異世界風聞録

焼魚圭

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第四幕 異種族の人さらい

爪痕

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 アナは待っていた。幹人がやるせない時間を送っていたことなど知らないまま。隣に立っていたリリすら知らないことだろう。まさかそんなにも静かに悩んでいたなど。
 ジェロードもマーガレットも出て行って、残された人は住人以外という状態、幹人には考えられないことだった。そう、目を疑う光景。

「鍵とか……ないよなあ」

 この世界に来て以来、一度たりとも見たことのないものだった。単純に存在しないのか、まだ貴重なだけなのか。セキュリティー意識の欠如を指摘しようにもそもそも物理的に存在しない価値観であればどうにもこうにも出来るはずもなくて。
――こればかりは仕方ないか
 誰も盗みに入りませんように、そう祈りつつ、家を後にする。仲良し夫婦が収まっていた小さな世界から訪問者が出て行くことで誰もいなくなって。
 歩き出す、ただ歩き出す。初めに訪れた都へと向かって。

「物置にしていた宿から荷物を取りに行かなければね」

 物置として使い続ける場合、一か月で貴族気分を味わうことが出来るのだそうだ。日雇いで働いて泊まり続ける生活を送ったところでよくて雀の涙程度の寂しい金額が残る程度なのだという。
 金額を聞いて目が飛び出そうなほどの驚きに襲われていた。金額は足りるのだろうか、幹人の口から自然と出てきた質問を耳にして、小さな麻袋の中を確認していた。頼りない輝きに目を曇らせて、リリは答えをさぞかし口にしづらいといった様子で窄まった声で発していた。

「ぎりぎり……」

 次の国では働こう、といった言葉が聞こえてきてアナは不満を垂れ流していた。勝手に口からあふれているようにも見えた。
 どうにも堕落しきった態度が目立っていた。

「アタシも働かなきゃなんないわけ?」

 時たま現れる謎の言葉遣いもまた、堕落感を増大させる原因となっていた。会話とともに歩みを進めてたどり着いた都。幹人の勝手な想像ではこの都をひたすら探索しているはずだった。華やかな冒険、有り余る金銭。
――なんだかこれじゃないんだよなあ
 こぼしたところで目の前にそびえる現実、過去も今も変えられるものではなかった。真っ先に宿へと戻り荷物を纏めて金を放るように支払いその場を後にした。どうやら本当にぎりぎりだったそうで、残すところ銅の貨幣が三枚。

「この国から出よう、働くところがなければ七日で地獄から手招き頂戴することになりそうだから」

 待っているのは餓死、ということだった。

「いやだ、死にたくない、結婚も出来ずに死ぬのやだ」
「はあ!? 自由どころか命日の先延ばしも金で買う時代なのか」

 互いに違った反応を見せていた。それはまさにそれぞれの大きな欲に支配された言葉たちだった。リリはふたつの言葉を妖しい微笑みで受け止めた。

「なるほどね、幹人は結婚が大切でアナは命が大事」

 こうした言葉のひとつひとつからも人生の色の一端が垣間見えるというもので、幹人は思わず顔を覆っていた。

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんじゃないかい?」
「俺はどうせ結婚のことばかり考えるいやらしいやつだよ」

 そうした声さえも陰った不透明な微笑みと邪魔の入らない陽のような透き通る心で易々と受け止めてしまう。この魔女はそういった人物だった。

「そうかな、誰かを愛したい、ここにいるかは分からないけど誰かを好きでいたい。いいことじゃあないかい」

 アナは勝手にひとりで独りよがりな性のことばかり考えるあの少年のことを思い出していた。

「アイツか、アレ、キモ過ぎな」

 全否定である、同情の念を向けるべきは相応しい器を持つほどまでに落ちぶれた人物がいない少年なのか、邪な目でほぼ一晩中舐め回されて遠慮という混じり気のない純粋な穢れを見せつけられたアナなのか。

「ふふ、あの少年の気持ち悪さは特別製だからね」

 あの程度、世界にありふれた穢れを特別製とまで言ってしまったリリを幹人は呆れの視線で迎えていた。形ある世界を巡っても、男のセカイは巡ることもなかったのだろう。
――この世界は特別製で溢れかえってるよ
 やがて都を出てすぐそこで待ち続けていた光景に目を奪われ、歩みは誰に言われるまでもなく止まっていた。

「これって……」
「ああ、そうだろうね」

 奪われたものと与えられたもの。明らかに何者かに壊された家々と残骸廃墟その姿に構うことなく絡みついた植物の姿がそこにあった。伸び続け生き続け、懸命にその手を伸ばし続ける植物たちは絡みつく廃墟の柱が倒れてもなお絡みつき続けていた。

「きっとここがマーガレットの故郷なのでしょうね」

 あの明るさに隠し通された破壊の爪痕、竜の爪にひれ伏した村の最期の姿。この惨状をも乗り越えてあの明るさを持ったまま振舞っていられるのだろうか。

「強いんだね、マーガレットさんは」
「いいや、弱いんだよ。本音も吐くことが出来ないで当時の状況だけを話して明るさだけを振りまいているのさ」

 呆然と立ち尽くす幹人、その様子の奥まで見透かしてなのだろうか、リリの言葉はそれだけでは終わらなかった。

「けれども、その弱さが人には必要なの。優しさの蓋を落として隠し通して見せて、誰にも悟らせずに一緒に生きる。弱さも強さもおんなじものなのかもしれないね」

 三人揃って瞳を閉じて、かつて生きていた人々、過去に置いて行かれた想いたちに祈りを捧げて再び歩き始めた。
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