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First Christmas that knew you
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2017年12月。
冷たく澄んだ空気を肌で感じる度、本格的に冬がやってきたのだと痛感する。
あと何週間かすれば大人も子供も待ち望むクリスマスを迎えるが、面白い程に興味のない日だ。
折しもクリスマスイブである24日は日曜日…ただひたすら仕事に勤しむだけで終わりそうだと、わかりきった様子が目に浮かぶ。
恋人でもいるならば何としてでも時間を作るであろうが、そんな相手もいる筈がなく。
そう、いる筈がない。
そんな気持ちを持つ資格はない。
「…さん…、村橋さん!」
ふと呼ばれている事に気が付いた村橋と呼ばれた青年…村橋輝紀は手にした冊子から顔を逸らし、声の主に目をやった。
「あの、その…予約表、貸して頂けますか」
「あぁ…悪い」
仕事中に上の空とは…と心中で己を諫めながら声をかけてきた明るい栗色のボブヘアーの女性…望月に、役割を与えてもらえず退屈そうだった客の予約を入れる為の冊子を手渡す。
「最近ぼんやりしている事、多いですね。店長も心配していましたよ」
「…そうか、そう…見えるか」
輝紀の勤める先は美容院『Le Temps(ルタン)』…時を意味するこの店でスタイリストとして日々を過ごしている彼は、ここ数日でこの店名を見る度にある皮肉を覚えていた。
過去に干渉した代償。
踏み入れる事が許されない領域にほんの少し触れた時には全てが遅かった。
輝紀には父親がおらず、母・久子の手ひとつで育ってきた。
何故父がいないのか…幾度となく母に問い質してきたが答えが返ってくる事はなく時間だけが進んでいった。
「今日、いらっしゃいますよね、村橋さんのお母さん。私、お話するの楽しくて!」
入社して間もないアシスタントの望月は、まだ仕事に手一杯で客と話をする余裕もないのだが、何度か来店した輝紀の母、久子の安閑とした様子に話しやすさを覚えているらしい。
面倒見の良い母だ。
お喋り好きでこうやって誰とでも気さくに話す。
その強さと優しさは昔から変わらない。
それでも真実は語らなかった。
あの時までは。
つい数週間前の出来事。
仕事から帰った輝紀の前に、同じく仕事から帰って何時間経っているであろう…ショートヘアを明るい茶色に染めた久子がソファでこくりこくりと頭を揺らしていた。
「久子。ソファで寝るな、風邪ひくぞ」
母を名前で呼ぶようになったのはいつからだろう、照れくさいと思い始めた年齢になった頃からか。
そんな彼女は輝紀をキキと呼ぶ。幼少時から、ずっと。
自分のつけた名前にも関わらず、その名を呼ばない母に苛立ちを覚えたのも同じ頃であった。
そんな時、テレビのバラエティ番組で流されたのは自宅近所にある今は寂れた商店街…そこに建つ大きなからくり時計が小さな画面を通して紹介される。
――悩める人を過去へ誘う――
この番組に感化されたのか、それとも別の…何かに手を引かれるような…誘われるような、湧き上がる父への探求心が、輝紀の中で弾けるように歩みを促した。
明日でも明後日でもない、今日…今すぐ父の存在を、答えを知りたい。
久子の制止も振り切り、更けた夜の中来たる商店街のからくり時計の前で、立ち尽くす輝紀。
多くの店は過去の栄華を失い錆びついたシャッターで閉ざされている…テレビの作られた世界に惑ってやってきたものの、過去へ誘うなどと非現実的な事が起こり得る筈ないのに、幼い自分を思い浮かべながら、父と別れて今を生きる母を案じた。
「…村橋さん。やっぱりぼんやりしていますよ!」
「望月、今日も来たら…無駄話に付き合ってやってくれ」
「えっ!?あ、ハイ…!」
声をかけたつもりが思わぬ切り替えしを受けた望月はたじろいだが、輝紀の発した言葉が今日やって来る彼の母親の話題だと知りハキハキと返事をすると、同時に入店してきた客の案内に走っていった。
「今日は、どうなさいますか」
望月が受け付けた客は輝紀指名の予約客で、綺麗に化粧をした顔を綻ばせながら輝紀の問いに答える。
「そんなに短くしなくて良いので…パーマをかけて欲しいです!」
眼前のロングヘアーを見つめ、輝紀は首を縦に振った。
「今年のクリスマスが彼と初めてのデートなんです、だから…可愛くして下さい」
「わかりました」
恥ずかしそうに懇願する女性客を見て、真っ当な幸せを感じ取った輝紀はあの時を思い出す。
見慣れた筈の寂れた商店街に光と笑い声が溢れる光景。
ほんの少し前までは訝しんでいたのに、受け入れるのに不思議と時間はかからなかった…輝紀の立つここは26年前の過去だという事に。
自らで探し出せるのだ、父親を。
ちらと見たからくり時計で七時と確認し、歩を進めようとしたその時、背後から女性がぶつかってくる。黒髪のソバージュでスーツを着ており、きちんとした社会人に見えたが輝紀と目が合うなり大泣きするという暴挙に出た。
喫茶店で彼女をなだめると、どうやら付き合っていた人物と喧嘩別れをしたそうで、その話は延々と続く。
この理不尽な状況は自分が度々母・久子にくらっているものに良く似ていた。
――もしかして…
過去にやってくるという事自体が異常なのだから、目の前に座る女性が自分の母親である可能性もないとは言い切れない…輝紀は彼女に聞いてみる。
「あんた…村橋久子、じゃないよな。俺、そいつ探してて…」
その名前を出した途端表情を曇らせる女性は突如怒りをむき出しにして、自分はクコだと名乗った。
故に輝紀は感じ取った、彼女ではなく…先程別れた人物の相手こそが久子なのだ、と。
パーマ液をつける時、最近考えてしまうのは、クコの事だ。
この女性客のように長い髪だった、輝紀より少し年上だったからお姉さんぶっていたが、何だか頼りない…放っておけない人だった。
そんな彼女が美容院でどうオーダーしていたのか、なんて事が頭をよぎるのだ。
「村橋さんはクリスマス…お仕事終わってから彼女さんと会うんですか?」
「いえ…残念ながら」
苦笑いをしながら、問いかけてくる女性客に返事をする。
求めている人に会える筈など、ない。
「あたしのご飯、作り置きで良ければごちそうしてあげるよ」
無邪気な表情を浮かべながら、クコは空腹を隠せない輝紀にそう語りかける。
知り合って僅か数十分の人間、しかも異性を誘いかける女性に輝紀は焦りつつも、目的である父…結果として久子を探さなければ埒があかないと判断し、クコが別れた男の足取りを辿ろうと、誘いを断りかけた時。
クコが余りにも悲しそうな顔をするものだから、輝紀は断る事が出来なかった。
不思議と良心が痛む…それが何故なのか考える余裕もないまま、
「じゃあ少しだけ…」
今、足をついているこの場所は本来自分の存在する筈のない過去、いつどこで戻るかも分からない状況で、眼前の女性の笑顔に導かれるままに歩き始める。
不安。
久子は輝紀に父親の存在を語らない。
まるで生まれてきた自分の存在すら認めてもらえないと錯覚する。
クコの自宅に向かう途中、父について質問されたので思わず不安を吐露したら、逆に彼女は小さく謝った。
輝紀自身、赤の他人にここまで話してしまう自分に驚きながらも、話しやすいクコに安堵感を覚えていた。
そんな時。
細い指が輝紀の手を優しく握る。
「ここだよ」
と、クコは微笑みを浮かべ、輝紀を辿り着いた自宅へと招き入れた。
―――弱ったな…
綺麗に巻かれた髪を満足そうに見つめ、心躍らせながら店を出ていく客に頭を下げて輝紀は時計に目をやった。
そろそろ七時…忘れたくても忘れられない、クコと出会った時間。
その時間に予約を入れた客がやってくる。
輝紀はそれまで休憩室で待機していると、店長が追うように入ってきて手にした飲み物を差し出し、声をかけてきた。
「上の空の理由を聞く気は無いが、お袋さんに心配かけるんじゃないぞ」
「…」
店長の言葉に何も返せない輝紀は受け取った飲み物を一気に飲み干し、ふと店長の手先に目をやる。
つい先日結婚した店長の指にはめられた真新しい指輪が、蛍光灯の光に当たり小さく煌めいていた。
「お前もそろそろ結婚してお袋さんを安心させてやりな」
「…」
輝紀の肩を軽く叩き店長は休憩室を後にする。
一人、言われた言葉を思い返す輝紀は、胸が締め付けられるかのように表情を歪めた。
自分は年上だからなんて偉そうにしていたのに、部屋はちらかり、物は落とすし、でも言い訳だけは立派で。
それなのに料理は非常に食べやすい…輝紀の舌に合う味で。
一瞬、彼女と母、久子を重ねて見てしまう程、その行動は見慣れたものだった。
小さなアパートの一室に当たるクコの家で、輝紀は二人分用意された彼女手作りのチキンライスを一皿綺麗に食べきる。
「輝紀のお母さんの味に似てるのかな」
輝紀の食べっぷりを嬉しそうに見ていたクコは、先程の…輝紀の父の話を今一度聞いてきた。
その話題になると途端に怒りの表情を露にする輝紀に、クコはけろりと言い放つ。
「輝紀、怖い顔してたんじゃない?」
―――怖い、顔?
「何言っても怒られそうで嫌かもよ。…あたし、やだな」
―――別に怒るつもりなんて…
「優しく聞いてみたら?」
―――そんな、簡単な事…?
真実を問い質すなら、真剣に聞かなければいけないという固定概念に囚われていたという事なのだろうか。
―――そんな事、考えてもみなかった
輝紀にとってクコの発言は軽いものに思えたが、それを口にするまで彼女は真剣に考えてくれたのであろう。
その一生懸命な様子を想像したら、輝紀は柄にもなく大笑いしてしまった。
笑い声を上げる輝紀を見て、クコも一緒に笑ってくれる。
そんな心地良さの中、躍起になって父を探すより、笑って母に聞き出す心の余裕が少しずつ出てくるのを感じた輝紀は、冷静な思考を巡らせて笑顔のクコを見つめた。
「俺もひとつ気になった」
都合良く用意されていた二人分の食事、それに追われて片付けもままならなかったのであろうと思しき部屋。
そう、彼女は…先程喧嘩別れしてしまった相手をここに、連れてくるつもりだった。
その人物は既婚者で、上手くいく筈が無いとはわかっていた、わかっていたけれど。
でも、もしかしたら、自分を選んでくれるのではないか…という小さな期待も虚しく、この結果だ。
だから。
「フラれた直後、出会ったあなたを利用した。ごめん、輝紀。…でもね…」
確かにそれは紛れもない事実。
輝紀はそんな彼女に振り回されて、ここまで来た。
しかし、ここに来るまで抱いていた心の中の張り詰めた気持ちは、今はもう無い。
それを取り除いてくれたのはクコなのだ。
不意にクコの手を取る輝紀は、彼女の言葉を遮る。
「謝られる理由がわからない」
子供の頃から悩んでいた、母に聞いても得られない答えへの打開策を懸命に考えてくれた赤の他人。
感謝と共に抱いた気持ちは何なのだろう。
「あたしも、輝紀にご飯食べてもらえて、嬉しかった」
クコが手を伸ばすから、その手を引き寄せ長い髪に触れる。
この気持ちは…。
出会ってわずか数時間。
こんなに、惹かれるなんて――
不思議だった。
知らない人の筈なのに、初めて触れる人なのに、その温もりはとても優しくどこか懐かしくて…余りの心地良さに夢を見てしまう程で。
――少年輝紀は母の元へ駆け寄り、言いたくなったらお父さんの事教えてね、と笑顔で告げる。
それに相槌を打つ当時の母の笑顔は…。
「あ、起きたー」
ふと目を覚ますと眼前にはクコの笑顔。
輝紀が見ていたのは昔の夢、10年以上も前の事だ。
布団の中でクコの嬉しそうな顔を見ながら体を起こすと、彼女は無邪気な瞳で語りかけてくる。
「ね、“てるき”ってどんな漢字?」
「―え、輝くに、世紀の、紀…」
「じゃあ、キキとも呼べるね」
その余りにも聞き慣れた言葉に輝紀の背筋が凍りつく。
相槌を打つのもやっとの状態の輝紀をよそに、クコは話を続ける。
「変身したみたいでしょ。…自分の事がすごく嫌いな時、読み方変えるだけで別人になれる気がして」
そんな考えを持つ人物が、自分の周りでそういるだろうか。
輝紀はここが過去である事を改めて思い出すと、自分に再度確認をとった。
―――何度も…あった筈だ
「ずっとあの男に執着してた自分が嫌で、咄嗟に名乗った。でも、また自分を好きになれる」
何度も、何度も感じていたのに、たった一度だけ確証を捨てたあの時から別人だと、そう思い込んでいた。
「輝紀のおかげだよ。あなたが、あたしを探してるって言ってくれた」
―――俺は、気づけた筈だ―――
安堵の表情を浮かべたクコは輝紀の手をそっと握りながら小さく願う。
「だから、あたしもうクコじゃない。ねえ、呼んで…あたしの…」
戻らない…過去に来た自分が、今目の前で眠るこの人に寄せてしまった想いは、重ねてしまった体は、もう戻せない。
彼女は…
「村橋さん、いらっしゃいましたよ!」
ハキハキした声が休憩室に響き渡る、望月が七時に入っている予約客が来た事を報告しに来たのだ。
震える手を握り締め、重い体を持ち上げる。
「…今、行く」
26年前に遡った輝紀は探していた、父を探すにあたって真に探さなければならなかった人物を。
それを尋ねた…クコに。
そしてクコは言った―――あたしを探してるって言ってくれた―――
「今晩はー、よろしくお願いしますー」
「村橋さんのお母さん!お待ちしていました」
七時からの予約客は輝紀の母、久子だった。
久子は望月と親しげに挨拶を交わすと入口まで出てきた店長に頭を下げ、休憩室から現れた自分の息子に目を向け、小さく笑い、
「よろしくね」
とそれだけ言うと、望月に連れられシャンプー台へと向かっていった。
その間も女性二人の楽しげな声が響き渡っている。
―――彼女は久子。村橋久子…俺の母親―――
生まれて今まで、知らぬ存在であった父親の正体…それは。
幸せそうに眠るクコを置いて一人静かに部屋を後にする輝紀は途方に暮れた。
無意識に歩く道の先には、自分をここに誘った商店街のからくり時計。
どうして今この時、ここまで躍起になって真実を知りたかったのか…。
輝紀自身が己の存在を誕生させる為だった。
時の干渉への恐怖。
取り返しのつかない事を仕出かした…胸に抱くのは後悔と、何より気掛かりなのはこれからの時を生きるクコの行く先である。
―――過去になんて、来ては…会ってはいけなかった…。これは―――
輝紀を愛してくれた人を不幸にするだけだ。
どんな思いでいるだろう、恐怖に脅えて逃げ出した男の事を…本当の名前を取り戻したあの人は…。
聞き慣れた高い笑い声が聞こえてくる。
今、あの人は笑っている。
輝紀は店内に並ぶ鏡に映った色を失う己の顔を見て思った。
―――決めた筈なのに。
年を取った彼女は真実を語り、輝紀を産んだ事を後悔していないと言ってくれた。
逆に謝った、息子である輝紀に、父と同じ名前をつけてしまった事を。
謝られる理由がわからなかった…全ては、過去に介入した自分自身が悪いのだと、輝紀は悲痛の思いで謝罪する。
「ごめん、母さん」
久子と呼び続ける事はもう、出来ない。
だけど、久子の為に生き続けると決めた、これ以上不幸にさせてはいけないと、苦痛だったであろう26年間育て上げてくれた母に…存在を許してくれた人に感謝を込めて。
なのに。
夢にまで見る。
黒髪のソバージュを靡かせた女性に優しく触れると、彼女は微笑を浮かべて触れてきた手を握り返し、幸せそうに呼びかけてくる。
固い決意が揺らぎそうな程に、突きつけられる罪悪感と…もう一度抱きしめたいと願う気持ちが交錯する。
目が覚めたらすぐ傍にいるのに、その気持ちを伝えたいが伝えられない、だってそれは唯一の肉親なのだから。
そして彼女は座る。
白髪が目立ってきたから髪を染めて、毛先を揃えて…常連ならではのいつもと違わぬ流れで作業に取り掛かろうとした輝紀であったが、ふと自分の手を見つめた。
数週間前過去に行き、クコに触れたあの時から久子に触れるのはこれが初めてで、意識をするつもりはなかったのに考えてしまう。
久子は気付いているのかいないのか、過去に犯した過ちの相手がまさか自分の息子だなんて。
あの時輝紀は不覚にも、現在の久子が所持する仕事用の名刺を、過去のクコの家に置き忘れてきてしまった。
そんな有り得ない出来事が久子の心の中に残っていたのか、彼女は今でもその名刺を綺麗に保管していた。
問い詰められる事はなかったが、その証拠は確固たるものである。
それでも、久子は何も言わなかった。…ただ謝るだけで。
「村橋さん!」
様々な思考を巡らせている時、明快な声質で望月が語りかけてきた。
「お母さん、昔髪の毛長かったみたいですから、また伸ばしたいと仰っていますよ」
「…え?」
すると望月は小声になり言葉を続ける。
「昔の事、今日はたくさんお話してくれて…懐かしくなったからまた、伸ばしてみようかな…って!村橋さん、お母さんの事…可愛くしてあげて下さい」
もう何年も…輝紀がこの美容院に就職してからもずっと、今のショートヘアを保ち続けていたのに、どういう風の吹き回しか。
確かにイメージチェンジはおかしな事ではない、しかし何故今なのだ?
「…、伸ばすんだって?」
「あーそう、ね。そうしようかな。とりあえず毛先は揃えてちょうだい」
「何で今更…」
「そういう時もあるでしょ」
久子はシャンプーをしてもらっていた時に望月と話が盛り上がったと言う。
詳細はわからないが、どうやら輝紀の子供時代の話らしい…本人相手には噫にも出さないが。
そう、これから髪を切る相手は自分の幼少期を知る母親なのだから、今まで幾度となくこの席で行ってきた事なのだから…輝紀は自身に言い聞かせ久子の髪に触れる。
―――あんたは、俺の…母親。
無心でハサミを持ち、髪を切るその様子を久子は静かに見つめていた。
髪を染める作業は望月が担う。
先程と同じように再び二人は甲高い声で盛り上がっていた。
輝紀と話す時は流石にあのようなテンションにならない事はわかっているし、あの出来事以降、輝紀の方が距離を置いてしまっている事は自覚している。
「一応言っておくが」
輝紀の背後から店長が声をかけてくると、楽しそうに話をする女性二人の方に目を向け続けた。
「ここはお前の職場で、お袋さんはお客様だ。そこの所は理解しているよな、提案は構わんが否定しても良いと教えた覚えはない」
「…すみません」
「親孝行してやりな」
口元だけ綻ばせながら去る店長を横目に溜め息をつく輝紀は、自分の頭をこつこつと叩く。
気持ちを逸らすな。
自分を生かしてくれている人こそ苦しい年月を過ごしてきたのだ。
それに報いる為に出来る事は何か。
「…」
それ以前に、考えなくてはならない事がある。
輝紀自身はどうしたいのか。
夢を見る程に思う気持ちは、懺悔を行う為だけのものなのか。
あの時、あの触れ合った時の中にあった気持ちはどんなものであったか。
真実を知っても尚、消えない気持ちならば…自分に与えた戒めを破ってでもしなくてはならない事があると、それは報いか自己満足かわからなかったが、それでも…。
クリスマスに恋人と会う為に美容院に来た女性客。
初々しい光を放つ結婚指輪をつけている店長。
皆それぞれ心に残る何かをして、それはいつまでも記念の日としてその人だけの思い出になる。
もし、仮にだ…あの時輝紀が過去に留まったとしたら、クコに何を残したのだろう。
自分の想いが本物であると、そう告げるに等しい物を残したいと思う筈だ。
ふと左手を見る、着飾る事のない手が何かを訴えているような気がして、輝紀の心底から沈む何かを引きずり出そうとする。
―――ああ、そうだ。
大人になった輝紀が、久子に買い物に付き合わされた時、彼女はある店の前に立ち止まった。
ジュエリーショップ。
当時の輝紀はそんな母に、何の用があるんだ、と文句を言い一人早々とその場を離れたが、それでも久子は遠目に店内の商品を見つめていた。
ぼんやりとそんな出来事を思い出した輝紀は、彼女の行動に当然の事だ、と言わざるを得ない。
結婚がしたくても出来なかった久子はその左薬指に指輪をはめていないのだから、それを求める想いは誰よりも強い筈である。
自分で買っても意味はない、だから見るだけ。
気付くのにここまで時間がかかった、いや、今だからこそ気付く事が出来た。
―――今からでも、遅くないか?
心の中で、髪を染めている人に問いかける。
答えなんて求めていないけれど、自分の中でこれから起こそうとしている行動を肯定したかった。
「綺麗に染まりましたね!」
「ありがと、望月さん。」
会計を済ませながらも談笑を続ける二人を静かに見つめる輝紀。
「あんたも、ありがとね」
「…こちらこそ」
望月にコートを着せてもらっている久子に声をかけられ相槌を打つと、彼女は店長に深々と頭を下げ、店を後にした。
外は白い息が吐ける程の寒さ、クリスマスまで残り僅か。本格的な冬はこれからだと痛感する。
「村橋さん、可愛かったんですね」
突然の望月の発言に拍子抜けした輝紀は首を傾げた。
「何の事だ」
くす、と小さく笑い声を上げる望月は先程久子から聞いた話を嬉しそうに語り出した。
輝紀が保育園に入園して間もない頃、久子は自分の事には目もくれず、育児に仕事に直走っており、あの頃綺麗に手入れしていた黒髪のソバージュは見る影もなく、小さい輝紀を連れ保育園に向かう途中も、同級生の母親たちは身綺麗な格好をしており久子との差は歴然だった。
教室のガラスにうっすら映り込む惨めな姿に幾度となく落胆したと言う。
そんな時、輝紀は通園の間に佇む美容院の中で髪を切られる人々を見た。
夕闇に閉ざされた小さな家の中で洗濯物を畳む母の背中を見た輝紀はおもむろに習いたてのハサミを持ち、ぼさぼさに伸びきった母の髪を…切り落とす。
驚いた久子は咄嗟に息子からハサミを取り上げ、怒声を上げようとしたが、止めた。
笑顔の息子が母にこう言ったから。
「これでおかあさん、きれいになるよ。ぼくおかあさんのかみのけ、きれいにきってあげるからね!」
「だから、美容師になったんですね。もう、すごく可愛いお話だったから!」
覚えていなかった。
物心ついた時からやたらと将来は美容師になったら?と久子に言われた記憶ははっきりとある。
輝紀自身、将来に関して目的は定まっていなかったので、美容師という道を示してくれた母に感謝していた、しかし過去に…久子にそんな事をしてしまったのかと思うとまた新たな罪悪感が生まれてしまう。
しかし、それを望月相手に楽しそうに話していたとなると、それは久子にとって忌むべき思い出ではないのか…。
「お母さん、嬉しそうでした。私にも小さい村橋さんがお母さんの事喜ばせようとして一生懸命だったの、伝わってきましたもん」
「…」
望月の言葉を聞いて、一瞬錯覚を起こす。
この話は自分の幼少時代の話なのに…クコを捨てた自分の…息子が行った行為なのではないかと。
どちらの説も間違いではない、だからこそ戸惑いを隠せずにいる。
―――あんたはどこまで、こんな俺を許してくれるんだ…。
懺悔のつもりなのか、ついぽろりと、眼前でハキハキ喋る望月に、久子が指輪を遠目に見ていた話をするや否や、思い出した!と大きな声を上げながら望月が輝紀に告げた。
「そう、そうです村橋さん!お母さん言ってました、色々あって結婚指輪つけられなかったから欲しいけど、今更ね、って」
俺の心の声が聞こえているのか?と言わんばかりの表情をした輝紀に誰も気づく事はなかったが、望月のこの助言で決意は固まった。
「…じゃあ、買ってやろうか。…息子だけどな」
「お母さんへのクリスマスプレゼントですか!親思いの息子さんを持って幸せですね、お母さん」
「親父がいないから、他に買ってやれる奴なんていないだろうし」
「お母さんに恋人がいたら、買ってくれるんじゃないでしょうか」
「そんな奴いる訳がない!!」
望月の全く悪気のない発言に思わず声を荒らげてしまった輝紀は、慌てて彼女に謝罪する。
これを嫉妬と呼ぶならば、自分は全く息子になりきれていない…これを贈ろうと思う心も息子としてではない事に気付いている。
そんな真意を誰も知る由もなく。
しかしここで問題が発生する。
―――久子の指のサイズなんて、知らないぞ…。
家に帰った所でどうやって聞き出せば良い?
そもそも指輪を注文すると日数がかかるだろうから、然るべき日に渡す事が出来るのか?
頭を悩ましている内に、まさかな…と思いつつ質問してみる。
「なあ望月。あいつの指のサイズなんて…聞いてないよな」
「えっ村橋さん、知らないんですか?」
「えっ」
互いに目を丸くする。
「…知ってるのか…」
翌日、折しも休日であった輝紀は単身ジュエリーショップへ赴くのだが、客も店員も女性ばかりで浮き足が立ってしまう上に、追い打ちをかけるような店員の接客に圧倒されてしまう。
ご婚約なさったのですか、式はいつ頃のご予定ですか…背徳行為を行っているかのような気持ちに晒され何とか早く切り上げたかったが、意外と悩むもので。
勧められる指輪は確かに他の商品と輝きが違う…しかし値札を見て押し返してしまう。
良い物を渡したい気持ちは誰でも同じだ、ただ己の懐と商品が釣り合わないのが現実だ。
そんな時ふと目に入ったプラチナの指輪…飾り気は無いがそれが却って良く思える。
価格も何とか手が出せそうだったので、輝紀は恐る恐ると店員に声をかけた。
指のサイズも望月から既に聞いていたので滞りなく話は進んでいく。
すると、
「指輪に裏側に刻印をお入れする事が出来ますが、いかがいたしますか?」
「刻印?」
「はい、ご自分とお相手のイニシャルや、お二人だけのメッセージを指輪に裏側に」
イニシャル…メッセージ。
その提案にしばらく考え込む輝紀、そもそもそんなものを刻んでも良いのだろうか。
「…」
指輪を贈る理由は何だ。謝罪か、懺悔か、そうではない…輝紀自身の想いだ。
何度立ち止まれば気が済むのだと、心中で自身を一喝すると、顔を上げて店員に返事をする。
「お願いします、刻む文字は…」
「それでは、仕上がりは大体1ヵ月程頂戴致します」
「え、ちょ、それだと、困るん…ですが」
「お客様の選ばれた商品ですと、お時間かかりますね。加えてクリスマスという事もありますので」
まさかの展開に輝紀は焦りを隠せない。
自分の中で決めていた贈る日を変える訳にはいかない、そう同じ気持ちでいる人々がいるからこそ納期はよりかかってしまう。
「じゃあ、2週間程で出来る物はありますか?」
「…えー…、そうしますと…」
難しそうな表情をしながら店員は商品を探す…結果、輝紀の予算をオーバーしたプラチナの指輪が差し出された。
致し方ない、と支払いを済ませると安堵したのか、一気に脱力する。
「それでは、商品が入荷しましたらお電話にてご連絡致します」
慣れない買い物と予想外の展開を無事終えた達成感を噛み締めていた輝紀だったが、ふと我に返ると場違いな自分に羞恥心を抱き、そそくさと店を後にした。
店内の暖房機器と、緊張、脱力の精神状態により温められた体が冬の外気に当たり、非常に心地良く感じられる。
「疲れた…」
でも、不思議と笑みが零れるのに気が付いた時、26年という時間の重みをやっと軽くしてあげられる、と思った。
言葉には出来ない、してはいけないが、渡そうとするその指輪に想いを詰め込んで。
それから2週間、毎日の輝紀はぼんやりというより、来たる連絡を待つ為やたらと落ち着きのない様子だったようで、望月や店長、挙句の果てには久子本人にまで、
「あんた最近どうしたの?やたらとスマホ見ちゃって…」
とまで言われる始末。
もしかしたら、これからプロポーズをする男はこんなに落ち着かない気持ちなのだろうか、などと考えてしまう。
全く、らしくない。
思えば、過去に行ったあの時もクコに振り回されて随分と自分らしくない事をしていたと思う。
今までだって、女性と付き合った経験はある筈なのに何故なのか…と。
ふぅと、細い息をついて来店する予約客を迎え入れる輝紀。
クリスマスイブまであと数日を切っていた。
陽光が大きな窓から差し込み、輝紀の立つ場所を優しく照らす。
彼は白いタキシードを着て一人、誰かを待っている。
ふと周囲を見渡すと、そこは静謐を守りながら輝紀を温かな光で包み込む教会だった。
輝紀の右手には、先日購入した指輪が握られていて、その裏側には彼が頼んだ通りの文字がしっかりと刻まれている。
その時。
教会入口の扉が大きな音を立てて開かれる。
純白のドレスに柔らかなヴェールを身につけた女性が入ってきたのだ。
少し歩きにくそうにゆっくりと歩み寄ってくる姿を、静かに見守り、やがて祭壇まで辿り着いたその人に左手を差し伸べ、自分の前へと導く。
すると彼女はゆっくりと、身につけていたグローブを外したので輝紀は彼女の左手を取り、右手に納められていた指輪をそっと薬指にはめ込んだ。
「ありがとう」
小さく呟いたその人の声は微かに上擦って、体を少し震わせていた。
そんな彼女の顔を覆うヴェールを外そうと輝紀が手をかけようとすると、彼女はそのままの声で呼びかけてきた。
「…てる…」
「…キ、キキ」
やけにクリアな声質が輝紀の耳元で聞こえてくる。
ヴェールを掴み損ね、持て余された手がその声の主の前で止まった。
「もうこんな時間だけど…遅刻じゃないの?」
ぼんやりした思考が明らかになった頃、輝紀は夢を見ていた事に気付き、遅刻という単語に顔面蒼白させ寝床から飛び出した。
平然とした顔で輝紀を起こしに来たのは母、久子。
「あたしは休みだから」
と言い残すとそそくさと彼の部屋を出ていく。
朝食も取らず、髪の毛も乱れたまま一目散に職場へと走り出す輝紀と、その背中を見つめる久子。
外は今朝も冷たい空気に覆われていた。
今日は日曜日、12月24日の…日曜日。
昨夜、輝紀は待っていた。
未だ入らぬ指輪入荷の連絡を。
もう店が閉店しているとわかっているのに、夜が更けてからもずっと。
もし、今日指輪を渡せなかったら、また自分は後悔する。
時間に縛られ時間から逃げたあの時のように、自分だけまるで関係のない出来事のように生き続けてきたこの26年間を。
だから今度こそは…自分の決めたこの時に、長い時を一人背負い続けてきたあの人に、想いを証明出来るものを、差し出すのだ。
「村橋さん、おはようございます!遅かったですね」
何とか営業時間前までに職場に到着出来た輝紀は、元気良く挨拶をする望月に相槌を打つと肩で息をしたまま急いで髪型を整えた。
「今日はクリスマスイブですからね、忙しいですよ!」
「あぁ、わかってる」
「そういえば、お母さんへのプレゼント渡せました?」
「…」
良い返事が返ってこないので、事が成し得ていないのだと理解した望月はそれ以上の質問を控え、開店作業を始める。
気を遣われた事に気付いた輝紀だったが、余裕の無い心境を悟られたくないのでそのまま黙って自分の作業を進めていった。
一方、自宅で休日を満喫する久子は、外出でもしようと思い準備までしたのだが、
「うーん」
と、唸ると踵を返し自分専用とも言えるソファに座り込んだ。
テレビをつけても、その先はクリスマスの話で持ち切りだったので、そそくさと消す。
「はあ…」
輝紀が小さい頃は、背の低いツリーを用意したり、カットされたケーキにサンタの砂糖菓子を乗せたり、ちょっとしたプレゼントをしたりして、そのイベントを楽しんでいたが、大人になればそれも素直に楽しめない。
ましてや、独り身の自分にとっては。
息子を産んだ事は、久子にとっての幸せだ、それは今も…これからも変わらない。
ひとつだけ思うのは、彼の名前だ。
「違う名前に、すれば良かったかな」
自分の息子に、たった一度会った相手の名前を付けた事を最近になって考えるようになったのは、息子が26年前のその相手にあまりにも似てしまい、久子自身が困惑してしまっているからである。
つい先日放送したテレビ番組で紹介された、過去へ誘うからくり時計、父の正体を知りたがる息子、そしてその息子が表情を曇らせて帰ってきたあの日、何を思ったか父の話をしてしまった自分。
好きになるつもりなんてなかったのに、付き合っていた男にフラれた腹いせに目の前にいた見知らぬ彼に、話を聞いてもらいたかっただけなのに。
知らない人なのに…自分を探していると言われたその時、久子の心は揺れ動いていた。
昔から自分の過ちを隠そうとすると、偽名を使って知らんぷりしてきた久子はこの時も、名前を偽ってその人と行動を共にする。
一生懸命作った夕飯を好きな味だと言って食べてくれた所も、相手を気遣う思考回路が似ている所も、今までの男とは違っていた。
だから、だから…この人とならずっと一緒にいたいと思ったのに、たった3時間だけだった。
いつまでも待っていたのに、その人が姿を見せる事はなくて。
宿った命を捨てる事だって出来たのに、出来なかった。
当然だ、誰が相手でも自分の子なのである。
父に、母に…兄に捨てられてまで守った命が唯一の、彼が存在し久子と出会ったという記憶を結ぶ大切なものだから…二度と会う事が出来ない彼の名前を…つけた。
その名を呼ぶ事がどういう事かわかっていたのに、ただ虚しく思い出すだけなのに、それでも記しておきたくて…結果生まれた子供は愛称で呼ばざるを得ない状況に陥ってしまうのだから、おかしな話である。
「馬鹿だね、あたし」
しかし時が経った今、不可解な発見をしてしまう。
当時、いなくなった彼が落とした名刺は、26年後…即ち現在の久子が勤める会社、及び肩書きのついたものなのだ。
今も脳裏に焼き付いているあの姿と、同じ服装で、同じ顔で、同じ声で、同じ名前で佇む自分の息子とその名刺の存在と…。
あれは、一体誰だったのか。
彼女は誰と触れ合ったのか。
誰がその答えを知っているというのか。
知り得る限りを初めて誰かに話した1ヵ月前を期に、自分の中で何かが吹っ切れて、あの時の記憶が懐かしいものに変わった気がしたから思い切って見た目を変えようとした。
お気に入りだった当時の髪型…そのままとはいかないけれど、少し伸ばしてパーマをかけて…。
そのオーダーを怪訝そうに聞くスタイリストの顔が浮かぶ、まるで拒否されるような。
全てを語ったあの夜に…ごめん、と謝られた意味が理解出来なくて、謝罪すべきは自分なのに、何故帰ってきた息子は驚きもせず話を聞いてくれたのか。
空っぽの指を見つめながら、わからないよ、と小さく呟き、華やかなイベントである今日という日を意味なく過ごそうとしていた。
「本当ですか!わかりました、今日中に伺います」
昼を回り、多忙で人手が足りない中やっと入れた休憩中に、タイミング良くかかってきたのは待望の指輪が入荷したという電話連絡だった。
まだ休憩中だから、急いで店に行けば間に会うと思い立ち上がった輝紀だったが、店長が彼の元へ慌ててやってくると、
「村橋、悪い。予約なしのお客様が来店されたから出てくれないか」
口早にそう言い、返事を待たず店内へ消えていった。
勤務中故に起こる仕方のない呼び出しに応じ輝紀は店長の後を追うと、既に席でスタイリストを待つ客の姿を見つけ足早に向かう。
そんな事を繰り返していたら、日はとっぷりと暮れ、外は街灯と電飾の光で彩られていた。
―――嘘だろ…
あと一人で今日の客は終わるが、今望月がシャンプーをしている最中で終わるのは営業時間を過ぎそうな予感しかしない。
しっかりと手を動かしているものの、輝紀の動向が気になっている望月はちらちらと彼の様子を窺う。
自分の勤める店の閉店時間と、ジュエリーショップの閉店時間は同じなので間に合わないのは目に見えている。
今日中に渡すのは諦めるしかないと、溜め息をついた時、肩をぽんと叩かれた。
「あのお客様に指名はなかった。…今日はこれで上がれ」
「店長、それは…」
「それがお前なりの親孝行なんだろ」
遠くで望月も心配そうに見つめている。
ややあって輝紀は店長に頭を深く下げ、急いで外へ駆け出した。
二人が小さく笑い、無言で見送る。
閉店作業を始めていたジュエリーショップに滑り込んだ輝紀が手にした小さな箱に納められていたのは、待ち望んだ小さなリング。
安堵で顔を綻ばせる輝紀をよそに、作業を進めたいという雰囲気を醸し出す店員の様子に気付くや否やショップを後にする。
その瞬間、消灯されたショップ。
ギリギリセーフで間に合ったのだと改めて思うと、当たり前の呼吸を意識し始め、予想以上に荒い息をしていた事に気付き、自身に苦笑しながらゆっくりと自宅方向に足を向けた。
まだ、自分が担当する筈だった客はカットしてもらっているのだろうか、それを請け負ってくれた店長と望月は閉店時間を過ぎているのに仕事をしているだろう、あの人たちこそ家族や大切な人がいるのに自分だけ…。
勢いだけでここまで来たが、果たしてこれは正しい事なのだろうか。
久子は母親だ、これを渡した所で笑い転げて終わりかもしれない、無駄なのかもしれない。
でも…。
暗がりに瞬くイルミネーションの煌めきの中で睦まじく歩く人々を見ると、その幸せそうな表情に、あの時の自分を照らし合わせる。
クコと並んで歩いた商店街で、すれ違う人たちから見えた二人の姿はどんなものだったのか…いや、誰の目にも映らなかったかもしれない。
皆が皆、自分たちの幸せを生き、未来ある歩みを進めている。
振り返っているのは…自分だけ?握り締めているこの箱は何だ?
あの時、確かに抱いていた本当の想いを形にして、未来の道を作る事が自分を…彼女を解放出来るのだと信じたくて。
ただの自己満足だとわかっているが、もう、後戻りはしない。
家に帰ると、照明は点いているものの静かだった。
案の定ソファで眠る久子は寝息を立てている。
「おい、ソファで寝るなって」
返事がないので熟睡しているのだろうと思いながら、後ろを振り返るとキッチンに小さなケーキがサンタクロースを乗せ、食べてくれる人を待っていた。
クリスマスを実感させる物を、家で見るのは久しぶりで、久子もまたその雰囲気を感じようとしたのだろうか。
何も知らない子供の頃に、二人なりに楽しんだ事を不意に思い出した。
大変だっただろうに、輝紀が眠っている枕元にプレゼントを置いて用意してくれた母、久子。
この人は母だ。
そして輝紀が最も愛する人だ。
変わる事のない気持ちを胸に、輝紀は意を決した。
おもむろに先程受け取った指輪を取り出すと、眠る久子の前に跪き、左手を取る。
まるで夢の中にいるように、右手で握り締めていた指輪を彼女の薬指に納め、心の中で小さく呟く。
―――メリークリスマス
気が付かないならそれで良い。
言葉に出来ないけれど、確かに届けられた。
君を知った、初めてのクリスマスに。
ふと目を覚ました久子は慌てて時計を見ると、丑三つ時とも言える時間だった。
今日は仕事なのに、またソファで寝てしまった…と渋い表情で立ち上がろうとしたら、何かが物音を立てずに久子の足元に落ちる。
掛けた覚えのない小さな毛布。
それを持ち上げてソファに乗せると、キッチンに置いてあったケーキを乗せた皿が綺麗に洗われていたのに気付き、それらの痕跡から輝紀が帰ってきている事を認識した。
「起こしてくれたって良いのに」
少しむくれ顔をするが、結局は自分が悪いのだと苦笑いをする。
ちゃんと用意したケーキを食べてくれた事は嬉しかったので、チャラにしてあげようと頷きながらその皿を棚に戻そうとした時、違和感を覚えた。
「何、これ…」
左薬指に光る銀色の指輪。
表情を曇らせた久子は目を疑う、そして恐る恐ると指輪を外す。
じっとそれを見つめるが、全く記憶にない品にただ疑問を抱くだけで、立ち尽くしてしまう。
これは夢?少しばかり自分の手の甲をつねってみるが…痛みを感じる、夢ではない。
はっ、と思いついた彼女はおもむろに指輪の内側を覗き込む。
刻まれた文字は、
―――T to H ...k
硬直した久子と煌めく指輪と、その文字の意味と。
理解するのに時間はかからなかった、いや…かかる訳がなかった。
このメッセージは、誰にも書けない…あの時を共有した、あの人だけしか。
今は何年?これは、サンタクロースからの時を越えたプレゼントなの?
震えた指に共鳴するかのように視界が滲んでいき、抱き締めるように指輪を手の平に納め、それに語りかける久子。
「ありがとう…、輝紀」
その声は微かに上擦っていた。
25日のクリスマス。
とは言え、イベントらしきものは昨日終えたようなもので、いつも通り、けたたましく鳴り響くアラーム音に頭を激しく叩かれ瞳を開く輝紀。
遠くでドアの鍵を閉める音が聞こえる…聞き慣れた、久子が出かけていく音。
今日の月曜日は二人とも仕事だ、出社時間が若干異なるのでこのようなすれ違いは当たり前の光景である。
体を起こしてアラームを止めると、すぐ脇に昨日久子に渡した指輪のケースが転がっていて、ゆっくりとそれに手を伸ばす。
輝紀はケースを開いて、納められたもうひとつの指輪を取り出した。
そう、これはペアリング。
刻印こそしなかったものの、久子の指輪と対になっているものを、輝紀も左薬指にはめ込む。
似合わないな、と目を細めながらそれを見つめると、そのまま立ち上がり支度を始めた。
澄んだ冷気に包まれた空の下を歩く輝紀の気持ちは、昨日のものとは打って変わっている。
この透った空気のように閊えた何かが解かれたような…そんな気持ちだ。
白の混ざる青の中に輝く太陽の光に煌めく指を見て、この場にいない相手に心で語りかける。
―――
これはあんたの前ではつけないよ。その資格はないから。
でも、やっと渡せた。
例え心の中でも言葉に出来ないこの想いが、
あんたにとっては別の人からのものだと思われても良い。
それがあんたの幸せになるのなら。
代わりに、俺にもあの時…あんたが受け入れてくれた証明を貰うよ。
あんたと一緒にいない時だけ、俺はあんたの…―――
瞳を閉じて言葉を遮る。
言う必要はない。今も、これからも。
いつもと同じ日常が始まる。
変わらない気持ちを抱きながら、新たな時を歩んでいく。
end
冷たく澄んだ空気を肌で感じる度、本格的に冬がやってきたのだと痛感する。
あと何週間かすれば大人も子供も待ち望むクリスマスを迎えるが、面白い程に興味のない日だ。
折しもクリスマスイブである24日は日曜日…ただひたすら仕事に勤しむだけで終わりそうだと、わかりきった様子が目に浮かぶ。
恋人でもいるならば何としてでも時間を作るであろうが、そんな相手もいる筈がなく。
そう、いる筈がない。
そんな気持ちを持つ資格はない。
「…さん…、村橋さん!」
ふと呼ばれている事に気が付いた村橋と呼ばれた青年…村橋輝紀は手にした冊子から顔を逸らし、声の主に目をやった。
「あの、その…予約表、貸して頂けますか」
「あぁ…悪い」
仕事中に上の空とは…と心中で己を諫めながら声をかけてきた明るい栗色のボブヘアーの女性…望月に、役割を与えてもらえず退屈そうだった客の予約を入れる為の冊子を手渡す。
「最近ぼんやりしている事、多いですね。店長も心配していましたよ」
「…そうか、そう…見えるか」
輝紀の勤める先は美容院『Le Temps(ルタン)』…時を意味するこの店でスタイリストとして日々を過ごしている彼は、ここ数日でこの店名を見る度にある皮肉を覚えていた。
過去に干渉した代償。
踏み入れる事が許されない領域にほんの少し触れた時には全てが遅かった。
輝紀には父親がおらず、母・久子の手ひとつで育ってきた。
何故父がいないのか…幾度となく母に問い質してきたが答えが返ってくる事はなく時間だけが進んでいった。
「今日、いらっしゃいますよね、村橋さんのお母さん。私、お話するの楽しくて!」
入社して間もないアシスタントの望月は、まだ仕事に手一杯で客と話をする余裕もないのだが、何度か来店した輝紀の母、久子の安閑とした様子に話しやすさを覚えているらしい。
面倒見の良い母だ。
お喋り好きでこうやって誰とでも気さくに話す。
その強さと優しさは昔から変わらない。
それでも真実は語らなかった。
あの時までは。
つい数週間前の出来事。
仕事から帰った輝紀の前に、同じく仕事から帰って何時間経っているであろう…ショートヘアを明るい茶色に染めた久子がソファでこくりこくりと頭を揺らしていた。
「久子。ソファで寝るな、風邪ひくぞ」
母を名前で呼ぶようになったのはいつからだろう、照れくさいと思い始めた年齢になった頃からか。
そんな彼女は輝紀をキキと呼ぶ。幼少時から、ずっと。
自分のつけた名前にも関わらず、その名を呼ばない母に苛立ちを覚えたのも同じ頃であった。
そんな時、テレビのバラエティ番組で流されたのは自宅近所にある今は寂れた商店街…そこに建つ大きなからくり時計が小さな画面を通して紹介される。
――悩める人を過去へ誘う――
この番組に感化されたのか、それとも別の…何かに手を引かれるような…誘われるような、湧き上がる父への探求心が、輝紀の中で弾けるように歩みを促した。
明日でも明後日でもない、今日…今すぐ父の存在を、答えを知りたい。
久子の制止も振り切り、更けた夜の中来たる商店街のからくり時計の前で、立ち尽くす輝紀。
多くの店は過去の栄華を失い錆びついたシャッターで閉ざされている…テレビの作られた世界に惑ってやってきたものの、過去へ誘うなどと非現実的な事が起こり得る筈ないのに、幼い自分を思い浮かべながら、父と別れて今を生きる母を案じた。
「…村橋さん。やっぱりぼんやりしていますよ!」
「望月、今日も来たら…無駄話に付き合ってやってくれ」
「えっ!?あ、ハイ…!」
声をかけたつもりが思わぬ切り替えしを受けた望月はたじろいだが、輝紀の発した言葉が今日やって来る彼の母親の話題だと知りハキハキと返事をすると、同時に入店してきた客の案内に走っていった。
「今日は、どうなさいますか」
望月が受け付けた客は輝紀指名の予約客で、綺麗に化粧をした顔を綻ばせながら輝紀の問いに答える。
「そんなに短くしなくて良いので…パーマをかけて欲しいです!」
眼前のロングヘアーを見つめ、輝紀は首を縦に振った。
「今年のクリスマスが彼と初めてのデートなんです、だから…可愛くして下さい」
「わかりました」
恥ずかしそうに懇願する女性客を見て、真っ当な幸せを感じ取った輝紀はあの時を思い出す。
見慣れた筈の寂れた商店街に光と笑い声が溢れる光景。
ほんの少し前までは訝しんでいたのに、受け入れるのに不思議と時間はかからなかった…輝紀の立つここは26年前の過去だという事に。
自らで探し出せるのだ、父親を。
ちらと見たからくり時計で七時と確認し、歩を進めようとしたその時、背後から女性がぶつかってくる。黒髪のソバージュでスーツを着ており、きちんとした社会人に見えたが輝紀と目が合うなり大泣きするという暴挙に出た。
喫茶店で彼女をなだめると、どうやら付き合っていた人物と喧嘩別れをしたそうで、その話は延々と続く。
この理不尽な状況は自分が度々母・久子にくらっているものに良く似ていた。
――もしかして…
過去にやってくるという事自体が異常なのだから、目の前に座る女性が自分の母親である可能性もないとは言い切れない…輝紀は彼女に聞いてみる。
「あんた…村橋久子、じゃないよな。俺、そいつ探してて…」
その名前を出した途端表情を曇らせる女性は突如怒りをむき出しにして、自分はクコだと名乗った。
故に輝紀は感じ取った、彼女ではなく…先程別れた人物の相手こそが久子なのだ、と。
パーマ液をつける時、最近考えてしまうのは、クコの事だ。
この女性客のように長い髪だった、輝紀より少し年上だったからお姉さんぶっていたが、何だか頼りない…放っておけない人だった。
そんな彼女が美容院でどうオーダーしていたのか、なんて事が頭をよぎるのだ。
「村橋さんはクリスマス…お仕事終わってから彼女さんと会うんですか?」
「いえ…残念ながら」
苦笑いをしながら、問いかけてくる女性客に返事をする。
求めている人に会える筈など、ない。
「あたしのご飯、作り置きで良ければごちそうしてあげるよ」
無邪気な表情を浮かべながら、クコは空腹を隠せない輝紀にそう語りかける。
知り合って僅か数十分の人間、しかも異性を誘いかける女性に輝紀は焦りつつも、目的である父…結果として久子を探さなければ埒があかないと判断し、クコが別れた男の足取りを辿ろうと、誘いを断りかけた時。
クコが余りにも悲しそうな顔をするものだから、輝紀は断る事が出来なかった。
不思議と良心が痛む…それが何故なのか考える余裕もないまま、
「じゃあ少しだけ…」
今、足をついているこの場所は本来自分の存在する筈のない過去、いつどこで戻るかも分からない状況で、眼前の女性の笑顔に導かれるままに歩き始める。
不安。
久子は輝紀に父親の存在を語らない。
まるで生まれてきた自分の存在すら認めてもらえないと錯覚する。
クコの自宅に向かう途中、父について質問されたので思わず不安を吐露したら、逆に彼女は小さく謝った。
輝紀自身、赤の他人にここまで話してしまう自分に驚きながらも、話しやすいクコに安堵感を覚えていた。
そんな時。
細い指が輝紀の手を優しく握る。
「ここだよ」
と、クコは微笑みを浮かべ、輝紀を辿り着いた自宅へと招き入れた。
―――弱ったな…
綺麗に巻かれた髪を満足そうに見つめ、心躍らせながら店を出ていく客に頭を下げて輝紀は時計に目をやった。
そろそろ七時…忘れたくても忘れられない、クコと出会った時間。
その時間に予約を入れた客がやってくる。
輝紀はそれまで休憩室で待機していると、店長が追うように入ってきて手にした飲み物を差し出し、声をかけてきた。
「上の空の理由を聞く気は無いが、お袋さんに心配かけるんじゃないぞ」
「…」
店長の言葉に何も返せない輝紀は受け取った飲み物を一気に飲み干し、ふと店長の手先に目をやる。
つい先日結婚した店長の指にはめられた真新しい指輪が、蛍光灯の光に当たり小さく煌めいていた。
「お前もそろそろ結婚してお袋さんを安心させてやりな」
「…」
輝紀の肩を軽く叩き店長は休憩室を後にする。
一人、言われた言葉を思い返す輝紀は、胸が締め付けられるかのように表情を歪めた。
自分は年上だからなんて偉そうにしていたのに、部屋はちらかり、物は落とすし、でも言い訳だけは立派で。
それなのに料理は非常に食べやすい…輝紀の舌に合う味で。
一瞬、彼女と母、久子を重ねて見てしまう程、その行動は見慣れたものだった。
小さなアパートの一室に当たるクコの家で、輝紀は二人分用意された彼女手作りのチキンライスを一皿綺麗に食べきる。
「輝紀のお母さんの味に似てるのかな」
輝紀の食べっぷりを嬉しそうに見ていたクコは、先程の…輝紀の父の話を今一度聞いてきた。
その話題になると途端に怒りの表情を露にする輝紀に、クコはけろりと言い放つ。
「輝紀、怖い顔してたんじゃない?」
―――怖い、顔?
「何言っても怒られそうで嫌かもよ。…あたし、やだな」
―――別に怒るつもりなんて…
「優しく聞いてみたら?」
―――そんな、簡単な事…?
真実を問い質すなら、真剣に聞かなければいけないという固定概念に囚われていたという事なのだろうか。
―――そんな事、考えてもみなかった
輝紀にとってクコの発言は軽いものに思えたが、それを口にするまで彼女は真剣に考えてくれたのであろう。
その一生懸命な様子を想像したら、輝紀は柄にもなく大笑いしてしまった。
笑い声を上げる輝紀を見て、クコも一緒に笑ってくれる。
そんな心地良さの中、躍起になって父を探すより、笑って母に聞き出す心の余裕が少しずつ出てくるのを感じた輝紀は、冷静な思考を巡らせて笑顔のクコを見つめた。
「俺もひとつ気になった」
都合良く用意されていた二人分の食事、それに追われて片付けもままならなかったのであろうと思しき部屋。
そう、彼女は…先程喧嘩別れしてしまった相手をここに、連れてくるつもりだった。
その人物は既婚者で、上手くいく筈が無いとはわかっていた、わかっていたけれど。
でも、もしかしたら、自分を選んでくれるのではないか…という小さな期待も虚しく、この結果だ。
だから。
「フラれた直後、出会ったあなたを利用した。ごめん、輝紀。…でもね…」
確かにそれは紛れもない事実。
輝紀はそんな彼女に振り回されて、ここまで来た。
しかし、ここに来るまで抱いていた心の中の張り詰めた気持ちは、今はもう無い。
それを取り除いてくれたのはクコなのだ。
不意にクコの手を取る輝紀は、彼女の言葉を遮る。
「謝られる理由がわからない」
子供の頃から悩んでいた、母に聞いても得られない答えへの打開策を懸命に考えてくれた赤の他人。
感謝と共に抱いた気持ちは何なのだろう。
「あたしも、輝紀にご飯食べてもらえて、嬉しかった」
クコが手を伸ばすから、その手を引き寄せ長い髪に触れる。
この気持ちは…。
出会ってわずか数時間。
こんなに、惹かれるなんて――
不思議だった。
知らない人の筈なのに、初めて触れる人なのに、その温もりはとても優しくどこか懐かしくて…余りの心地良さに夢を見てしまう程で。
――少年輝紀は母の元へ駆け寄り、言いたくなったらお父さんの事教えてね、と笑顔で告げる。
それに相槌を打つ当時の母の笑顔は…。
「あ、起きたー」
ふと目を覚ますと眼前にはクコの笑顔。
輝紀が見ていたのは昔の夢、10年以上も前の事だ。
布団の中でクコの嬉しそうな顔を見ながら体を起こすと、彼女は無邪気な瞳で語りかけてくる。
「ね、“てるき”ってどんな漢字?」
「―え、輝くに、世紀の、紀…」
「じゃあ、キキとも呼べるね」
その余りにも聞き慣れた言葉に輝紀の背筋が凍りつく。
相槌を打つのもやっとの状態の輝紀をよそに、クコは話を続ける。
「変身したみたいでしょ。…自分の事がすごく嫌いな時、読み方変えるだけで別人になれる気がして」
そんな考えを持つ人物が、自分の周りでそういるだろうか。
輝紀はここが過去である事を改めて思い出すと、自分に再度確認をとった。
―――何度も…あった筈だ
「ずっとあの男に執着してた自分が嫌で、咄嗟に名乗った。でも、また自分を好きになれる」
何度も、何度も感じていたのに、たった一度だけ確証を捨てたあの時から別人だと、そう思い込んでいた。
「輝紀のおかげだよ。あなたが、あたしを探してるって言ってくれた」
―――俺は、気づけた筈だ―――
安堵の表情を浮かべたクコは輝紀の手をそっと握りながら小さく願う。
「だから、あたしもうクコじゃない。ねえ、呼んで…あたしの…」
戻らない…過去に来た自分が、今目の前で眠るこの人に寄せてしまった想いは、重ねてしまった体は、もう戻せない。
彼女は…
「村橋さん、いらっしゃいましたよ!」
ハキハキした声が休憩室に響き渡る、望月が七時に入っている予約客が来た事を報告しに来たのだ。
震える手を握り締め、重い体を持ち上げる。
「…今、行く」
26年前に遡った輝紀は探していた、父を探すにあたって真に探さなければならなかった人物を。
それを尋ねた…クコに。
そしてクコは言った―――あたしを探してるって言ってくれた―――
「今晩はー、よろしくお願いしますー」
「村橋さんのお母さん!お待ちしていました」
七時からの予約客は輝紀の母、久子だった。
久子は望月と親しげに挨拶を交わすと入口まで出てきた店長に頭を下げ、休憩室から現れた自分の息子に目を向け、小さく笑い、
「よろしくね」
とそれだけ言うと、望月に連れられシャンプー台へと向かっていった。
その間も女性二人の楽しげな声が響き渡っている。
―――彼女は久子。村橋久子…俺の母親―――
生まれて今まで、知らぬ存在であった父親の正体…それは。
幸せそうに眠るクコを置いて一人静かに部屋を後にする輝紀は途方に暮れた。
無意識に歩く道の先には、自分をここに誘った商店街のからくり時計。
どうして今この時、ここまで躍起になって真実を知りたかったのか…。
輝紀自身が己の存在を誕生させる為だった。
時の干渉への恐怖。
取り返しのつかない事を仕出かした…胸に抱くのは後悔と、何より気掛かりなのはこれからの時を生きるクコの行く先である。
―――過去になんて、来ては…会ってはいけなかった…。これは―――
輝紀を愛してくれた人を不幸にするだけだ。
どんな思いでいるだろう、恐怖に脅えて逃げ出した男の事を…本当の名前を取り戻したあの人は…。
聞き慣れた高い笑い声が聞こえてくる。
今、あの人は笑っている。
輝紀は店内に並ぶ鏡に映った色を失う己の顔を見て思った。
―――決めた筈なのに。
年を取った彼女は真実を語り、輝紀を産んだ事を後悔していないと言ってくれた。
逆に謝った、息子である輝紀に、父と同じ名前をつけてしまった事を。
謝られる理由がわからなかった…全ては、過去に介入した自分自身が悪いのだと、輝紀は悲痛の思いで謝罪する。
「ごめん、母さん」
久子と呼び続ける事はもう、出来ない。
だけど、久子の為に生き続けると決めた、これ以上不幸にさせてはいけないと、苦痛だったであろう26年間育て上げてくれた母に…存在を許してくれた人に感謝を込めて。
なのに。
夢にまで見る。
黒髪のソバージュを靡かせた女性に優しく触れると、彼女は微笑を浮かべて触れてきた手を握り返し、幸せそうに呼びかけてくる。
固い決意が揺らぎそうな程に、突きつけられる罪悪感と…もう一度抱きしめたいと願う気持ちが交錯する。
目が覚めたらすぐ傍にいるのに、その気持ちを伝えたいが伝えられない、だってそれは唯一の肉親なのだから。
そして彼女は座る。
白髪が目立ってきたから髪を染めて、毛先を揃えて…常連ならではのいつもと違わぬ流れで作業に取り掛かろうとした輝紀であったが、ふと自分の手を見つめた。
数週間前過去に行き、クコに触れたあの時から久子に触れるのはこれが初めてで、意識をするつもりはなかったのに考えてしまう。
久子は気付いているのかいないのか、過去に犯した過ちの相手がまさか自分の息子だなんて。
あの時輝紀は不覚にも、現在の久子が所持する仕事用の名刺を、過去のクコの家に置き忘れてきてしまった。
そんな有り得ない出来事が久子の心の中に残っていたのか、彼女は今でもその名刺を綺麗に保管していた。
問い詰められる事はなかったが、その証拠は確固たるものである。
それでも、久子は何も言わなかった。…ただ謝るだけで。
「村橋さん!」
様々な思考を巡らせている時、明快な声質で望月が語りかけてきた。
「お母さん、昔髪の毛長かったみたいですから、また伸ばしたいと仰っていますよ」
「…え?」
すると望月は小声になり言葉を続ける。
「昔の事、今日はたくさんお話してくれて…懐かしくなったからまた、伸ばしてみようかな…って!村橋さん、お母さんの事…可愛くしてあげて下さい」
もう何年も…輝紀がこの美容院に就職してからもずっと、今のショートヘアを保ち続けていたのに、どういう風の吹き回しか。
確かにイメージチェンジはおかしな事ではない、しかし何故今なのだ?
「…、伸ばすんだって?」
「あーそう、ね。そうしようかな。とりあえず毛先は揃えてちょうだい」
「何で今更…」
「そういう時もあるでしょ」
久子はシャンプーをしてもらっていた時に望月と話が盛り上がったと言う。
詳細はわからないが、どうやら輝紀の子供時代の話らしい…本人相手には噫にも出さないが。
そう、これから髪を切る相手は自分の幼少期を知る母親なのだから、今まで幾度となくこの席で行ってきた事なのだから…輝紀は自身に言い聞かせ久子の髪に触れる。
―――あんたは、俺の…母親。
無心でハサミを持ち、髪を切るその様子を久子は静かに見つめていた。
髪を染める作業は望月が担う。
先程と同じように再び二人は甲高い声で盛り上がっていた。
輝紀と話す時は流石にあのようなテンションにならない事はわかっているし、あの出来事以降、輝紀の方が距離を置いてしまっている事は自覚している。
「一応言っておくが」
輝紀の背後から店長が声をかけてくると、楽しそうに話をする女性二人の方に目を向け続けた。
「ここはお前の職場で、お袋さんはお客様だ。そこの所は理解しているよな、提案は構わんが否定しても良いと教えた覚えはない」
「…すみません」
「親孝行してやりな」
口元だけ綻ばせながら去る店長を横目に溜め息をつく輝紀は、自分の頭をこつこつと叩く。
気持ちを逸らすな。
自分を生かしてくれている人こそ苦しい年月を過ごしてきたのだ。
それに報いる為に出来る事は何か。
「…」
それ以前に、考えなくてはならない事がある。
輝紀自身はどうしたいのか。
夢を見る程に思う気持ちは、懺悔を行う為だけのものなのか。
あの時、あの触れ合った時の中にあった気持ちはどんなものであったか。
真実を知っても尚、消えない気持ちならば…自分に与えた戒めを破ってでもしなくてはならない事があると、それは報いか自己満足かわからなかったが、それでも…。
クリスマスに恋人と会う為に美容院に来た女性客。
初々しい光を放つ結婚指輪をつけている店長。
皆それぞれ心に残る何かをして、それはいつまでも記念の日としてその人だけの思い出になる。
もし、仮にだ…あの時輝紀が過去に留まったとしたら、クコに何を残したのだろう。
自分の想いが本物であると、そう告げるに等しい物を残したいと思う筈だ。
ふと左手を見る、着飾る事のない手が何かを訴えているような気がして、輝紀の心底から沈む何かを引きずり出そうとする。
―――ああ、そうだ。
大人になった輝紀が、久子に買い物に付き合わされた時、彼女はある店の前に立ち止まった。
ジュエリーショップ。
当時の輝紀はそんな母に、何の用があるんだ、と文句を言い一人早々とその場を離れたが、それでも久子は遠目に店内の商品を見つめていた。
ぼんやりとそんな出来事を思い出した輝紀は、彼女の行動に当然の事だ、と言わざるを得ない。
結婚がしたくても出来なかった久子はその左薬指に指輪をはめていないのだから、それを求める想いは誰よりも強い筈である。
自分で買っても意味はない、だから見るだけ。
気付くのにここまで時間がかかった、いや、今だからこそ気付く事が出来た。
―――今からでも、遅くないか?
心の中で、髪を染めている人に問いかける。
答えなんて求めていないけれど、自分の中でこれから起こそうとしている行動を肯定したかった。
「綺麗に染まりましたね!」
「ありがと、望月さん。」
会計を済ませながらも談笑を続ける二人を静かに見つめる輝紀。
「あんたも、ありがとね」
「…こちらこそ」
望月にコートを着せてもらっている久子に声をかけられ相槌を打つと、彼女は店長に深々と頭を下げ、店を後にした。
外は白い息が吐ける程の寒さ、クリスマスまで残り僅か。本格的な冬はこれからだと痛感する。
「村橋さん、可愛かったんですね」
突然の望月の発言に拍子抜けした輝紀は首を傾げた。
「何の事だ」
くす、と小さく笑い声を上げる望月は先程久子から聞いた話を嬉しそうに語り出した。
輝紀が保育園に入園して間もない頃、久子は自分の事には目もくれず、育児に仕事に直走っており、あの頃綺麗に手入れしていた黒髪のソバージュは見る影もなく、小さい輝紀を連れ保育園に向かう途中も、同級生の母親たちは身綺麗な格好をしており久子との差は歴然だった。
教室のガラスにうっすら映り込む惨めな姿に幾度となく落胆したと言う。
そんな時、輝紀は通園の間に佇む美容院の中で髪を切られる人々を見た。
夕闇に閉ざされた小さな家の中で洗濯物を畳む母の背中を見た輝紀はおもむろに習いたてのハサミを持ち、ぼさぼさに伸びきった母の髪を…切り落とす。
驚いた久子は咄嗟に息子からハサミを取り上げ、怒声を上げようとしたが、止めた。
笑顔の息子が母にこう言ったから。
「これでおかあさん、きれいになるよ。ぼくおかあさんのかみのけ、きれいにきってあげるからね!」
「だから、美容師になったんですね。もう、すごく可愛いお話だったから!」
覚えていなかった。
物心ついた時からやたらと将来は美容師になったら?と久子に言われた記憶ははっきりとある。
輝紀自身、将来に関して目的は定まっていなかったので、美容師という道を示してくれた母に感謝していた、しかし過去に…久子にそんな事をしてしまったのかと思うとまた新たな罪悪感が生まれてしまう。
しかし、それを望月相手に楽しそうに話していたとなると、それは久子にとって忌むべき思い出ではないのか…。
「お母さん、嬉しそうでした。私にも小さい村橋さんがお母さんの事喜ばせようとして一生懸命だったの、伝わってきましたもん」
「…」
望月の言葉を聞いて、一瞬錯覚を起こす。
この話は自分の幼少時代の話なのに…クコを捨てた自分の…息子が行った行為なのではないかと。
どちらの説も間違いではない、だからこそ戸惑いを隠せずにいる。
―――あんたはどこまで、こんな俺を許してくれるんだ…。
懺悔のつもりなのか、ついぽろりと、眼前でハキハキ喋る望月に、久子が指輪を遠目に見ていた話をするや否や、思い出した!と大きな声を上げながら望月が輝紀に告げた。
「そう、そうです村橋さん!お母さん言ってました、色々あって結婚指輪つけられなかったから欲しいけど、今更ね、って」
俺の心の声が聞こえているのか?と言わんばかりの表情をした輝紀に誰も気づく事はなかったが、望月のこの助言で決意は固まった。
「…じゃあ、買ってやろうか。…息子だけどな」
「お母さんへのクリスマスプレゼントですか!親思いの息子さんを持って幸せですね、お母さん」
「親父がいないから、他に買ってやれる奴なんていないだろうし」
「お母さんに恋人がいたら、買ってくれるんじゃないでしょうか」
「そんな奴いる訳がない!!」
望月の全く悪気のない発言に思わず声を荒らげてしまった輝紀は、慌てて彼女に謝罪する。
これを嫉妬と呼ぶならば、自分は全く息子になりきれていない…これを贈ろうと思う心も息子としてではない事に気付いている。
そんな真意を誰も知る由もなく。
しかしここで問題が発生する。
―――久子の指のサイズなんて、知らないぞ…。
家に帰った所でどうやって聞き出せば良い?
そもそも指輪を注文すると日数がかかるだろうから、然るべき日に渡す事が出来るのか?
頭を悩ましている内に、まさかな…と思いつつ質問してみる。
「なあ望月。あいつの指のサイズなんて…聞いてないよな」
「えっ村橋さん、知らないんですか?」
「えっ」
互いに目を丸くする。
「…知ってるのか…」
翌日、折しも休日であった輝紀は単身ジュエリーショップへ赴くのだが、客も店員も女性ばかりで浮き足が立ってしまう上に、追い打ちをかけるような店員の接客に圧倒されてしまう。
ご婚約なさったのですか、式はいつ頃のご予定ですか…背徳行為を行っているかのような気持ちに晒され何とか早く切り上げたかったが、意外と悩むもので。
勧められる指輪は確かに他の商品と輝きが違う…しかし値札を見て押し返してしまう。
良い物を渡したい気持ちは誰でも同じだ、ただ己の懐と商品が釣り合わないのが現実だ。
そんな時ふと目に入ったプラチナの指輪…飾り気は無いがそれが却って良く思える。
価格も何とか手が出せそうだったので、輝紀は恐る恐ると店員に声をかけた。
指のサイズも望月から既に聞いていたので滞りなく話は進んでいく。
すると、
「指輪に裏側に刻印をお入れする事が出来ますが、いかがいたしますか?」
「刻印?」
「はい、ご自分とお相手のイニシャルや、お二人だけのメッセージを指輪に裏側に」
イニシャル…メッセージ。
その提案にしばらく考え込む輝紀、そもそもそんなものを刻んでも良いのだろうか。
「…」
指輪を贈る理由は何だ。謝罪か、懺悔か、そうではない…輝紀自身の想いだ。
何度立ち止まれば気が済むのだと、心中で自身を一喝すると、顔を上げて店員に返事をする。
「お願いします、刻む文字は…」
「それでは、仕上がりは大体1ヵ月程頂戴致します」
「え、ちょ、それだと、困るん…ですが」
「お客様の選ばれた商品ですと、お時間かかりますね。加えてクリスマスという事もありますので」
まさかの展開に輝紀は焦りを隠せない。
自分の中で決めていた贈る日を変える訳にはいかない、そう同じ気持ちでいる人々がいるからこそ納期はよりかかってしまう。
「じゃあ、2週間程で出来る物はありますか?」
「…えー…、そうしますと…」
難しそうな表情をしながら店員は商品を探す…結果、輝紀の予算をオーバーしたプラチナの指輪が差し出された。
致し方ない、と支払いを済ませると安堵したのか、一気に脱力する。
「それでは、商品が入荷しましたらお電話にてご連絡致します」
慣れない買い物と予想外の展開を無事終えた達成感を噛み締めていた輝紀だったが、ふと我に返ると場違いな自分に羞恥心を抱き、そそくさと店を後にした。
店内の暖房機器と、緊張、脱力の精神状態により温められた体が冬の外気に当たり、非常に心地良く感じられる。
「疲れた…」
でも、不思議と笑みが零れるのに気が付いた時、26年という時間の重みをやっと軽くしてあげられる、と思った。
言葉には出来ない、してはいけないが、渡そうとするその指輪に想いを詰め込んで。
それから2週間、毎日の輝紀はぼんやりというより、来たる連絡を待つ為やたらと落ち着きのない様子だったようで、望月や店長、挙句の果てには久子本人にまで、
「あんた最近どうしたの?やたらとスマホ見ちゃって…」
とまで言われる始末。
もしかしたら、これからプロポーズをする男はこんなに落ち着かない気持ちなのだろうか、などと考えてしまう。
全く、らしくない。
思えば、過去に行ったあの時もクコに振り回されて随分と自分らしくない事をしていたと思う。
今までだって、女性と付き合った経験はある筈なのに何故なのか…と。
ふぅと、細い息をついて来店する予約客を迎え入れる輝紀。
クリスマスイブまであと数日を切っていた。
陽光が大きな窓から差し込み、輝紀の立つ場所を優しく照らす。
彼は白いタキシードを着て一人、誰かを待っている。
ふと周囲を見渡すと、そこは静謐を守りながら輝紀を温かな光で包み込む教会だった。
輝紀の右手には、先日購入した指輪が握られていて、その裏側には彼が頼んだ通りの文字がしっかりと刻まれている。
その時。
教会入口の扉が大きな音を立てて開かれる。
純白のドレスに柔らかなヴェールを身につけた女性が入ってきたのだ。
少し歩きにくそうにゆっくりと歩み寄ってくる姿を、静かに見守り、やがて祭壇まで辿り着いたその人に左手を差し伸べ、自分の前へと導く。
すると彼女はゆっくりと、身につけていたグローブを外したので輝紀は彼女の左手を取り、右手に納められていた指輪をそっと薬指にはめ込んだ。
「ありがとう」
小さく呟いたその人の声は微かに上擦って、体を少し震わせていた。
そんな彼女の顔を覆うヴェールを外そうと輝紀が手をかけようとすると、彼女はそのままの声で呼びかけてきた。
「…てる…」
「…キ、キキ」
やけにクリアな声質が輝紀の耳元で聞こえてくる。
ヴェールを掴み損ね、持て余された手がその声の主の前で止まった。
「もうこんな時間だけど…遅刻じゃないの?」
ぼんやりした思考が明らかになった頃、輝紀は夢を見ていた事に気付き、遅刻という単語に顔面蒼白させ寝床から飛び出した。
平然とした顔で輝紀を起こしに来たのは母、久子。
「あたしは休みだから」
と言い残すとそそくさと彼の部屋を出ていく。
朝食も取らず、髪の毛も乱れたまま一目散に職場へと走り出す輝紀と、その背中を見つめる久子。
外は今朝も冷たい空気に覆われていた。
今日は日曜日、12月24日の…日曜日。
昨夜、輝紀は待っていた。
未だ入らぬ指輪入荷の連絡を。
もう店が閉店しているとわかっているのに、夜が更けてからもずっと。
もし、今日指輪を渡せなかったら、また自分は後悔する。
時間に縛られ時間から逃げたあの時のように、自分だけまるで関係のない出来事のように生き続けてきたこの26年間を。
だから今度こそは…自分の決めたこの時に、長い時を一人背負い続けてきたあの人に、想いを証明出来るものを、差し出すのだ。
「村橋さん、おはようございます!遅かったですね」
何とか営業時間前までに職場に到着出来た輝紀は、元気良く挨拶をする望月に相槌を打つと肩で息をしたまま急いで髪型を整えた。
「今日はクリスマスイブですからね、忙しいですよ!」
「あぁ、わかってる」
「そういえば、お母さんへのプレゼント渡せました?」
「…」
良い返事が返ってこないので、事が成し得ていないのだと理解した望月はそれ以上の質問を控え、開店作業を始める。
気を遣われた事に気付いた輝紀だったが、余裕の無い心境を悟られたくないのでそのまま黙って自分の作業を進めていった。
一方、自宅で休日を満喫する久子は、外出でもしようと思い準備までしたのだが、
「うーん」
と、唸ると踵を返し自分専用とも言えるソファに座り込んだ。
テレビをつけても、その先はクリスマスの話で持ち切りだったので、そそくさと消す。
「はあ…」
輝紀が小さい頃は、背の低いツリーを用意したり、カットされたケーキにサンタの砂糖菓子を乗せたり、ちょっとしたプレゼントをしたりして、そのイベントを楽しんでいたが、大人になればそれも素直に楽しめない。
ましてや、独り身の自分にとっては。
息子を産んだ事は、久子にとっての幸せだ、それは今も…これからも変わらない。
ひとつだけ思うのは、彼の名前だ。
「違う名前に、すれば良かったかな」
自分の息子に、たった一度会った相手の名前を付けた事を最近になって考えるようになったのは、息子が26年前のその相手にあまりにも似てしまい、久子自身が困惑してしまっているからである。
つい先日放送したテレビ番組で紹介された、過去へ誘うからくり時計、父の正体を知りたがる息子、そしてその息子が表情を曇らせて帰ってきたあの日、何を思ったか父の話をしてしまった自分。
好きになるつもりなんてなかったのに、付き合っていた男にフラれた腹いせに目の前にいた見知らぬ彼に、話を聞いてもらいたかっただけなのに。
知らない人なのに…自分を探していると言われたその時、久子の心は揺れ動いていた。
昔から自分の過ちを隠そうとすると、偽名を使って知らんぷりしてきた久子はこの時も、名前を偽ってその人と行動を共にする。
一生懸命作った夕飯を好きな味だと言って食べてくれた所も、相手を気遣う思考回路が似ている所も、今までの男とは違っていた。
だから、だから…この人とならずっと一緒にいたいと思ったのに、たった3時間だけだった。
いつまでも待っていたのに、その人が姿を見せる事はなくて。
宿った命を捨てる事だって出来たのに、出来なかった。
当然だ、誰が相手でも自分の子なのである。
父に、母に…兄に捨てられてまで守った命が唯一の、彼が存在し久子と出会ったという記憶を結ぶ大切なものだから…二度と会う事が出来ない彼の名前を…つけた。
その名を呼ぶ事がどういう事かわかっていたのに、ただ虚しく思い出すだけなのに、それでも記しておきたくて…結果生まれた子供は愛称で呼ばざるを得ない状況に陥ってしまうのだから、おかしな話である。
「馬鹿だね、あたし」
しかし時が経った今、不可解な発見をしてしまう。
当時、いなくなった彼が落とした名刺は、26年後…即ち現在の久子が勤める会社、及び肩書きのついたものなのだ。
今も脳裏に焼き付いているあの姿と、同じ服装で、同じ顔で、同じ声で、同じ名前で佇む自分の息子とその名刺の存在と…。
あれは、一体誰だったのか。
彼女は誰と触れ合ったのか。
誰がその答えを知っているというのか。
知り得る限りを初めて誰かに話した1ヵ月前を期に、自分の中で何かが吹っ切れて、あの時の記憶が懐かしいものに変わった気がしたから思い切って見た目を変えようとした。
お気に入りだった当時の髪型…そのままとはいかないけれど、少し伸ばしてパーマをかけて…。
そのオーダーを怪訝そうに聞くスタイリストの顔が浮かぶ、まるで拒否されるような。
全てを語ったあの夜に…ごめん、と謝られた意味が理解出来なくて、謝罪すべきは自分なのに、何故帰ってきた息子は驚きもせず話を聞いてくれたのか。
空っぽの指を見つめながら、わからないよ、と小さく呟き、華やかなイベントである今日という日を意味なく過ごそうとしていた。
「本当ですか!わかりました、今日中に伺います」
昼を回り、多忙で人手が足りない中やっと入れた休憩中に、タイミング良くかかってきたのは待望の指輪が入荷したという電話連絡だった。
まだ休憩中だから、急いで店に行けば間に会うと思い立ち上がった輝紀だったが、店長が彼の元へ慌ててやってくると、
「村橋、悪い。予約なしのお客様が来店されたから出てくれないか」
口早にそう言い、返事を待たず店内へ消えていった。
勤務中故に起こる仕方のない呼び出しに応じ輝紀は店長の後を追うと、既に席でスタイリストを待つ客の姿を見つけ足早に向かう。
そんな事を繰り返していたら、日はとっぷりと暮れ、外は街灯と電飾の光で彩られていた。
―――嘘だろ…
あと一人で今日の客は終わるが、今望月がシャンプーをしている最中で終わるのは営業時間を過ぎそうな予感しかしない。
しっかりと手を動かしているものの、輝紀の動向が気になっている望月はちらちらと彼の様子を窺う。
自分の勤める店の閉店時間と、ジュエリーショップの閉店時間は同じなので間に合わないのは目に見えている。
今日中に渡すのは諦めるしかないと、溜め息をついた時、肩をぽんと叩かれた。
「あのお客様に指名はなかった。…今日はこれで上がれ」
「店長、それは…」
「それがお前なりの親孝行なんだろ」
遠くで望月も心配そうに見つめている。
ややあって輝紀は店長に頭を深く下げ、急いで外へ駆け出した。
二人が小さく笑い、無言で見送る。
閉店作業を始めていたジュエリーショップに滑り込んだ輝紀が手にした小さな箱に納められていたのは、待ち望んだ小さなリング。
安堵で顔を綻ばせる輝紀をよそに、作業を進めたいという雰囲気を醸し出す店員の様子に気付くや否やショップを後にする。
その瞬間、消灯されたショップ。
ギリギリセーフで間に合ったのだと改めて思うと、当たり前の呼吸を意識し始め、予想以上に荒い息をしていた事に気付き、自身に苦笑しながらゆっくりと自宅方向に足を向けた。
まだ、自分が担当する筈だった客はカットしてもらっているのだろうか、それを請け負ってくれた店長と望月は閉店時間を過ぎているのに仕事をしているだろう、あの人たちこそ家族や大切な人がいるのに自分だけ…。
勢いだけでここまで来たが、果たしてこれは正しい事なのだろうか。
久子は母親だ、これを渡した所で笑い転げて終わりかもしれない、無駄なのかもしれない。
でも…。
暗がりに瞬くイルミネーションの煌めきの中で睦まじく歩く人々を見ると、その幸せそうな表情に、あの時の自分を照らし合わせる。
クコと並んで歩いた商店街で、すれ違う人たちから見えた二人の姿はどんなものだったのか…いや、誰の目にも映らなかったかもしれない。
皆が皆、自分たちの幸せを生き、未来ある歩みを進めている。
振り返っているのは…自分だけ?握り締めているこの箱は何だ?
あの時、確かに抱いていた本当の想いを形にして、未来の道を作る事が自分を…彼女を解放出来るのだと信じたくて。
ただの自己満足だとわかっているが、もう、後戻りはしない。
家に帰ると、照明は点いているものの静かだった。
案の定ソファで眠る久子は寝息を立てている。
「おい、ソファで寝るなって」
返事がないので熟睡しているのだろうと思いながら、後ろを振り返るとキッチンに小さなケーキがサンタクロースを乗せ、食べてくれる人を待っていた。
クリスマスを実感させる物を、家で見るのは久しぶりで、久子もまたその雰囲気を感じようとしたのだろうか。
何も知らない子供の頃に、二人なりに楽しんだ事を不意に思い出した。
大変だっただろうに、輝紀が眠っている枕元にプレゼントを置いて用意してくれた母、久子。
この人は母だ。
そして輝紀が最も愛する人だ。
変わる事のない気持ちを胸に、輝紀は意を決した。
おもむろに先程受け取った指輪を取り出すと、眠る久子の前に跪き、左手を取る。
まるで夢の中にいるように、右手で握り締めていた指輪を彼女の薬指に納め、心の中で小さく呟く。
―――メリークリスマス
気が付かないならそれで良い。
言葉に出来ないけれど、確かに届けられた。
君を知った、初めてのクリスマスに。
ふと目を覚ました久子は慌てて時計を見ると、丑三つ時とも言える時間だった。
今日は仕事なのに、またソファで寝てしまった…と渋い表情で立ち上がろうとしたら、何かが物音を立てずに久子の足元に落ちる。
掛けた覚えのない小さな毛布。
それを持ち上げてソファに乗せると、キッチンに置いてあったケーキを乗せた皿が綺麗に洗われていたのに気付き、それらの痕跡から輝紀が帰ってきている事を認識した。
「起こしてくれたって良いのに」
少しむくれ顔をするが、結局は自分が悪いのだと苦笑いをする。
ちゃんと用意したケーキを食べてくれた事は嬉しかったので、チャラにしてあげようと頷きながらその皿を棚に戻そうとした時、違和感を覚えた。
「何、これ…」
左薬指に光る銀色の指輪。
表情を曇らせた久子は目を疑う、そして恐る恐ると指輪を外す。
じっとそれを見つめるが、全く記憶にない品にただ疑問を抱くだけで、立ち尽くしてしまう。
これは夢?少しばかり自分の手の甲をつねってみるが…痛みを感じる、夢ではない。
はっ、と思いついた彼女はおもむろに指輪の内側を覗き込む。
刻まれた文字は、
―――T to H ...k
硬直した久子と煌めく指輪と、その文字の意味と。
理解するのに時間はかからなかった、いや…かかる訳がなかった。
このメッセージは、誰にも書けない…あの時を共有した、あの人だけしか。
今は何年?これは、サンタクロースからの時を越えたプレゼントなの?
震えた指に共鳴するかのように視界が滲んでいき、抱き締めるように指輪を手の平に納め、それに語りかける久子。
「ありがとう…、輝紀」
その声は微かに上擦っていた。
25日のクリスマス。
とは言え、イベントらしきものは昨日終えたようなもので、いつも通り、けたたましく鳴り響くアラーム音に頭を激しく叩かれ瞳を開く輝紀。
遠くでドアの鍵を閉める音が聞こえる…聞き慣れた、久子が出かけていく音。
今日の月曜日は二人とも仕事だ、出社時間が若干異なるのでこのようなすれ違いは当たり前の光景である。
体を起こしてアラームを止めると、すぐ脇に昨日久子に渡した指輪のケースが転がっていて、ゆっくりとそれに手を伸ばす。
輝紀はケースを開いて、納められたもうひとつの指輪を取り出した。
そう、これはペアリング。
刻印こそしなかったものの、久子の指輪と対になっているものを、輝紀も左薬指にはめ込む。
似合わないな、と目を細めながらそれを見つめると、そのまま立ち上がり支度を始めた。
澄んだ冷気に包まれた空の下を歩く輝紀の気持ちは、昨日のものとは打って変わっている。
この透った空気のように閊えた何かが解かれたような…そんな気持ちだ。
白の混ざる青の中に輝く太陽の光に煌めく指を見て、この場にいない相手に心で語りかける。
―――
これはあんたの前ではつけないよ。その資格はないから。
でも、やっと渡せた。
例え心の中でも言葉に出来ないこの想いが、
あんたにとっては別の人からのものだと思われても良い。
それがあんたの幸せになるのなら。
代わりに、俺にもあの時…あんたが受け入れてくれた証明を貰うよ。
あんたと一緒にいない時だけ、俺はあんたの…―――
瞳を閉じて言葉を遮る。
言う必要はない。今も、これからも。
いつもと同じ日常が始まる。
変わらない気持ちを抱きながら、新たな時を歩んでいく。
end
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