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第三章 鱗粉印鑑
3−4 姫の役割と代替物
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「どうかどうか、私の従妹を、信じてあげてくださいな」
両の手を顔前で組み、豊潤な茶髪をふわりと揺らす姿は天真爛漫そのもの。やわらかな笑みに切実さをふた匙ほど加えた表情が手の届く美しさを感じさせるその妖精は、誰からも愛される女主人公といった匂いがした。
鱗粉を多く持っているのか、きらきらと光る羽の金色は周囲にもおよぶ。
契約の中で崩れかけた従妹を救いたいと願う妖精に、男たちは庇護の目を、女たちは憧れの目を向けていた。
「なにか理由があるはずよ。あの子は、こんなふうに無責任なことをするような妖精じゃないもの……ねぇ、わけを知ってからでも、遅くはないでしょう?」
黙って成りゆきを見守る静謐の魔女からすれば、大げさな理想論としか思えないが、たしかに、感情を振りまく加減は巧いのだろう。
このままでは契約更新をする前に楔が壊れてしまう恐れもあるというのに、彼女は懇願ひとつで国交の使者たちの心を動かしてみせるのだから。
「あの契約妖精の姫が壊れゆくのをただ傍観するというのも心苦しいか」
「我々も姫の救出に同行しましょう。これでも、国ではそれなりの魔術師として立場を得ているわけですからな」
「うむ……どうだろうか、妖精姫?」
「なんてお優しいのかしら! 必ずや従妹を連れ戻して、彼女の育む契約を立て直して見せますわ」
あるいは、どこかで契約妖精を手に入れられたらと考えている使者たちの算段を、人ならざる者らしい傲慢さで無意識のうちに察知しているのかもしれない。
政治にしても商売にしても、大きな組織を動かす際には重宝される妖精だ。それも楔の契約を結ぶことのできる王族の血筋ともなれば、取引の可能性は格段に広く強くなる。使者たちが国での肩書や妖精に対する気遣いを強調するのは、そういった考えの表れに違いない。
では戦火の聖人はどうだろう。そう隣のようすを窺えば、ルフカレドも妖精を気遣うような、優しい笑みを浮かべている。
けれどもそれは仕事用の表情なのだと気づけば、安堵の気持ちが湧いてくるものだ。
本日のリヴェレークたちはかなりの厚着をしていた。
防寒としての厚さではない。人間に紛れるための、人ではないことを隠す皮を被っているという意味での厚さだ。慣れている聖人とは違い、初めて人間に扮することになった魔女は妙に落ち着かない。
(要素が足りなくて、つい、静かな物陰に入りたくなってしまう)
臙脂色のドレスワンピースは脛丈で動きやすく、前開きの金ボタンにはあえて使い込まれたような加工がしてあった。髪はきっちりと結われ、いつもの髪飾りを隠すように円筒形の縁なし帽を被せている。
上質だが華美でない意匠のおかげで、普段と変わりない所作でも浮かずに済むことが救いか。
「貴国は、妖精姫を助けだすことで納得してもらえるかね?」
と、ここでようやく、契約妖精からの心証をよくしようと一生懸命な使者がこちらに話を振る。
すでに決定事項のような調子で向けられた問いかけに応じるのは、リヴェレークと同じ臙脂色のフロックコートに身を包んだルフカレド。
「好きにするといい。我が国としては現状維持が最優先で、その手段は問わないからな」
「おやそうでしたか。てっきり、迅速な更新に協力しなければ、反故にされたと怒られるものだと……」
「はは、俺たちは上から求められた結果を持ち帰るだけさ」
ふたりは今、国の使者としてこの会談に臨んでいた。
世界の歩みには、ときに細かな手入れが必要となる。それは人ではない者が動かすだけでは馴染むことなく崩壊してしまうもので、弱き者の手でなければ届かない部分であった。
人間同士で事を成したという証跡を残すこともまた重要なのだ。
きっかけだけを与えたあとは人間の判断にすべてを任せ、その予想外の顛末を愉しむ者もいれば、ただ見守るだけでは思い通りにならないとルフカレドのように人間に紛れて道を作る者もいる。
さて、此度の国交相手はその国のなかでも戦の推進派であるという。人間らしい短絡さで事を進めようとし、今も言葉の端々にこちらを煽るものが見え隠れしている。
ここへ来る前、戦火の聖人は静かに告げたものだ。
「では、いちど契約書を開くぞ」
――望まぬ戦を引き起こす者は、誰であろうと、その場で壊してしまうのがよい、と。
*
必然であるかのように、書の迷い路は使者たちを迎え入れた。
暗闇に浮かぶ無数の光。魔法文字の煌めき。絶えず生みだされては、金属の腐食に似た崩壊を辿る。
重なりめぐる魔法の中央にそびえ立つは、眩い黄金色をした光の柱。
そこに穏やかな弛緩を携えた妖精姫がもたれかかっていた――腕を、脚を、そして羽を穿たれた姿で。
孔から流れ続けるのは生物の赤。この契約が現実のものであることを強調するかのように残酷を示し、しかし彼女の浅い呼吸と同調した光の喘ぎが美しい。
それは楔となった妖精の意思か、あるいは絶望か。
契約に囚われ、打ち砕かれた妖精姫。
物語を持たない契約書が土台であるということは、彼女の心こそがこの風景を作りだしているのだろう。
かすかにこちらへ向けられたルフカレドの視線を、リヴェレークは静かに受け取る。
「まさか、こんな惨いことが……」
隣では純真なる契約妖精が従妹の惨状にさっと目を伏せた。その先で斃れている使者の姿を捉え、瞳はさらに苦しげな色を深める。
(……人間というのは、こうも弱いものか)
迷い路に落とされた人間が命を維持することは難しいという事実はリヴェレークも知っていたが、込められた魔法の濃さには、死者のかたちすら保てないらしい。
「ああ、ごめんなさい。気が動転してしまって……」
しかし弱い者を助けるべきという思いは、この妖精にとっては正義ですらなく、当然のことなのだろう。
契約妖精の守護が、人間に扮するリヴェレークたちにかけられた。
「あなたたちだけでも無事でよかったわ。この魔法の濃さ。耐えるので精いっぱいでしょうけれど、できるだけ私が守るから、あの子を連れて、慎重に抜け出しましょう」
契約が揺らいでいる。
人間だったものはほどなくして崩れゆき、塵と化した。
蝶の標本を彷彿させる妖精姫の肢体は、親族から要素を補給され、少しずつ、確実に回復していく。
やがて薄い瞼を持ち上げ、淡い金色の瞳に光を宿した妖精姫は、こちらを認識するなりひどく恐れるように瞳を揺らした。
「ああ、よかった!」
「っ、従姉さま……?」
「大丈夫よ、すぐに助けてあげるわ!」
がばりと従妹に抱きついた妖精は、それでも聡明な王族らしく、止血や要素の再補給など、疲弊した楔の妖精姫にとって必要な処置をすぐに行う。
その愛情と細やかな気遣いに困惑を深めるのは当の本人だ。
「従姉さま……けれど、わたくしは契約妖精の王族としてなすべきことも全うできませんでした。わたくしなんかよりもっとお役目にふさわしいひとがいると、皆が思っていることでしょう。もういっそこのまま――」
「その先は、聞かないわ」
おそらくは自身の腐朽を望むものであろう言葉が、ほっそりした指によって堰き止められる。
「いいこと? あなたにしかできないことは必ずあるわ。私は、あなたにはあなたらしく生きてほしい」
「わたくし、らしく……わかりませんわ」
「それならこれから探してゆきましょうよ。私も協力するわ」
真摯な言葉だ。けれども、妖精姫の幸せがそこにあるのか、わからない。
(通り一遍の善意がなにもかもを救うわけではないのだ)
もちろんそれは、彼女が自分自身の未来を信じきれていないからかもしれない。あるいは、ひりつくような孤独を味わってきた静謐の魔女の、偏見であるかもしれない。
幸せへ向かっていく道にある、見知らぬ善意を拾うこともまた幸せのひとつなのだということは、知っているのだ。
だからこそリヴェレークは、この妖精の選ぶ道を見届けたいと感じ始めていた。
しかし。
「……そろそろ頃合いか」
「ルド?」
「彼女からは好ましくない薫りがするからな」
「もうっ! 私は気にしないけれど、女性にそのような言葉をかけるのは褒められないわ」
この妖精は気づいていないのだろうか。
戦火の聖人の、苛立ちに。
風のない空間のなかで、ばさりと濃紺のケープマントがはためいた。そこから戦火の気配が広がっていく。人間の使者としての皮はじわりと剥がれ、聖人としての顔が覗く。
にわかに密度を増した客の存在に、書の迷い路は軽く軋んだ。
「ちょうど崩れたがっている妖精もいることだ。このままここで壊してしまおう。ふたつほど手順を踏めば、契約の更新も可能だしな」
なんの前触れもなく、戦火の聖人は剣を振るった。
光すら焼き尽くす火が、ごうと生まれ、先ほどまで妖精姫がもたれかかっていた黄金色の柱を舐めていく。
「せっ、聖人、だったのね――……その火を収めてくださいな。弱き存在を弄ぶなんて、いけないことだわ」
「弄んでなんかいないさ。俺は最初から、望む戦火を見るために動いている」
契約妖精は頑丈だ。
それでも、この苛烈な聖人を前にしては、なすすべなく崩壊を迎えるしかないのだろう。意図的であろうと、そうではなかろうと、彼の望む戦火を妨害する限りは。
しかしそうすれば、絶望から幸福へと向かうひとつの道すじを知る機会を、リヴェレークは逃すことになる。
「……ルド」
「ん、どうした?」
「楔の姫は、残してくれませんか? 彼女の幸福が、どのように終着するのか、見てみたいのです」
「君がそう言うのであれば」
自然な動作で顔を寄せてきたルフカレドが額に落とす口づけ。
戦火の要素は契約妖精の守護を溶かし、やわくリヴェレークを包んだ。
(なぜ、今なのだ)
困惑を隠しながらそわりと髪を払う。影のような青色が、ぞっとするような深みを帯びる。
また、書の迷い路が軋む。
「そんなふうに、簡単に決めてしまってよいのですか?」
「妻の幸せを叶えるのが夫の役割だからな」
使者としての装いは変えない。迷い路ではあるが、他者を傷つけるつもりはない妖精姫の意思の中。契約を歩む者として、これ以上ふさわしい服装はないはずだ。
ただどこまでも深い静謐は異質で、しかしこの場の誰よりも書の迷い路という空間に馴染んでいる。
「……静謐と、戦火。彼女の言った通り――」
驚愕に目を見開いた妖精がなにかを言い終えるよりも早く、戦火の刃が彼女の胸を貫いた。
崩れた妖精からなにかが抜ける気配がする。
――こんにちはぁ! また会いましたね!
遠く。リヴェレークは、不思議な灰色をした、少女の声を聞いた気がした。
「従姉さまは……わたくしの代わりではなかったのですか?」
震える声でおずおずと訊ねてきた楔の妖精姫は、しかし契約妖精らしい生真面目さで自分の置かれている立場を認識するため、気丈に振る舞っているようだ。
「はは、そのつもりだったんだがな」
そんな彼女の努力に気づいていないはずはないだろうに、肩をすくめて「やかましいのは嫌いなんだ」と切り捨ててみせた聖人の大雑把さを、魔女はおかしく思う。
(たとえば、正直に、非の打ちどころがない正義の脆さを語ったところで、純粋な妖精には伝わらないのだろう)
それよりもただ「合わないから」という一点を伝えることで結果を求める手際のよさは、彼がこれまで歩んできた道の複雑さを物語っていた。
「そう……では、わたくしはまた、この契約を育んでいかねばならないのですね」
認められることが幸せに繋がるとは限らない。
リヴェレークもその手の欲求が薄いのでよくわかる感情だ。ここは伴侶に倣い、彼女も簡単な言葉で片づけることにする。
「あなたは逃げたかったのですか」
「逃げたい……そう、そうかもしれません。許されないことですから、その言葉を思い浮かべたこともありませんでしたわ――っ、え、魔女さんっ!?」
そこでいきなり羽に触れられた妖精は驚きに飛び跳ね、貞操を守るかのように羽と両腕で己の身体を抱いた。
(やはり契約妖精は鱗粉が多い)
「まったく、君は……」
伴侶の奇行にため息をついている聖人のことは無視し、魔女は手の中で金色の鱗粉に魔法を込めながら練っていく。
「羽か骨、もしくは契約の要素そのものを切り出すことはできますか?」
「え、と……? その、普段から、契約の要素は扱いますけれど……」
「では後ほど、それで自分の印を作ってください。鱗粉を使ってインクを作る方法も教えます」
「印鑑を作るつもりか?」
「はい。心のありようで綻ぶような楔より、よほど強固な契約を結べるでしょう」
「……まあ。それならばわたくしも、すぐに役立つことができそうですわ」
流れるように契約妖精の代替物を作る目処を立ててしまったリヴェレークは、そこで、勤勉な妖精の言葉にすんと影めいた瞳を逸らした。
「……百年くらい無駄にしてもよいのでは」
「は?」
「え……」
契約妖精、とりわけその王族は、長命だ。生き急ぐ必要もなし、なぜわざわざ心を削るようなことをするのだろう。
「少しくらい自堕落な生き物がいたところで、世界はびくともしません。好きなことだけをしていればよいのです。わたしはいつも、書の迷い路に入り浸っています」
ここはあえて胸を張った穏やかな魔女に気づいたのか、妖精姫はふふ、と高貴な笑みを浮かべた。
「暴論だわ。力がなければ自由に動くことすらままならないでしょうに」
「けれど、わたしたちは持っているでしょう?」
いつもの、思わず溢れたようなものではない。
か弱くも強かな妖精へ返すために作られた笑顔。それはどこかぎこちなく、けれども恐ろしいほど深い優しさに満ちているのであった。
両の手を顔前で組み、豊潤な茶髪をふわりと揺らす姿は天真爛漫そのもの。やわらかな笑みに切実さをふた匙ほど加えた表情が手の届く美しさを感じさせるその妖精は、誰からも愛される女主人公といった匂いがした。
鱗粉を多く持っているのか、きらきらと光る羽の金色は周囲にもおよぶ。
契約の中で崩れかけた従妹を救いたいと願う妖精に、男たちは庇護の目を、女たちは憧れの目を向けていた。
「なにか理由があるはずよ。あの子は、こんなふうに無責任なことをするような妖精じゃないもの……ねぇ、わけを知ってからでも、遅くはないでしょう?」
黙って成りゆきを見守る静謐の魔女からすれば、大げさな理想論としか思えないが、たしかに、感情を振りまく加減は巧いのだろう。
このままでは契約更新をする前に楔が壊れてしまう恐れもあるというのに、彼女は懇願ひとつで国交の使者たちの心を動かしてみせるのだから。
「あの契約妖精の姫が壊れゆくのをただ傍観するというのも心苦しいか」
「我々も姫の救出に同行しましょう。これでも、国ではそれなりの魔術師として立場を得ているわけですからな」
「うむ……どうだろうか、妖精姫?」
「なんてお優しいのかしら! 必ずや従妹を連れ戻して、彼女の育む契約を立て直して見せますわ」
あるいは、どこかで契約妖精を手に入れられたらと考えている使者たちの算段を、人ならざる者らしい傲慢さで無意識のうちに察知しているのかもしれない。
政治にしても商売にしても、大きな組織を動かす際には重宝される妖精だ。それも楔の契約を結ぶことのできる王族の血筋ともなれば、取引の可能性は格段に広く強くなる。使者たちが国での肩書や妖精に対する気遣いを強調するのは、そういった考えの表れに違いない。
では戦火の聖人はどうだろう。そう隣のようすを窺えば、ルフカレドも妖精を気遣うような、優しい笑みを浮かべている。
けれどもそれは仕事用の表情なのだと気づけば、安堵の気持ちが湧いてくるものだ。
本日のリヴェレークたちはかなりの厚着をしていた。
防寒としての厚さではない。人間に紛れるための、人ではないことを隠す皮を被っているという意味での厚さだ。慣れている聖人とは違い、初めて人間に扮することになった魔女は妙に落ち着かない。
(要素が足りなくて、つい、静かな物陰に入りたくなってしまう)
臙脂色のドレスワンピースは脛丈で動きやすく、前開きの金ボタンにはあえて使い込まれたような加工がしてあった。髪はきっちりと結われ、いつもの髪飾りを隠すように円筒形の縁なし帽を被せている。
上質だが華美でない意匠のおかげで、普段と変わりない所作でも浮かずに済むことが救いか。
「貴国は、妖精姫を助けだすことで納得してもらえるかね?」
と、ここでようやく、契約妖精からの心証をよくしようと一生懸命な使者がこちらに話を振る。
すでに決定事項のような調子で向けられた問いかけに応じるのは、リヴェレークと同じ臙脂色のフロックコートに身を包んだルフカレド。
「好きにするといい。我が国としては現状維持が最優先で、その手段は問わないからな」
「おやそうでしたか。てっきり、迅速な更新に協力しなければ、反故にされたと怒られるものだと……」
「はは、俺たちは上から求められた結果を持ち帰るだけさ」
ふたりは今、国の使者としてこの会談に臨んでいた。
世界の歩みには、ときに細かな手入れが必要となる。それは人ではない者が動かすだけでは馴染むことなく崩壊してしまうもので、弱き者の手でなければ届かない部分であった。
人間同士で事を成したという証跡を残すこともまた重要なのだ。
きっかけだけを与えたあとは人間の判断にすべてを任せ、その予想外の顛末を愉しむ者もいれば、ただ見守るだけでは思い通りにならないとルフカレドのように人間に紛れて道を作る者もいる。
さて、此度の国交相手はその国のなかでも戦の推進派であるという。人間らしい短絡さで事を進めようとし、今も言葉の端々にこちらを煽るものが見え隠れしている。
ここへ来る前、戦火の聖人は静かに告げたものだ。
「では、いちど契約書を開くぞ」
――望まぬ戦を引き起こす者は、誰であろうと、その場で壊してしまうのがよい、と。
*
必然であるかのように、書の迷い路は使者たちを迎え入れた。
暗闇に浮かぶ無数の光。魔法文字の煌めき。絶えず生みだされては、金属の腐食に似た崩壊を辿る。
重なりめぐる魔法の中央にそびえ立つは、眩い黄金色をした光の柱。
そこに穏やかな弛緩を携えた妖精姫がもたれかかっていた――腕を、脚を、そして羽を穿たれた姿で。
孔から流れ続けるのは生物の赤。この契約が現実のものであることを強調するかのように残酷を示し、しかし彼女の浅い呼吸と同調した光の喘ぎが美しい。
それは楔となった妖精の意思か、あるいは絶望か。
契約に囚われ、打ち砕かれた妖精姫。
物語を持たない契約書が土台であるということは、彼女の心こそがこの風景を作りだしているのだろう。
かすかにこちらへ向けられたルフカレドの視線を、リヴェレークは静かに受け取る。
「まさか、こんな惨いことが……」
隣では純真なる契約妖精が従妹の惨状にさっと目を伏せた。その先で斃れている使者の姿を捉え、瞳はさらに苦しげな色を深める。
(……人間というのは、こうも弱いものか)
迷い路に落とされた人間が命を維持することは難しいという事実はリヴェレークも知っていたが、込められた魔法の濃さには、死者のかたちすら保てないらしい。
「ああ、ごめんなさい。気が動転してしまって……」
しかし弱い者を助けるべきという思いは、この妖精にとっては正義ですらなく、当然のことなのだろう。
契約妖精の守護が、人間に扮するリヴェレークたちにかけられた。
「あなたたちだけでも無事でよかったわ。この魔法の濃さ。耐えるので精いっぱいでしょうけれど、できるだけ私が守るから、あの子を連れて、慎重に抜け出しましょう」
契約が揺らいでいる。
人間だったものはほどなくして崩れゆき、塵と化した。
蝶の標本を彷彿させる妖精姫の肢体は、親族から要素を補給され、少しずつ、確実に回復していく。
やがて薄い瞼を持ち上げ、淡い金色の瞳に光を宿した妖精姫は、こちらを認識するなりひどく恐れるように瞳を揺らした。
「ああ、よかった!」
「っ、従姉さま……?」
「大丈夫よ、すぐに助けてあげるわ!」
がばりと従妹に抱きついた妖精は、それでも聡明な王族らしく、止血や要素の再補給など、疲弊した楔の妖精姫にとって必要な処置をすぐに行う。
その愛情と細やかな気遣いに困惑を深めるのは当の本人だ。
「従姉さま……けれど、わたくしは契約妖精の王族としてなすべきことも全うできませんでした。わたくしなんかよりもっとお役目にふさわしいひとがいると、皆が思っていることでしょう。もういっそこのまま――」
「その先は、聞かないわ」
おそらくは自身の腐朽を望むものであろう言葉が、ほっそりした指によって堰き止められる。
「いいこと? あなたにしかできないことは必ずあるわ。私は、あなたにはあなたらしく生きてほしい」
「わたくし、らしく……わかりませんわ」
「それならこれから探してゆきましょうよ。私も協力するわ」
真摯な言葉だ。けれども、妖精姫の幸せがそこにあるのか、わからない。
(通り一遍の善意がなにもかもを救うわけではないのだ)
もちろんそれは、彼女が自分自身の未来を信じきれていないからかもしれない。あるいは、ひりつくような孤独を味わってきた静謐の魔女の、偏見であるかもしれない。
幸せへ向かっていく道にある、見知らぬ善意を拾うこともまた幸せのひとつなのだということは、知っているのだ。
だからこそリヴェレークは、この妖精の選ぶ道を見届けたいと感じ始めていた。
しかし。
「……そろそろ頃合いか」
「ルド?」
「彼女からは好ましくない薫りがするからな」
「もうっ! 私は気にしないけれど、女性にそのような言葉をかけるのは褒められないわ」
この妖精は気づいていないのだろうか。
戦火の聖人の、苛立ちに。
風のない空間のなかで、ばさりと濃紺のケープマントがはためいた。そこから戦火の気配が広がっていく。人間の使者としての皮はじわりと剥がれ、聖人としての顔が覗く。
にわかに密度を増した客の存在に、書の迷い路は軽く軋んだ。
「ちょうど崩れたがっている妖精もいることだ。このままここで壊してしまおう。ふたつほど手順を踏めば、契約の更新も可能だしな」
なんの前触れもなく、戦火の聖人は剣を振るった。
光すら焼き尽くす火が、ごうと生まれ、先ほどまで妖精姫がもたれかかっていた黄金色の柱を舐めていく。
「せっ、聖人、だったのね――……その火を収めてくださいな。弱き存在を弄ぶなんて、いけないことだわ」
「弄んでなんかいないさ。俺は最初から、望む戦火を見るために動いている」
契約妖精は頑丈だ。
それでも、この苛烈な聖人を前にしては、なすすべなく崩壊を迎えるしかないのだろう。意図的であろうと、そうではなかろうと、彼の望む戦火を妨害する限りは。
しかしそうすれば、絶望から幸福へと向かうひとつの道すじを知る機会を、リヴェレークは逃すことになる。
「……ルド」
「ん、どうした?」
「楔の姫は、残してくれませんか? 彼女の幸福が、どのように終着するのか、見てみたいのです」
「君がそう言うのであれば」
自然な動作で顔を寄せてきたルフカレドが額に落とす口づけ。
戦火の要素は契約妖精の守護を溶かし、やわくリヴェレークを包んだ。
(なぜ、今なのだ)
困惑を隠しながらそわりと髪を払う。影のような青色が、ぞっとするような深みを帯びる。
また、書の迷い路が軋む。
「そんなふうに、簡単に決めてしまってよいのですか?」
「妻の幸せを叶えるのが夫の役割だからな」
使者としての装いは変えない。迷い路ではあるが、他者を傷つけるつもりはない妖精姫の意思の中。契約を歩む者として、これ以上ふさわしい服装はないはずだ。
ただどこまでも深い静謐は異質で、しかしこの場の誰よりも書の迷い路という空間に馴染んでいる。
「……静謐と、戦火。彼女の言った通り――」
驚愕に目を見開いた妖精がなにかを言い終えるよりも早く、戦火の刃が彼女の胸を貫いた。
崩れた妖精からなにかが抜ける気配がする。
――こんにちはぁ! また会いましたね!
遠く。リヴェレークは、不思議な灰色をした、少女の声を聞いた気がした。
「従姉さまは……わたくしの代わりではなかったのですか?」
震える声でおずおずと訊ねてきた楔の妖精姫は、しかし契約妖精らしい生真面目さで自分の置かれている立場を認識するため、気丈に振る舞っているようだ。
「はは、そのつもりだったんだがな」
そんな彼女の努力に気づいていないはずはないだろうに、肩をすくめて「やかましいのは嫌いなんだ」と切り捨ててみせた聖人の大雑把さを、魔女はおかしく思う。
(たとえば、正直に、非の打ちどころがない正義の脆さを語ったところで、純粋な妖精には伝わらないのだろう)
それよりもただ「合わないから」という一点を伝えることで結果を求める手際のよさは、彼がこれまで歩んできた道の複雑さを物語っていた。
「そう……では、わたくしはまた、この契約を育んでいかねばならないのですね」
認められることが幸せに繋がるとは限らない。
リヴェレークもその手の欲求が薄いのでよくわかる感情だ。ここは伴侶に倣い、彼女も簡単な言葉で片づけることにする。
「あなたは逃げたかったのですか」
「逃げたい……そう、そうかもしれません。許されないことですから、その言葉を思い浮かべたこともありませんでしたわ――っ、え、魔女さんっ!?」
そこでいきなり羽に触れられた妖精は驚きに飛び跳ね、貞操を守るかのように羽と両腕で己の身体を抱いた。
(やはり契約妖精は鱗粉が多い)
「まったく、君は……」
伴侶の奇行にため息をついている聖人のことは無視し、魔女は手の中で金色の鱗粉に魔法を込めながら練っていく。
「羽か骨、もしくは契約の要素そのものを切り出すことはできますか?」
「え、と……? その、普段から、契約の要素は扱いますけれど……」
「では後ほど、それで自分の印を作ってください。鱗粉を使ってインクを作る方法も教えます」
「印鑑を作るつもりか?」
「はい。心のありようで綻ぶような楔より、よほど強固な契約を結べるでしょう」
「……まあ。それならばわたくしも、すぐに役立つことができそうですわ」
流れるように契約妖精の代替物を作る目処を立ててしまったリヴェレークは、そこで、勤勉な妖精の言葉にすんと影めいた瞳を逸らした。
「……百年くらい無駄にしてもよいのでは」
「は?」
「え……」
契約妖精、とりわけその王族は、長命だ。生き急ぐ必要もなし、なぜわざわざ心を削るようなことをするのだろう。
「少しくらい自堕落な生き物がいたところで、世界はびくともしません。好きなことだけをしていればよいのです。わたしはいつも、書の迷い路に入り浸っています」
ここはあえて胸を張った穏やかな魔女に気づいたのか、妖精姫はふふ、と高貴な笑みを浮かべた。
「暴論だわ。力がなければ自由に動くことすらままならないでしょうに」
「けれど、わたしたちは持っているでしょう?」
いつもの、思わず溢れたようなものではない。
か弱くも強かな妖精へ返すために作られた笑顔。それはどこかぎこちなく、けれども恐ろしいほど深い優しさに満ちているのであった。
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聖女である妹が自分には相応しい?なら、どうして婚約解消を申し込んでくださらなかったのですか?
私だってわかっています。妹の方が優れている。妹の方が愛らしい。
だから、そうおっしゃってくだされば、婚約者の座などいつでもおりましたのに。
こんな公衆の面前で婚約破棄をされた娘など、父もきっと切り捨てるでしょう。
私は誰にも愛されていないのだから。
なら、せめて、最後くらい自分のために舞台を飾りましょう。
灰色の魔女の死という、極上の舞台をー
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