異世界風聞録

焼魚圭

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第三幕 竜の少女を信仰する国

朝はやはり

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 床はどこまで幹人の身を叩き続けたのだろう。もどかしさと共に身体の痛みがあいさつ代わりの叫びを散らしていた。
――いっ
 想いの中ですら痛いのひと言を中断させられてしまう。左肩に噛み付いた痛みはリズが乗っかるとともに増していた。

「いっ、ごめ、リズ」

 幹人も表情と声から苦痛を見て取って柔らかな魔獣は幹人の右肩へと移った。 分かるんだ―― リズの理解力に驚かされながら左肩に絡みつく痛みをこらえつつ優しく指で撫でた。肩の上で軽く跳ねて喜びを露わにしていた。
 癒し、その雰囲気の中で振り返り目にした光景。ベッドの毛布が膨れ上がっていた。すり抜けるように落ちて行ったそこには腕を伸ばす女の姿があった。

「リリ姉おはよう」

 伸びをして欠伸を噛み殺して目の端に溜まった涙をぬぐって。一連の動作から幹人は勝手に乙女を感じていた。リリは目を開いて幹人を見つめ、柔らかな表情を見せる。

「おはあ、ところでアナは?」

 ベッドを眺めても、辺りを見渡しても、そこにアナの姿はなかった。行方を気にしつつも布団と枕として使っていた制服を丁寧に畳んで片付ける。開くとごろごろとカバンから出て来るクルミのような魔力の塊、明らかに数が増していたリズの貯食に何とも言えない表情を浮かべつつ奥へと仕舞うべく物を取り出して。奥の方に入れ込まれていた紙を束ねて纏めたそれは本、映画になったからと言って購入したそれは途中までしか読んでいなかった。
――はあ、もっと暇なら読んでただろうなあ
 読む時間などここにはない、現実を思い知らされつつも少しだけと言って栞が挟まれたページから一枚めくる。作者の体験談を纏めた掌編集。心霊スポットに遊びに行く彼の恐怖体験と同い年の背の低い女への想いや人生の行く末が綴られたそれはホラーと青春が混ぜられた一作だった。

「おや、それが幹人の住む世界で書かれている本かな」

 リリも目を通すものの、全くもって読めた気配もなくてため息をついていた。そこから思ったことを述べ始める。

「読めないなあ、事情のひとつやふたつ知らなければ魔導書だと勘違いしてしまいそうだね」

 本が量産できるなんて凄い世界だね、おいくらかな。質問が飛んできたのでこの世界での感覚で返す。外で食べるごはん一回から二回くらい、ずいぶん安いじゃない。リリの知る本の価値は高級店での食事一年分、庶民がもらえる金の価値よりもずっとずっと高いのだという。

「ふふ、この世界では一般庶民十人程度よりも文字の書かれた羊の皮の縫い合わせの方がずっとずっと大切なのさ」

 あと高いお酒も庶民の金では、と続けられて、人なんて消耗品だと思われているのさ、そう締めくくられた。
 悲しき事実は認めるほかないことだった。この世界では多くの人々がその日々を懸命に過ごしていて、苦しくとも救いなど上の人々から差し出されることもあまりない。おまけに庶民の食生活では早死にしてしまう。そんなことを知らされて、今日向かう場所はそういった人々が住む場所なのだと知って、行き先を失った悲しみを得て。
 今にも泣きそうな気持が右往左往している中、ここまで聞かなかったあの声が部屋へと入り込んで来た。

「よお、朝メシの時間だぜ」

 豪快に笑いながら歩み寄ってくるその姿は幹人を三人集めても余りあるほどに堂々としていた。
 何やってたの、リリの質問に散歩だ、散歩に行ってきたんだと答えて腰に結び付けた麻袋から薄桃色の小さな花を、それらを身に纏う茎を取り出した。それを見て大きなため息をつく魔女がそこにはいた。

「それ、ホントウはお金を仕舞う袋なのだけど」
「仕っ方ねえだろ、アタシは一文無しなの、アンタらとは違って」

 いつもと微妙に異なって聞こえる一人称、一文無しという単語、幹人は沈黙に支配された中で首を傾げていた。

「ん? なにかおかしいこと言ったか」

 気まずさ流れる空間、その感情を汲み上げているのは他でもない幹人本人なのだと気づかされて、重い口をどうにか開き、出ることを喉元辺りで拒み続ける言葉をどうにか絞り出した。

「ううん、なんでもないよ」
「なんだよ、なんでもねえならそんな顔するなよ」

 全くもってその通りだった。
 朝はやっぱ早起きから散歩に限る、朝メシが美味くなるよな。リリに問う言葉は同意で返された。そうできたら羨ましいのだけど、といった言葉を添えられて贈られていた。

「でさでさ、食ったら花でかんむり編んでくれよ、いいだろいいだろ」

 アナの明るさに触れて、きっとこの世界に生きる人々は大変なだけではなくて一生懸命だからこその幸せも知っているのだろう。そう思えた。かつて滞在していた街でリリと親し気に話す男、かつて王都だった都で新たな代表を祝福する人々、昨日会った鮭売りの男、そして忙しすぎて倒れるまでこの世界を進み続けていた自身。悩みやジメジメとした陰口は本当に苦しい時の想いか満ち足り過ぎてあふれ出る余裕が産み落とすものなのだと思い知らされていた。
 仲間たちの優しい明るみに触れて、待っている美味しい朝ごはんに想いを馳せて、気持ちを味わい階段を下りて。
 ここから始まる帰る手段の探索を見つめ、幹人の中で目指すものがようやく定められた。周囲を見渡し、考えが漏れていないことを確認して、朝ごはんの美味しさに身を包んだ。
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