異世界風聞録

焼魚圭

文字の大きさ
上 下
131 / 244
第五幕 風を嫌う者

食後

しおりを挟む
 きっといつもの家庭よりも騒がしかったであろう夕飯のあと、幹人は食器を持ち、リリはアナを引っ張って家の外へ。深い闇の更に見えない奥へ奥へと向かって、遺跡と石造りの街の間を流れる川へと向かって歩いて。
 静かな闇の中、見えない聞こえない、感じるのは肌を刺す冷気と木々や石、土に水といった香りのブレンドだけ。
 やがて耳を覆う静寂が打ち破られた。
 流れる水の音はそれが川だと名乗り、強くなって肌を打ち付け刺し続ける冷たさはまさに川へと近づいた証拠。
 触れるだけで凍える手を焼くような痛みを与える冷たい水は感覚をも奪い去ってしまおうと画策しているように思えた。川を流れるだけ、ただただ身を任せるだけの水には勿論罪などない、気のせいで濡れ衣だった。
 なにも見通せない暗闇の中で手早く素早く手際よく、リリは歴戦の猛者のようなありさまで洗っていた。アナも盗賊として生きる中で得たものなのだろうか、無駄のない動きですぐさま洗ってしまった。
 幹人だけが黒くて身を引き摺り込む何かが潜んでいそうな川に長らく手を浸け苦しみつつリリに手伝ってもらってどうにか洗ってかじかんだ手で、冷たさに刺されて殆ど奪われた感覚と冷えて入らない力でどうにか皿を持ち、意識を向けつつ例の夫婦の元へと戻る。道の途中、つまずきそうになったものの、リリが左腕で身体を押さえて耳元でエールを送って乗り切るという音だけの幸せの世界に導き家まで導いて。
 戻って来てすぐさまリリは夫婦に訊ねた。

「働ける場所はないかな、私たちには金がなくてね」

 女は笑いながら労働の案を差し出した。

「そうね、なら、農業のお手伝いか狩りの手伝いか、ふたつにひとつしかないから好きな方選んで。遺跡も見たいなら農業がオススメね」

 そこから流れる沈黙の空白世界が展開されたのは瞬きの一度すら許さない程に狭い時間のみ。すぐさまアナが大きくてはきはきした声で打ち破っていた。

「じゃ、アタシは狩りに行くぞー。アンタらは農夫婦でもやってれば?」

 言葉に甘えて頷いて、甘い労働デートが明日の日差しと共に待ち構えるという美しき状況が完成していた。遺跡デートを満喫する時間までいただけるということもあってふたりの予定はますます熱く厚く膨れ上がって今にもはち切れてしまいそうになっていた。

「参ったわ、あまりにも都合がよすぎて眠れないかも知れないね。もしそうなったら仕事もこなせないくらい疲れてるかも……よくないね」

 幹人もまた、必要以上に意識して、目の上を走り蔓延る熱に浮かされていた。
――リリと働ける、リリとふたりきりで遺跡……デート!!
 リリがなにを考えているのか、それは分からなくとも付き合っているふたり。きっと彼女も似たようなことを考えて明日を楽しみにしているに違いない。想うだけで次の日の出があまりにも恋しくて隣のキミに対しての愛しさが弾けて落ち着きがいつまでも訪れない。

「リリと遺跡に行きたい」

 小学校の遠足への想いのような大きさと熱意は見事に幹人の睡眠を阻害したのだった。
 そうして意識を落として次に現実の景色を目にしたのは身体を揺すられて開いてのことだった。目の前に出迎えたリリの顔は帳をすり抜けた日差しを吹きつけられて淡い顔色をしていた。幹人の心は穏やかでなかった。睡眠不足の持つ頭を揺らす不調と美しき色を持つ衝動に押されて破裂しそうな身体でリリに飛びつき抱き付いて。

「おやおや、甘えたくなるお年頃かな、私はいつでもそうだけど」

 幹人を包み込み、しっかりと抱き締めて微笑み目を向けた時、腕の中に収まる彼氏は目を閉じて再び夢の中に飛び込んでいた。

「やれやれイケナイ子。ほら起きて。キスが効くのかしら?」

 寝落ちへの特効薬などどこに存在するだろう。リリは幹人を揺らし起こして額に口を付け、恋の深みに陥れる。

「ほうら、お目覚めの時間、来たよ」

 微睡み混じりであれどもどうにか目を開いた幹人。心地よさに身を預けつつも目を擦り、リリの方を見つめる。
 その時だった。
 幹人の背中に強い即効性の衝撃、それを受けたという合図が全身を駆け巡った。

「おっはよー幹人! 起きていきなり熱烈甘々なキスやってんな」

 朝からお盛んだな、そう付け加えてアナはナイフを日に照らして刃を確認して皮のカバーを被せた。
 幹人は痛みに思わず声をこぼしながら痛みを与えて来た張本人の方に目を向けた。ワンピースのようにも見える簡素な服を纏ってくびれに布の帯を巻いて結んで蝶結び、幹人がこの世界に来たばかりの頃に訪れたあの文明の継承に失敗して壊れかけた街で着られている服だった。

「コイツが使いやすいな、帯にナイフ挟んで持ち運べるし」

 細々とした身体だからこそ言えることだろう。もっと女性らしい身体つきをしていたら。その思考は頬を走る衝撃によって振り払われた。

「今アホみたいに失礼なこと考えてただろ」

 目つきが言ってたぜ? と幹人を責め立てて、膨らんだ布をふたりの前に置いてアナは中のものを三つばかり取り出した。
 それはトウモロコシをすり潰したパン、朝ごはんだった。

「働く前だ、しっかり食えよ」

 んじゃあな、と言葉を残してパンを咥えてアナは帳の外へ、跡形もなく消え去った。
 残されたふたりは顔を見合わせ、優しい甘さを持ったパンを仲良く頬張ってしっかりと味わう。

 おいしいね

 うん、おいしいね

 キミと食べるといつでもおいしさが増えるような気がするんだ

 そうした会話を挟みながら過ごしたその時間の果てに、ふたりもまた帳をくぐって日差しを直接浴びて何もかもを歓迎するような優しい笑顔を浮かべながら歩き出した。
しおりを挟む

処理中です...