろう。
「いいの、解ってる。感情は要らない、要るのは語彙で叩き出した感状だけ」
静寂の空気の中で響く空しい言の葉、魂の宿らない声で練り上げられたそれ、単語とそれぞれの品詞を繋いだだけの文字列は幹人の心には一切麗しい波風を立てられなかった。
「ホントウは……ホントは……」
この世界に来るよりも前の彼にはきっと拾い上げられなかった感情。中身のない人生に恋のひとつを詰めるだけでここまで分かるようになるものだろうか。
ひとつ言えることは、リリとの出会いが幹人を確実に子どもと思春期と大人の全ての境い目に運び込んだということだけ。そのひとつが大きなものだった。
読み取られた心を隠すこともせず、しかし割り切った態度で歩く辞書は会話を進めて行った。
「大丈夫。気持ちは何にもならない。用件だけ言って」
あまりにも乾いた関係の中に心地の悪いものを見ながら幹人は自身に納得を焼き付けて頼みを放り込む。
「アカモウオって知ってる?」
「赤い藻に生息する魚」
簡潔な答えと感情の見えない細い声での回答に幹人の背筋は撫でられるような奇妙な感覚を得て伸びきっていた。
「そのアカモウオなんだけど、観賞用として売ってる人がいて、それが何故かいろんな色をしたのがいてね」
「アカモウオの生態。藻に隠れて生きる魚で元々は透き通った無色。隠れる藻を食べて色素を取り込む」
やはりそうか、心の声を弾ませて現実的には隠しおおせようと考えるもののどうしても表情には出てしまう。
――あの時の金色のアカモウオはやっぱり
歩く辞書は眠気を誘う魔法のような何かを孕んだ大人しい声で未だに説明を続けていた。
「この辺の地域では赤い姿しか見ないからアカモウオと呼ばれている。他の地域ではミゾメウオと呼んでる」
身を染める魚、アナのエサ。全てが明らかになったところで幹人は他にも疑問が浮かび始めていた。
「ええと、この辺で魚育ててるところなんてないよね?」
疑問の目はいち早く潰すこと。そう、もしも意図的に与えるエサを選定して観賞用として育て上げる施設があればそれを技術という言葉の風呂敷に包み隠して売っている可能性は十分にあり得た。
その場合、相手の言葉は嘘偽りのないものということになってしまう。
幹人が放り込んだ確認に対して歩く辞書はただ知識で返すだけ。淡々と知っていることを出すだけのことだった。
「知らない、ここに書かれてないことは知らない」
ならばと言葉をこぼしながら幹人は歩く辞書の手を引いて歩く人となった。歩く辞書の視線は鋭くて痛いものの、どうにか引いて行った。抵抗しても構わずに。
「やめて、私はここにいるだけでいい」
「知ってる? 俺は全く気にしたこともなかったんだけど、大切な人が教えてくれたことがあるんだ」
この世界に来てからのこと、ひたすら助けられっ放しな幹人と彼にずっと明るい想いを寄せ続ける魔女の物語、紙に書かれた世界の断片を収めるだけの建物の中には在りもしない魔法譚を紡ぎ続ける中で学んだこと。
「本に書かれてることだって、それを元にした物や事があるんだ」
歴史書ならば本当に起こった出来事が、図鑑ならばその実体が、うわさ話ならば人々が本当に見た真実が。幹人は人々が紙に綴った想いの元が居座る世界へと左手を伸ばす。伸ばした手の先に待つものは図書館の外、歩く辞書でさえも見慣れているはずの光景だろう。
しかし、歩く辞書の中に今までとは違ったものを見せてくれそうな予感が生まれて胸の内を走る。得体の知れない感覚に期待して溺れていた。外に待つ景色は一体歩く辞書をどのような形で出迎えてくれるのだろう。近くて遠い、遠くて近い、そんな景色をこれまでと異なった瞳で捉えてその目を輝かせていた。
図書館に籠もりしひとりの少女、その本当の姿はどこまでも澄んだ好奇心の塊だった。
少女は表情を固めたまま幹人に、かすれた小声で語りかける。
「私を呼んだ? 本は読んだ?」
途切れ途切れのようにも聞こえる声。高いのか低いのかそれすら悟らせない弱々しい声は図書館という環境での生活で手にしてしまったものだろうか。同じ声の調子で続ける。
「あまりうるさいなら出てって」
会話はあまり得意ではないのだろうか、鬱陶しいという感情を言葉に滲ませていた。幹人は微笑みながら少女にひとつ訊ねた。
「あなたが『歩く辞書』ちゃんですよね」
「そう、誰も本名で呼んでくれない」
いやじゃあ本名教えて── この世に現れてしまいそうになった声を飲み込み言葉を砕いて。沈黙の果てに本来無口なはずの歩く辞書がまたしても口を開くこととなってしまった。
「あなたも訊かない、私は辞書であればいいだけ」
幹人は歩く辞書に会いに来た目的を想いの中で再生しつつ心を鞭で打たれていた。幹人がここに来た目的は間違いなく辞書として連れ歩く行為だったのだから。
「誰も『私なんて要らない』の」
「そんなこと」
「要るのは私じゃなくて辞書」
苦しい話、きっとこれまでただひたすら便利な辞書として利用され続けてきたのだろう。これからもそうした扱いしか受けないことを悟ってしまっているのだろう。
「いいの、解ってる。感情は要らない、要るのは語彙で叩き出した感状だけ」
静寂の空気の中で響く空しい言の葉、魂の宿らない声で練り上げられたそれ、単語とそれぞれの品詞を繋いだだけの文字列は幹人の心には一切麗しい波風を立てられなかった。
「ホントウは……ホントは……」
この世界に来るよりも前の彼にはきっと拾い上げられなかった感情。中身のない人生に恋のひとつを詰めるだけでここまで分かるようになるものだろうか。
ひとつ言えることは、リリとの出会いが幹人を確実に子どもと思春期と大人の全ての境い目に運び込んだということだけ。そのひとつが大きなものだった。
読み取られた心を隠すこともせず、しかし割り切った態度で歩く辞書は会話を進めて行った。
「大丈夫。気持ちは何にもならない。用件だけ言って」
あまりにも乾いた関係の中に心地の悪いものを見ながら幹人は自身に納得を焼き付けて頼みを放り込む。
「アカモウオって知ってる?」
「赤い藻に生息する魚」
簡潔な答えと感情の見えない細い声での回答に幹人の背筋は撫でられるような奇妙な感覚を得て伸びきっていた。
「そのアカモウオなんだけど、観賞用として売ってる人がいて、それが何故かいろんな色をしたのがいてね」
「アカモウオの生態。藻に隠れて生きる魚で元々は透き通った無色。隠れる藻を食べて色素を取り込む」
やはりそうか、心の声を弾ませて現実的には隠しおおせようと考えるもののどうしても表情には出てしまう。
――あの時の金色のアカモウオはやっぱり
歩く辞書は眠気を誘う魔法のような何かを孕んだ大人しい声で未だに説明を続けていた。
「この辺の地域では赤い姿しか見ないからアカモウオと呼ばれている。他の地域ではミゾメウオと呼んでる」
身を染める魚、アナのエサ。全てが明らかになったところで幹人は他にも疑問が浮かび始めていた。
「ええと、この辺で魚育ててるところなんてないよね?」
疑問の目はいち早く潰すこと。そう、もしも意図的に与えるエサを選定して観賞用として育て上げる施設があればそれを技術という言葉の風呂敷に包み隠して売っている可能性は十分にあり得た。
その場合、相手の言葉は嘘偽りのないものということになってしまう。
幹人が放り込んだ確認に対して歩く辞書はただ知識で返すだけ。淡々と知っていることを出すだけのことだった。
「知らない、ここに書かれてないことは知らない」
ならばと言葉をこぼしながら幹人は歩く辞書の手を引いて歩く人となった。歩く辞書の視線は鋭くて痛いものの、どうにか引いて行った。抵抗しても構わずに。
「やめて、私はここにいるだけでいい」
「知ってる? 俺は全く気にしたこともなかったんだけど、大切な人が教えてくれたことがあるんだ」
この世界に来てからのこと、ひたすら助けられっ放しな幹人と彼にずっと明るい想いを寄せ続ける魔女の物語、紙に書かれた世界の断片を収めるだけの建物の中には在りもしない魔法譚を紡ぎ続ける中で学んだこと。
「本に書かれてることだって、それを元にした物や事があるんだ」
歴史書ならば本当に起こった出来事が、図鑑ならばその実体が、うわさ話ならば人々が本当に見た真実が。幹人は人々が紙に綴った想いの元が居座る世界へと左手を伸ばす。伸ばした手の先に待つものは図書館の外、歩く辞書でさえも見慣れているはずの光景だろう。
しかし、歩く辞書の中に今までとは違ったものを見せてくれそうな予感が生まれて胸の内を走る。得体の知れない感覚に期待して溺れていた。外に待つ景色は一体歩く辞書をどのような形で出迎えてくれるのだろう。近くて遠い、遠くて近い、そんな景色をこれまでと異なった瞳で捉えてその目を輝かせていた。
図書館に籠もりしひとりの少女、その本当の姿はどこまでも澄んだ好奇心の塊だった。
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