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リリアは恋に生きます
しおりを挟む穏やかな日差しと心地の良い風が吹く午後。エイミーは自らが侍女を務める伯爵令嬢のリリア・マグノアに庭園でのお茶の時間を勧めようとリリアの私室を訪れた。
ご機嫌に笑みを零すエイミーはリリアが庭園で過ごす様子を傍で見つめているのがなにより好きな時間だった。
風が緩やかな波を打つ海面を辿るようにリリアの髪を揺らす様は、神々が自ら特別に編みこんで創り上げたかのような繊細さと豊満な光を一層際立たせ、リリアの陶器のような白い肌を淡く染める。そして元より甘く艶やかな唇の血色を温かな紅茶が化粧を施すように一層濃くする瞬間に目を奪われず胸を高鳴らせない者などいないだろう。
長く柔らかな睫毛が大きな影を落として細められた瞳は泉の水面のような壮麗さに惹き込まれ、慈愛そのものの微笑みに心を奪われる。傍で見ているだけなのに、見た者全ての意識を奪う美しさが満ちる瞬間がリリアが庭園で過ごす時間だとエイミーは思っている。
エイミーがこの胸の内を話した際のリリアは頬を染めながらも冗談を聞いたように笑っていて本気で受け止めていないようだったが、そんな主人が脅かされることがないよう自覚をしてほしいと思いつつも稀有な尊さが損なわれることがないことをエイミーは心より願っている。
「失礼しますお嬢様。本日はとても天気の良い日ですので庭園でお茶は……あれ?」
ノックをしてリリアの部屋に入室したエイミーは部屋で過ごしていた筈のリリアに話しかけたつもりが、すぐにリリアがいないことに気付いて目を瞬かせる。
エイミーがお茶の準備をするために僅かな時間部屋を去る前、繰り返し何度も読了しながらも飽きることなく片時も手放すことかなかったお気に入りの恋愛小説をリリアは読んでいた。
もちろん内容を熟知している読書をすぐに中断したとしてもなんら不思議なことはないが、いつもは一度読み始めると時間を掛けていたリリアがいないことに違和感を感じながらエイミーはリリアが座っていた机の前の椅子に近づいた。
すると、机の上に封筒が置かれていたことに気付いた。それはエイミーが部屋に出るまではなかったものだ。だがすぐに封筒に“愛するエイミー”と書かれていることに気づいた。
「これは……お嬢様の字だわ。まあ」
心優しい主人であるリリアがまさか自分に手紙を書いてくれたのかと感激に目元が潤む。身分に拘らず、普段から些細なことでも礼を尽くしてくれるリリアだったが、何か手紙で伝えようとしたい事があったのかもしれない。
じんわりと心が温かくなるのを感じながら、エイミーは丁寧に封を開いた。すぐに開くことを想定していたのか封蝋による密封は施されていなかった。
「なんてことなの……」
最初こそリリアの筆跡を愛おしく思いながら手紙を読んでいたエイミーだったが、すぐに不穏な気配を覗かせた手紙の内容にエイミーの顔は強張り、ついにある一文を視線が追った瞬間、血の気を失くした。
ぶるぶると激しく体を震わせ、想定し得なかった事態の重さに堪らずぐしゃりと手紙を歪ませた。
“私は恋に生きることにしました。リリア・マグノアは死んだことにしてください”
手紙にはエイミーを含めた使用人や血の繋がりのある家族を慈しむ内容から始まり、リリアが突然生まれてはじめての恋に目覚めたことを告白する内容に続いていた。相手は幼馴染でもあり婚約者でもあるこの国の王子ではなく、舞踏会で一目目にしただけの男性で、一目惚れをしたリリアは忘れられることができないまま結果、伯爵令嬢であり婚約者がいる立場ではその恋に生きられないことを考え、恋に生きるために家門を出て生きていくことを決意したというのだ。
暫し愕然としていたエイミーは我にかえり、この緊急事態をマグノア家の者たちに報せるためにリリアの私室を飛び出した。
ーーーーー
隣国である同盟国との境界に位置するヴァルフ辺境伯領のチェスタという街は、セライラ王国の交易の要所としても栄えている。
街馬車や道中で出会った親切な農夫婦の荷馬車に乗車させてもらったりと、宿での休息を交えながらリリアは一週間掛けてチェスタに到着した。
「ここがチェスタなのね……こんなに遠いところまで来たのは始めてだわ。慣れないことが多くて疲れたけど楽しかった」
必要最低の衣服と慎ましく暮らしていくには十分な金品、そしてお気に入りの一冊の本を革鞄に詰めてリリアはマグノア伯爵家を出た。旅路にあった街で不要なドレスを換金し、平民の服を用意したりとしたため、リリアが来ているのは伯爵家で身につけていた衣服とは比較にならない質素な服である。
今頃伯爵家からはリリアの捜索が行われているかもしれない。リリアがお願いしたとおりに心優しい家族がリリア・マグノアを死んだことにしてくれた可能性は低く、だが、戻るつもりは毛頭なかった。
(ーー私はあの方にすべてを捧げるの)
夢にまで見ていた想い人がこの街にいるのかと思うと心臓が高鳴る。
幸い、危惧していた盗難や強盗などの犯罪に遭遇することはなかった。金品のやりとりも事前に学んでいたため、困ることはなかった。
(もう完璧な平民ね私も)
すっかりその気になって笑うリリアは、チラホラと周囲の人間が熱い視線を送っていることには気づかない。
周囲に漂う緊張感はリリアに誰から声を掛けるのが先なのかという牽制が混じっているが、リリアはやはり気づかないままチェスタでの宿泊先について考える。
(仕事を探さないといけないけど、まずは先に住む場所をどうにかしないといけないわね。すぐには見つからないだろうから宿を探さないと)
伯爵令嬢として培った読み書きと針の技術など、全く役に立たないことはないはずだ。リリアにも可能な仕事が見つかることを祈りつつ周囲を見渡していたリリアは目についた身なりの良い長身の背の男性に背後から声を掛ける。
「この街で本日から宿泊可能な宿屋をご存知ありませんか?可能でしたら、お仕事を紹介して下さる場所も教えてほしいのですが……」
振り向いた男性はリリアを見下ろすと、驚いたように目を見開かせる。頬を染めて無言の男性に、リリアは何かおかしな点があるのかと自分の身なりを確認するがわからずに首を傾げる。
キリッとした太い眉をした精悍な顔立ちに明るいブラウンの髪をした人の良さそうな男性は通りがかりの騎士に見えた。腰には装飾が施された鞘に収められた剣がある。
もしリリアの最終目的地であるヴァルフ辺境伯の騎士団の者ならば絶好の機会だと期待もしていたが、やはりそう上手く事態は動かないかとしょんぼりしかけた時だ。
「え、あ!申し訳ございません!つい貴方の美しさに目を奪われて……いや!えっと」
あたふたと慌てふためく男性は照れたように頬を指でかき、恥じるように視線を彷徨わせる。
きょとんと男性を見つめていたリリアだったが、クスリと笑みが零れた。やはり第一印象は誤りではなさそうだ。初対面の相手に対する緊張が和らぐ。
「ありがとうございます。嬉しいですわ。もし良ければお名前をお聞かせ頂けますか?私はリリアと申します」
「リリア……」
噛みしめるように呟く男性は惚けたような顔をしてそのまま黙り込んでしまう。リリアは暫し待つが、反応がない男性に爪先で足を立て腕を伸ばすと、男性の顔の前に手をかざして軽く振る。するとはっと我に返った男性は驚いたように謝ってきた。
「とても綺麗な名前に驚いてしまって……本当に申し訳ないです。えっと、あの、宿と仕事をお探しでしたよね。それなら心当たりがありますが……失礼ながらリリア様はそのような事情とは縁のない身の上のようにお見受けいたします。何か事情があるようでしたらお聞かせ頂けますか?」
視線を逸らしたまま続いて男性は、ルジェと名前を名乗り、やはりリリアが予想していた通り辺境伯の騎士団に勤めているとのことだった。そのため治安維持の為にも平民に思えないリリアが宿と仕事を探す事情を把握したいとのことだった。
見事に平民になりきったつもりだったリリアはすぐに自身の身の上を見抜かれたことに落ち込む。すると、ルジェは自身の物言いがリリアを傷つけたと誤解したのか慌てた様子で謝罪する。
「責めているわけではありません!ただもしリリア様に何かお困りごとあるのであれば力になれればと……」
「ありがとうございますルジェ様。実は私にはもう帰る場所がないのです。故郷は遠く、このチェスタの評判を聞いて移住できないかと考えています。どうかお力添えをお願いできますか?」
詳細を伏せて明かせる範囲で事情を説明し、リリアは期待を込めた眼差しをルジェに向ける。一瞬真剣な顔をしてリリアを見たルジェだったが、さっと顔を逸らしてしまう。
(お屋敷に務めるまでは無理でも、あのお方の領民として生きていきたい)
通常、貴族の屋敷に務めるには信用の置ける筋からの紹介状が必要だ。無断で家を出たリリアに紹介状があるわけはなく、身分を明かせない身の上では利用できる権力もない。
ルジェは赤らんだ顔を濃くさせると、こくこくと頷く。そのまま大きく息を吸うように胸を喘がせたと思うと、リリアの方を振り返った。
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