異世界風聞録

焼魚圭

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第五幕 風を嫌う者

重なり

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 遺跡の探索の中で知った石造りの街の民の思想の愚かさ。幹人は既に学んだ歴史の中で知っていた。
 世界はただあるようにあるだけで何も悪くはない。悪いのは世界の姿に対策も適応も示すことなく理不尽に弾圧を向ける愚者のみ。
 そんなことをこの世界に来てまでも、実演という形で示されたそれを確認させられて幹人は盛大な溜息を吐き散らしていた。

「なにか、良くないものでも見たような顔して」

 共にいくつもの日々を出来事を流し続けて来た魔女には簡単な感情程度ならばお見通しだった。幹人の瞳の濁りを覗き込んで、理由は分からなくても分かる感情、それを汲んだ上で言葉を広げて染み渡らせた。

「良くないモノを見た時は良いものを見ればいいわ。ほら」

 幹人の心に声が言葉が馴染んで心地よく反響して、ようやく見ていた目の前に心を戻すとそこには瞳いっぱいにリリの顔が映っていた。
――近いよ……うぅ
 大好きな顔がこれまでにない程に近づいていて、鼻息が幹人の肌をくすぐるように撫でて来て、生温かな生きた温度に意識を持って行かれてしまいそうで、この上なく恥ずかしかった。
 顔の火照りを指でつついて更に刺激する。頬をゆっくり優しく愛情を込めてつついて。細くて白い指が幹人の頬を押す度に、頭を回すような想いは大きく強くなって、ゆらゆらフラフラと風に乗るような浮遊感と共に揺れていた。
 澄んだ瞳、熱と感情でキラキラと輝く瞳を目にしてリリはありったけの笑顔を浮かべた。

「カワイイ子。またツラくなったら今度は幹人の方から甘えに来てもらえないかしら」

 はい喜んで。そんな言葉が自身の頭の中を駆け巡り続けて身体の内側を素早くはいずり回っていた。
 甘々で麗しいふたりの想いが紡ぐ遺跡デート。その続きは奥へと進むことで送られて行く。昼だというにも関わらず、夜の手前といった薄暗い部屋、この世界に来てから幹人の脳内には室内は昏くて酷い時は闇のようだという認識が植え付けられていた。
 奥の方は特になにもない、待ち構える者も物もない。あるのはただ広がる昏い虚空、完全なる空室だった。

「なにもないみたいだね」

 幹人の言葉に対してリリは目を伏せてゆっくりと首を横に振る。

「いいや、これは……」

 そう言って振り返る。真似事のように幹人も少し遅れて振り向いた時、外の空間に異変があった。
 明るい外、その景色は詳しくは見えないものの、違和感があった。まるで正常な目で見ていないような違和感、しかし、周りの薄暗い景色はごくごく普通の空室で。

「景色が……」
「ああ、明らかにおかしいね」

 リリにも見えたそれはやはり大きな異常。一体どのような様をしているのだろうか。好奇心と恐怖心は共に争っていた。行くか退くか。迷いに迷った末にふたり手を繋いで進み始める。

「大丈夫、外の魔力は安全さ」

 魔力の安全性には問題ない、勇気の問題だろうか。暗い部屋から見えるそこは眩しくて、輝きが微かに部屋の中にまで漏れて入っていた。
 それは結界をも侵す優しい光。
 その向こうを覗き込んで幹人は驚きに思わず声を上げた。

「ここ……元の世界」

 幹人がいた世界、今もいなければならない世界。そんな異界が今いるこの世界の景色と重なり合っていた。
 目に映るものは近所の公園で、そこからさらに向こうには幹人の中では当然だった、しかし重ねて来た冒険の中で贅沢なのだと思い知らされた家が見えた。普遍的な贅沢のガラス張りの窓。虫が入ってくることもすきま風の圧倒的な冷たさにも悩まされなくていい脆くも強烈な結界。
 リリにはどのように映ったのだろう。顔は光に照らされた表層しか窺うことが出来なかった。

「これが……凄くいい造りだね」

 窓ガラスについてどのように思っているのだろうか、解からない。外からでも造りの良さは分かるものなのだろうか、解らない。そもそもの話、素材から豪華で高価なものなのだということ。それは解った。
 リリの世界観では貴族ですらそうそう手が出ないような立派な家だと言えた。

「そうか、いい世界だね」

 だから一緒に―― そう言おうと思いつつも仕舞っておいて景色を眺める。ふたつの世界、そのはずがリリの住む世界についても更に違和感があった。例の家が見える景色、それに透けて見える石造りのシンボルとして建つ信仰を示す天まで届く建物。

 矛盾している

 家に阻まれているはずの根元の景色が、家と重なって見えていた。

 矛盾している

 元の世界と異界、ふたつが同時に存在していることなどあり得ない。それはつまり、ないものがそこにあって、あるはずの正しさがそこにはない。

 しかし、それは全て知っている景色で。

 目に映るものは真実だが偽り。

 両方とも持っているようだった。

 存在の矛盾に気を取られて立ち尽くすだけの幹人。
 そんな彼に向って来る、いや、向かってこない、そこにいる、そこにいない。なにもかもを持っていてなにも持っていない。そんな存在が襲いかかって来て襲い掛かって来なくて動いていて動いていなくて。

「幹人!!」

 これまで聞いたこともない程に強い叫びと共にリリは目の前に見えて見えなくて存在して存在しない何もかもがあって何もない全ての情報を孕みし矛盾の獣から幹人の意識を奪う。
 ふと気が付いたそこにあったのは家のひとつもなくて石造りの街が見える遺跡の一室だった。

「さっきのいったい何だったんだ」
「私にも分からない、だけども」

 囚われれば、『囚われていて囚われていないそこにいてそこにいない生きていて死んでいて全ての矛盾を受け入れて拒んで全てを理解して理解しない分かっていて分かっていない、言葉が通じて言葉が通じない』矛盾の塊になってしまう、それだけは感覚で理解していた。


  ――――逃れることが出来た


 その事実ひとつでどこまでも脱力できた。底なしの心を安心で充たしてその場にへたり込んで、しかし新しい不安にも気が付いてしまった。

「あれ、家は?」

 村ひとつが消えてしまっていた。リリもそれについて疑問を持っていたがそれよりも不安なことがひとつだけあった。

「アナ! アナは大丈夫?」

 そう叫ぶリリの顔からは深刻な問題に絶望している様が垣間見えた。
 その問題についてだがなんと、数秒で解決した。広がる平地、農村の跡地をまっすぐ歩いてくる小さな女の子が声を張り上げて走っているのが目に見えたのだった。

「おーい! リリ! 幹人! どこにいるんだ?」

 あいつらめ、遺跡デートかよこんな異変の中で。そう毒づいているのが姿勢で分かった。
 そんな彼女をふたりして優しい笑顔で迎えに行くのだった。
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