ユーリカの栞

ナナシマイ

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ユーリカの栞

p.08 とても大事なものなのです

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「寒くはないかい?」
 周囲の木々に負けないくらい高くまで伸びた煙突の縁に腰掛け足をぶらぶらさせている魔女に、家は気遣わしげな声色で訊ねる。
「あら、あなたが暖炉の熱を調整してくれているのでしょう? とても心地よいもの、ありがとう」
「……うん、よかった」
 煙突からもくもくと立ち上るのは、煙ではない。樹皮をくぐらせ凛とした香りのする湯を揺らし、泡立てたことで、シフォンケーキよりもずっとふわふわの手触りがする極上の湯気だ。
 ちなみに、いくら喋るとはいえ家が魔法を使うことは本来あり得ないのだが、森の中にひとりで生まれひとりで生きてきた魔女がそのようなことを知るはずもなく、この家もわざわざ魔女を困らせるようなことを報告するはずもないので、問題になったことはない。家は大事な魔女が快適に過ごすためならなんでもするのだ。
 魔女はそんなやわらかさにもたれながら、ぼんやりと景色を楽しむ。
 薄曇りの、けれども霞みの弱い朝にこうして遠くの山々を眺めることが魔女は好きだった。まだ雪をかぶっておらず、墨を混ぜたような青色が稜線に沿ってくっきりと浮かぶさまは、得も言われぬ美しさがある。
(それにこの色、彼の髪と同じだわ……)
 ベルベットを纏ったかのような、深くも鮮やかな葡萄酒色をした自身の髪とはまるで異なる色。魔女らしい、豊かな魔法の力に満ちた色だと、何度褒められたことだろう。
 しかし魔女は、人間のような弱い生き物だけが持つ、自然に溶け込むような静かな色を好ましく思った。
 今まで気づかなかったのは、こうして景色を眺めながら誰かを思い浮かべることなどなかったからだ。これもまた人間の営みなのだと思うと、魔女はこそばゆい気持ちになる。
「君はなにを考えているのだろう……」
「ふふっ、気になるのかしら? ほら、遠くに山が見えるでしょう?」
「うん、あの青みがかった墨の色が好きなんだよね」
「そうよ。それでね、そういえばあの色は魔術師さんの髪の毛と同じ色なのだなと思い出していたの」
「…………え?」
 緩く波打ちながら背中まで伸びた髪を掴み、空に透かしてみる。主張の強い鮮やかさは、やはり、この景色には馴染まない。だからこそ他の生き物たちは魔女に興味を示し、その恩恵に与るため自然すらその意思に従うのだが、今は少し残念に思えた。
 ふと、透かした髪の向こうにそびえる山の色に魔術師を見た気がして、魔女はぴくりと肩を揺らす。
 思い出されるのはつい昨日の出来事。
 今の魔女と同じく一房の髪を、しかしどこかしっとりとした手つきで掬い上げ、じいと見つめる瞳に浮かんでいた獰猛さ。わずかに開いた、形のよい唇に滲む愉悦。
「……はっ」
「どうしたのかな」
「昨日魔術師さんに会った時、食べられてしまいそうになって恐くて逃げてきてしまったのだけど」
「ちょっと待とうか」
「考えてみれば、わたくしは人間のことをよく知らないのだわ。もしかすると髪の毛を野菜みたいに食べる習慣があるのかもしれない……」
「……うん?」
「持つ色彩だってこんなにも違うのだから、当然よね。同じように生きていると思っていても、やはり人間と魔女は違う生き物なのよ」
「うん、そう……だね。とりあえず、君を食べてしまわないように伝えておいたほうがいいんじゃないかな」
 いつの間にか煙突から吐き出される湯気の勢いは弱々しくなっており、魔女は名残惜しそうに縁を撫でてからタッと地面に飛び降りる。
 祝祭までの時間は短いものだ。まだ昼にもなっていないが、すれ違いが起こってしまったのなら確かに早く正したほうがいいと、魔女はメッセージを書くことにした。

『昨日は急に逃げてしまってごめんなさい。よくよく考えてみれば、わたくしたちの嗜好が異なるのは当然のことなのですよね。できるだけ歩み寄るつもりですし、もう恐ろしいとは思いません。……しかしながら、魔女の髪というのは魔法の要素が含まれていて、とても大事なものなのです。これだけはお渡しできないこと、許してくださいますか?』
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