異世界風聞録

焼魚圭

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第三幕 竜の少女を信仰する国

海に潜む

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 引き揚げられたもの、それを目にしてアナが叫び散らしていた。

「竜じゃねえか!」

 海から現れた竜、この国の周辺に生息する竜の活動範囲は陸に限った話ではなかったようだ。中年は声を張り裂けそうなほどに張り上げていた。

「逃がせ! 今すぐだ!!」

 海に潜みし竜、松明に照らされ黄金の鱗に覆われし羽の生えたトカゲは身体をくねらせながら網を引きちぎって襲いかかるべく動き出す。

「いいないいなめっちゃぶっ飛んでやがるな!」

 興奮の熱がこもったアナの言葉に応えるように竜は翼を広げて大きく羽ばたいた。途端、潮水の雨とそれに混じりて輝きの破片が注ぎ落ちる。一同顔を腕で覆い、雨を防いで再び竜の方を見上げた。そこにはすでに姿は見当たらず、さらに上、墨の空の中に浮かんで一度大きく吼えていた。

「た……助けてくれ、竜さまとは言っても生け贄はいやだぞ」

 少年も中年も予想だにしない獲物にひっくり返っていた。先ほどまでの豪快で大胆な態度はどこへと引っ込んでしまったのだろう。偉大なる存在を崇めながらも恐れて震えながら見上げ奉り、情けなく縮こまっていた。
 一方でその程度では恐れぬふたりは立ち上がっていた。

「はっ、楽しくなってきた。私好みじゃねえか」
「所詮は大きな水棲トカゲだろう? 恐れる程でもないね」

 旅のメンバーの中で幹人だけが恐れを抱き締めてしゃがみ込み、鳴き声の不快な響きに耳を塞いでいた。
 リリは巾着袋に手を突っ込んで、勢いよくなにかをばら撒いて。
 リリが小声で理解の及ばぬ何かを唱えたその瞬間、突然虚空から木が、蔓が現れて薄っすらと輝く花を咲かせる。暗い闇の中、植物を殺す塩にまみれた水をどこまでも広げる海のどことも知れぬそこに植物の楽園が出来上がった。

「竜には気の毒だけども、今日を命日とさせていただこうかな」

 目的外であるにもかかわらず釣り上げの罠の巻き添えにされて、放流されずに殺される。完全に人の勝手に命を握りつぶされようとしていた。
 空より強力凶悪な風を羽ばたきひとつで起こして見せるも、花ひとつ花びら一枚すら飛ばすことなど叶いはしない。アナはしっかりとした植物の橋に安心を抱いて命を預けて走り渡り始めた。輝きの道を駆けながらナイフを構える。一見してか細く力なく見える指たち。しかしそこに込められた力は筋肉的にも意志としても並みの同い年より確実な強さを持っていた。

「ははっ、やってやるよ。水に沈めてやるよお前の住処になぁ!」

 普段は仕舞い込んでいる凶暴な感情が瞳から見て取れた。瞳から現われし殺意はあまりにも鋭く研ぎ澄まされていて、ナイフ程度では敵うこともない。横に広げられた口の端から吐き出される息に混ざりし昏い感情と言葉にされた大切な想いが竜へと向けられる。

「仲間に傷ひとつ付けてみろ。あの世すら居場所にさせねえからな」

 竜が起こす風に逆らい駆け抜ける。逆風となり小さな身体は大きな脅威となって、竜の瞳を突き刺した。噴き出す赤い液体は竜の抵抗によって軌跡を描きながら撒き散らされ、アナの身体も振り回される。ナイフを握る手は石のように固く握り込まれていて離れそうな気配を微塵にも感じさせない。そう思っていた。
 しかし現実はそう上手く進んで行けるはずもなく、すぐさま振りほどかれて落ちて墜ちてオチて――
 海へと吸い込まれるように、重力に手を引かれるように天空から突き放されて、黄金の竜の姿を見下ろすように見上げて墜ち続け、やがては植物までもが通り過ぎる様を見届けて、墜ち続け。
 何もかもが高みへと昇りつめて、手を伸ばしても届くことはない。キミにこれ以上の高さはないよ、嘲笑うように吹く風がもはや心地よく感じられるほどの爽やかさで全身を叩く。耳を擦るような音があまりにも身近に感じられて、ともにどこの世へと向かうのだろうか、ほんの少しだけ楽しみに感じられた。
――もっと色んなものを見て、バカみたいに笑ってたかったな
 現れる走馬灯、頭の中を現代技術も驚きの速さで駆け巡るそれは苦い思い出を大量に焼き付けていた。盗賊としての悪事やこなし続ける雑用で身に着けた物事の数々、言葉もまた、大量に、獲得の時系列すら無視して駆け抜けて。

 続いて分断された記憶が蘇る。

 リリと幹人、よりにもよって前の国で敵となっていた人々との旅行、港に着いて情けなく倒れる幹人の姿、リリはあまりにも余裕のない貌をしていた。そのようなものを残すこともなく消し去ってしまって、急ぎ慌て宿に向かって部屋を借りていた。

 アナは、記憶の中ではそのように大切にされたことなど一度たりともなかった。

 リリからの扱い、幹人との接し合い、それがあまりにも優しくて心地よくて。
 他にと言われれば好きな食べ物が出来たということも大きな変化だっただろうか。これまでは生きるために食べていた。肉がここまで美味しかったことなどただの一度もなかっただろう。そこからアカモウオの塩漬け燻製。
――あれはまだまだ食い足りねえな
 想い出の中の塩味を反芻しながら浸り、ひとつの疑問を思い出す。
――あれ、他の国ではなんて呼ばれてんだっけ
 あの世でも同じ呼ばれ方をしていると考えては確かめなくてはならないことだった。

 走馬灯と浸りから抜け出して、世にも美しい終わりの絶景を見渡す。

 どこまで落ちただろう。知らない分からない。終着点は常に背にあった。竜も植物も小さく遠く果てしないところにあるように見えた。
 風が冷たい、先ほどよりも冷たくて、潮の香りもまた、強まっていた。
――死は、もうすぐそこかな
 諦めかけたその時、予想だにもしない地に背を着いた。それはあまりにも柔らかで優しいものだった。感触に疑問を覚えつつもそれに甘えながらただそこにいるだけ。あまりにも心地よい感触はアナに救済と共に安らぎを与えていた。

「アナ! 大丈夫か」

 少し高めの細い叫び声、その持ち主は容易に予想が出来ていた。
 声のする方へと目を向けて。
 幹人とリズが手を伸ばして風を送り込んでいるさまを見届け微笑んだ。
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