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しおりを挟む停車していた辻馬車で移動することになったリリアは座席に座ると、対面にルジェが座っていることに関わらず思わず小さくふうっと息を吐いてしまった。気丈に振る舞っていたつもりだが、リリアが思うより疲労が溜まっているようだ。
淑女らしく人前では笑みを絶やさず感情を顔に出すな。徹底的に教育され、社交界では常にそうありつづけたが、体が意思とは反してくる。スカートで隠れている脚はぷるぷると震えて隠しきれない疲労を訴えている。だが、そんな疲労もリリアは心地よいとさえ感じていた。
(あの突き刺さるような大衆の視線がないからかしら)
幼い頃に婚約したセライラ王国の王太子の婚約者としての立場もあり、リリアは常に社交界で注目の的だった。一挙手一投足に視線が刺さり、周囲の評価が付き纏う。 もしその視線が今ここにあったのであれば、疲労を表したリリアを未熟だと冷たく下げ落としただろう。だが、今この場にはない。
常に重圧で有り続けた重がないような解放感と新鮮さに思わずクスリと笑みを零す。
「疲れているだろうに、楽しそうだなリリアは。長旅は初めてではないのか?」
初めての経験にはしゃぐ子供を見つめるような穏やかな顔をしてリリアを見つめるルジェの瞳の温かさに少し気恥ずかしくなりながら、リリアは首を振る。
「こんなに遠いところまで来たのは初めてですわ。でもすごく楽しいです。この座席の感触も、額の汗を拭う気力さえない疲労も、どれも良いものですね」
大衆向けの辻馬車と伯爵家の馬車は比較にするものでもないが、常に柔らかなクッションで覆われていた座席は硬い木材の感触に変わり、馬車の振動を大きく体に伝えてくる。それでもそんな感触すら愛おしいと思える。
さらりと掌で撫でた座席のざらりとした感触にリリアは楽しく笑う。そんなリリアの様子に顔を赤くしたルジェは見とれていたが、はっと我に返り顔を逸らす。
拷問にでも耐えるように体を強張らせるルジェのことには気づかずに、リリアは車窓から見える景色に目を奪われ続けた。
やがて辻馬車で訪れたのは、マーラ亭という宿屋だった。気の良い夫婦が営んでいる宿屋で、一階は酒場で二階が客部屋のある宿泊施設となっているのだとルジェが説明してくれた。
シーズンによっては宿泊は困難だが、今は控えている祭りもなく比較的街の人の出入りも少ない時期だから宿泊も可能だろうと。
チャリンと扉に備え付けられたベルの音を聞きながら、マーラ亭に入店する。いくつかの木製のテーブルと椅子がフロアに設置され、奥にある長いカウンターには店主らしき初老の男性がグラスを磨いている。
宿泊客らしき客人がまばらに席に座って同席者と談笑しながら食事をしており、その中で中央に立っていたエプロンをつ身にけた恰幅の良い中年の女性が活気の良い笑顔で振り返って二人をにこやかに迎える。
「おやルジェじゃないか!まあまあ!そんなとびきりの美女を連れて!目玉飛び出るかと思ったわよ!」
店内に響く女性の声にその場にいた全員の視線が集まる。その視線がリリアに向いた瞬間、しんと賑やいでいた店内が静まり返った。
身なりこそ平民であるが、窓から差し込む日光で明かりとりをしている薄暗い店内でも輝く髪に、旅路で多少焼けたとはいえ滑らかな白い肌。その肌に薄っすらと滲む汗と血色の良くなっている赤い唇がリリアに艶を感じさせながらも憂い気な印象を受けさせる。
ガタっと思わず後ずさった客がぶつかった椅子が揺れる音が店内に響く。
「おやまあ、みんなルジェのべっぴんさんに見惚れて固まちまってるよ。まあ無理もないがね。アンタ!見惚れるのもいい加減にして仕事しな!」
手を止めていた店主がギクリと肩を揺らして、慌てた様子で素早くグラスを磨き始める。ほかの客も我に帰ったように談笑を再開するが、その視線はちらほらとリリアを行き来する。
リリアがきょとんとしている中、想定していた状況とはいえ心境が理解できるルジェは苦笑しながら女性へとリリアを連れて近づく。
「マーラさん。こちらの女性が宿泊できる場所を探しているんだが、可能だろうか?」
「そうだね~、丁度さっき出て行った宿泊客がいたところだから部屋は一部屋全部空いてるよ。あんた名前は?この街は初めてかい?」
「リリアと申します。チェスタを訪れたのは初めてになります。とても良い街ですね」
「そうかい!それは良かったよ。でも泊まる場所ならルジェの家に連れて帰ればいいんじゃないかい?アンタの婚約者だろ」
どうやらマーラはリリアとルジェの関係を誤解しているらしい。ルジェが狼狽えながらも必死に誤解を解けば、マーラは残念そうに肩を竦める。
「てっきりルジェが良い人を紹介しに来てくれたのかって期待しちまったよ。騎士団長っていう地位もあって顔も良い優良物件の男なのに女気がないのがねえ」
語尾を強調したあからさまな口調にルジェは乾いた笑みを漏らして困った様子だが、リリアはそんなルジェよりもマーサが告げたルジェの身分に驚いた。
まさかヴァルフ辺境伯の黒の騎士団の団長がルジェだとは予想していなかったのだ。ヴァルフ辺境伯の同行者だという騎士団の男性を目撃したことはあるが、ルジェではなかった。リリアはあの時見かけた男性が騎士団長だと思い込んでいた。それに、目的であるヴァルフ辺境伯の騎士に出会えたことですら奇跡なのに、まさか騎士団長と既に知り合っていたとは思える筈がない。
驚いていれば、ルジェは自身が騎士団長であることをリリアに告げていなかったことに思い当たったのか、今は休暇中だからと理由を告げる。
「騎士団長っていう肩書きだと緊張させるかとも思って。ごめん、すぐに言えば良かったな」
「そんな名誉ある方に親切にしていただいていたなんて思わなかったですけれど、頼れる者もいない慣れない土地ではすごく心強いです。それに、休暇中だったにも関わらず貴重なお時間を割いていただきありがとうございますルジェ」
「気にしないでくれ。休暇中といっても困っている者を手助けするのは騎士として当たり前だ。それに俺はリリアと過ごせて……光栄だよ」
気恥ずかしそうに言葉を小さな声で濁すルジェに、マーサがにやにやと揶揄うように笑いながら肘でつつく。
ルジェは「いや、違う!」となにやらあたふたと狼狽えながら誤魔化そうとしているが、マーラは構わず笑って受け流している。
「今は祭りのシーズンでもないし、どうやらただの観光客って感じじゃないようだね。なにか事情があるようだったら、アンタが聞かせてくれたら力になれるかもしれない。アンタはルジェの大切な客人のようだから、常連客の大切な客人は店の大切な客人だ。どうだい?聞かせてくれるかい」
マーラの好意に甘えて良いのかとルジェを伺い見れば、ルジェはしっかりと頷き返してくれる。
ひとまず席につこうと案内してくれたマーラについていき、カウンターに近い空いた席に三人で座る。
リリアはルジェに説明した時のように話せる事情だけ説明して、親しい者がいないチェスタに移住してきたことや帰る場所がないこと、仕事を探していることをマーラに説明した。マーラは茶化すことなく最後まで説明を黙って聞いてくれると、豪快に胸を叩いた。
「そういうことかい!だったらうちで働くのはどうかい?ちょうど店を手伝ってくれていた娘が旦那の仕事の都合で遠方に引っ越しちまってね、求人を出そうか考えていたところだ。娘が使っていた空き部屋を使ってくれていいし、うちは住み込みで雇えるよ。リリアなら集客が見込めそうだから大歓迎だよ」
あまりにリリアにとっては好条件すぎる内容だ。チェスタに到着してからの解決すべき問題が一挙に解決できる。
一も二もなく頷きたいリリアだったが、労働を経験したことがない貴族出身である自らの経歴を考えて慎重にマーラに返答する。
「私にはとても有り難いお話で、是非ともお願いしたいのですが……お恥ずかしながら労働の経験がなくご迷惑をお掛けしないかと心配で。大丈夫でしょうか……?」
言いながら恥ずかしくなってしまいリリアは目を伏せてしまう。伯爵令嬢として恥じることなく生きてきたつもりだったが、平民としては取り立てられるものを何ももたないただの小娘だ。
マーラ亭に連れてきて紹介してくれたルジェや、好意的に接してくれたマーラに申し訳ない気持ちになってしまう。
すると、マーラはそんなリリアの不安をすぐに笑い飛ばしてくれる。
「そんなの見ればわかるから気にしないよ!うちの旦那も私も求めてるのはやる気さ。仕事なんて覚えてくれればいいし、最初のうちはやる気さえあればいいんだよ。どうだい?やる気はあるかい?」
そうだろアンタ!とすぐ側のカウンターの奥にいる店主にマーラが声をかけると、店内に響くマーラの声のためか内容を聞いていた店主は頷いてリリアに笑いかけてくれる。
リリアはぱあっと顔を輝かせ、嬉しくて満面の笑みを店主に返せば、固まる店主をマーラがじろりと睨みつける。店主はさっと顔を逸らして再び自らの仕事に専念する。
店主以外にも店内にいる他の客人の視線は全てリリアに奪われていたが、笑顔で圧力をかけたルジェの迫力にさっと視線を逸らした。
「うん、やっぱり私の目には狂いがなさそうだね。こりゃ店が大いに盛り上がりそうだわ」
「ありがとうございますマーラ様。是非お願いしたいです」
「良かったねリリア」
「ええありがとうございますルジェ。全てルジェのお陰ですわ。こんなにも親切にしていただいて、どうお礼をしていいのか。なにか私にお返しできることがあればどうか教えてください」
感激のあまりリリアはルジェの両手を取り包み込むと、大きく硬い両手がビクッと震える。ルジェの動揺を伝えるように熱くなるが、ルジェに対する感謝の気持ちで胸をいっぱいにしているリリアは気付かずに手に力がこもる。
思わずルジェが助けを求めてマーラに視線をやるが、マーラは楽しそうに笑うばかりだ。助けが見込めないことを悟ったルジェはゴクリと喉を鳴らすと、強張る唇を慎重に動かす。
「リリアが良ければ……今度一緒に出かけてくれないだろうか?この街を案内させてほしいんだ。俺も楽しい休暇になるだろうし、どうだろう?」
「もちろんですわ。でもそれでは私だけが得をするばかりで、本当にルジェへのお返しになるのでしょうか?」
コクコクと大きくルジェが頷く。
(本当に優しい方なのねルジェは。私に親切なことばかりだわ)
初めての街の道案内を、チェスタを熟知しているだけでなく騎士団長であるルジェが案内してくれるなど心強いばかりだ。
大きな謝礼を望むこともできるのに、それどころかリリアが気遣わないような理由も混ぜてくれている。
「実は俺は女性の扱いに慣れていないんだ。騎士団でよくそれをネタに揶揄われるから仕返せる話がほしいんだよ」
「まあ、騎士団のみなさんはとても仲が良いのですね」
黒の騎士団の結束力の高さは国内外問わず認知されている話だが、どちらかといえば戦闘力の高さゆえから鋭いイメージがある騎士団の和気合いとした話にリリアは微笑む。
次回のルジェの休暇が決まり次第、この店で働かせてもらうことになったリリアに報せに来てくれることになり、予定があえばその日に出かけようという話になった。
マーラはその時は遠慮なく出かけていいからと快く許可を出してくれて、そのあとはマーラに訊ねられて昼食がまだだったことを思い出したリリアのために、同じく昼食をとるために外出していたルジェと昼食をとることになった。
食事はマーラ亭の店主、ソフトが作っているとのことで、マーラ亭名物の干し肉パイから肉料理などを振る舞ってくれて、切り分けられたパイをフォークを使わずに手で食べるなど、作法を気にしない食べ方に戸惑いながらも実践し、ルジェとの食事の時間を楽しんだ。
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