57 / 58
番外編3-1 徒然と美咲
しおりを挟む
本日で番外編も終了です。
前後編とも少々長めですが、最後までお付き合いください。
藤の花芽が膨らみ始めた春の朝、徒然の書斎に顔を出した美咲が言った。
「徒然さん、今日の郵便物よ。この後お母さんと一緒に幸ちゃんの検診に行ってくるわね」
「うん、わかった。今日はずっと家にいるからゆっくりしておいで」
「お昼までには帰るつもりだけれど、ご飯待てる?」
「ああ、待ってる」
ようやくつかまり立ちを始めた赤ちゃんを連れて出掛けるのは、なかなか大変な仕事だ。
替えのおしめやミルクの用意だけでも大きな荷物になってしまう。
玄関から志乃の呼ぶ声がして、美咲はマザーバッグを手にする。
タクシーが走り出す音を遠くで聞きながら、徒然は郵便物を手に取った。
「懐かしいな。何年ぶりだろう」
学生時代によく集まっていた仲間からの誘いの手紙に頬が緩む。
「10年ぶりか? ああ、斉藤が帰ってきたのか」
スケジュールを確認し、返信用はがきの出席欄にチェックを入れる。
カレンダーに同窓会と書き込み、返信ハガキを机に置いて仕事を再開した。
机の上のデジタル時計が13時を示し空腹を覚え始めたころ、美咲の声が届く。
「ただいま帰りました」
「おかえり、どうだった?」
「順調ですって。平均より少しだけ背が高いみたい。あなたに似たのね、きっと」
「そうか。健康なら何よりだ」
「すぐにお昼ごはんにするから、きりが良いところで来てね」
美咲に抱かれた愛娘が、徒然の方に手を伸ばしている。
徒然が相好を崩し立ち上がった。
「さあ幸、こっちにおいで」
子供を任せてクスっと笑った美咲は台所へと向かった。
今日の昼食はハンバーグだ。
ベビーチェアに娘を座らせ、慣れた手つきでベルトを締める徒然。
「いただきます」
母親からスプーンを奪い自分で口に運ぼうとする娘の姿に目を細めながら、徒然は小さな幸せを感じていた。
うつらうつらしている娘を気に掛ける美咲に志乃が声を掛けた。
「私が寝かしつけてくるから、美咲はちょっとゆっくりしなさい」
子と祖母が去り、急に静かになった台所で、ふと徒然が美咲に声をかけた。
「これ、急がないから買い物のついでにでも投函してくれないかな」
差し出されたハガキの宛名は女性名だった。
「出欠ハガキ? 何かのパーティーなの?」
「いや、大学時代の仲間がアメリカから帰ってきたらしくてね。集まらないかっていうお誘いだ。5月の連休明けみたいだよ。急だったからどうかとも思ったんだけれど、予定も無かったから顔を見に行ってこようと思って」
「そう、今日は買い物に行かないつもりなのだけれど。明日でも良いかしら?」
「うん、ぜんぜん大丈夫」
徒然の斜め前に座った美咲が日本茶を一口飲んだ。
「ねえ、徒然さんの学生時代ってどんな感じだったの?」
「どんなって……普通だと思うけどなぁ。でもあまり人付き合いはしなかったかな。どうも面倒でね、それより本を読んでいる方がずっと有意義だって思ってるような学生だった」
「なんだか想像できるわ。帰ってこられるのはやっぱりお医者様なの?」
「そうだよ。アメリカの大学関連の病院に勤務してた斉藤って奴なんだけど、こいつが私より数倍変人でね。医学書を読むよりシェイクスピアを原書で読んでるような医学生だった」
「なんだか凄そうな人ね。私には想像もできないわ。今回集まるのは何人なの?」
「全員で6人だ。ヨーロッパ文学愛好会のメンバーなんだよ。懐かしいな」
美咲の眉が微妙に動く。
「話が合う仲間の集まりならきっと楽しいでしょうね。このところ忙しかったでしょう? たまには羽目を外して楽しんで来たらいいわ。幹事さんは……女性なのね」
美咲がハガキの宛先を見ながら言った。
「ああ、安藤豊子ってのは昔からお節介焼きでさぁ。集まるっていったらだいたい安藤が仕切ってたな」
「そういう人がいないとなかなか集まらないものよね。何かのきっかけが無いと」
「うん、この歳になるとますますそうだね。安藤ともう一人鈴木美佐子っていうのが女性で、あとは全部男だな。そう言えば、安藤って結婚しなかったのかな?」
宛名があの頃と同じ名前が印刷されているハガキを見て徒然が言った。
「6人で、そのうち女性が2人?」
「そうだよ。この安藤とは解釈の違いでよく論争したもんだよ。彼女はロマンチストでね、ロミオが理想の男だって言ってたなぁ」
「ロミオってロミオとジュリエットのロミオ?」
「そう、私に言わせれば迂闊な男だけれど、彼女にとっては理想だそうだ」
「私、映画なら見たことがあるけれど、本で読んだことは無いわ」
徒然が口を開こうとした時、子供部屋で志乃が呼ぶ声がして、返事をした美咲は、急いで立ち上がり子供部屋へと向かってしまった。
そして数日、徒然が打ち合わせのために朝から出掛けていた日の午後、久しぶりに文化堂のあんぱんを買って来たからと志乃が美咲を呼んだ。
母娘の和やかな時間が流れる。
「ねえ美咲。このところ少し顔色が悪いようだけれど、大丈夫?」
美咲の肩がぴくっと揺れた。
「うん……少し疲れているのだと思うわ」
志乃があんパンをちぎりながら言う。
「あなたは噓が下手ね。ちゃんと話しなさい。抱え込んでも良いことなんて何もないのよ? それとも私では役者不足かしら。その感じだと徒然さんにも言ってないのでしょう?」
俯いた美咲が小さな声を出した。
「徒然さんには言えないわ……だって私が間違ってるもん」
「美咲?」
ぽつりぽつりと美咲が話し始めた。
前後編とも少々長めですが、最後までお付き合いください。
藤の花芽が膨らみ始めた春の朝、徒然の書斎に顔を出した美咲が言った。
「徒然さん、今日の郵便物よ。この後お母さんと一緒に幸ちゃんの検診に行ってくるわね」
「うん、わかった。今日はずっと家にいるからゆっくりしておいで」
「お昼までには帰るつもりだけれど、ご飯待てる?」
「ああ、待ってる」
ようやくつかまり立ちを始めた赤ちゃんを連れて出掛けるのは、なかなか大変な仕事だ。
替えのおしめやミルクの用意だけでも大きな荷物になってしまう。
玄関から志乃の呼ぶ声がして、美咲はマザーバッグを手にする。
タクシーが走り出す音を遠くで聞きながら、徒然は郵便物を手に取った。
「懐かしいな。何年ぶりだろう」
学生時代によく集まっていた仲間からの誘いの手紙に頬が緩む。
「10年ぶりか? ああ、斉藤が帰ってきたのか」
スケジュールを確認し、返信用はがきの出席欄にチェックを入れる。
カレンダーに同窓会と書き込み、返信ハガキを机に置いて仕事を再開した。
机の上のデジタル時計が13時を示し空腹を覚え始めたころ、美咲の声が届く。
「ただいま帰りました」
「おかえり、どうだった?」
「順調ですって。平均より少しだけ背が高いみたい。あなたに似たのね、きっと」
「そうか。健康なら何よりだ」
「すぐにお昼ごはんにするから、きりが良いところで来てね」
美咲に抱かれた愛娘が、徒然の方に手を伸ばしている。
徒然が相好を崩し立ち上がった。
「さあ幸、こっちにおいで」
子供を任せてクスっと笑った美咲は台所へと向かった。
今日の昼食はハンバーグだ。
ベビーチェアに娘を座らせ、慣れた手つきでベルトを締める徒然。
「いただきます」
母親からスプーンを奪い自分で口に運ぼうとする娘の姿に目を細めながら、徒然は小さな幸せを感じていた。
うつらうつらしている娘を気に掛ける美咲に志乃が声を掛けた。
「私が寝かしつけてくるから、美咲はちょっとゆっくりしなさい」
子と祖母が去り、急に静かになった台所で、ふと徒然が美咲に声をかけた。
「これ、急がないから買い物のついでにでも投函してくれないかな」
差し出されたハガキの宛名は女性名だった。
「出欠ハガキ? 何かのパーティーなの?」
「いや、大学時代の仲間がアメリカから帰ってきたらしくてね。集まらないかっていうお誘いだ。5月の連休明けみたいだよ。急だったからどうかとも思ったんだけれど、予定も無かったから顔を見に行ってこようと思って」
「そう、今日は買い物に行かないつもりなのだけれど。明日でも良いかしら?」
「うん、ぜんぜん大丈夫」
徒然の斜め前に座った美咲が日本茶を一口飲んだ。
「ねえ、徒然さんの学生時代ってどんな感じだったの?」
「どんなって……普通だと思うけどなぁ。でもあまり人付き合いはしなかったかな。どうも面倒でね、それより本を読んでいる方がずっと有意義だって思ってるような学生だった」
「なんだか想像できるわ。帰ってこられるのはやっぱりお医者様なの?」
「そうだよ。アメリカの大学関連の病院に勤務してた斉藤って奴なんだけど、こいつが私より数倍変人でね。医学書を読むよりシェイクスピアを原書で読んでるような医学生だった」
「なんだか凄そうな人ね。私には想像もできないわ。今回集まるのは何人なの?」
「全員で6人だ。ヨーロッパ文学愛好会のメンバーなんだよ。懐かしいな」
美咲の眉が微妙に動く。
「話が合う仲間の集まりならきっと楽しいでしょうね。このところ忙しかったでしょう? たまには羽目を外して楽しんで来たらいいわ。幹事さんは……女性なのね」
美咲がハガキの宛先を見ながら言った。
「ああ、安藤豊子ってのは昔からお節介焼きでさぁ。集まるっていったらだいたい安藤が仕切ってたな」
「そういう人がいないとなかなか集まらないものよね。何かのきっかけが無いと」
「うん、この歳になるとますますそうだね。安藤ともう一人鈴木美佐子っていうのが女性で、あとは全部男だな。そう言えば、安藤って結婚しなかったのかな?」
宛名があの頃と同じ名前が印刷されているハガキを見て徒然が言った。
「6人で、そのうち女性が2人?」
「そうだよ。この安藤とは解釈の違いでよく論争したもんだよ。彼女はロマンチストでね、ロミオが理想の男だって言ってたなぁ」
「ロミオってロミオとジュリエットのロミオ?」
「そう、私に言わせれば迂闊な男だけれど、彼女にとっては理想だそうだ」
「私、映画なら見たことがあるけれど、本で読んだことは無いわ」
徒然が口を開こうとした時、子供部屋で志乃が呼ぶ声がして、返事をした美咲は、急いで立ち上がり子供部屋へと向かってしまった。
そして数日、徒然が打ち合わせのために朝から出掛けていた日の午後、久しぶりに文化堂のあんぱんを買って来たからと志乃が美咲を呼んだ。
母娘の和やかな時間が流れる。
「ねえ美咲。このところ少し顔色が悪いようだけれど、大丈夫?」
美咲の肩がぴくっと揺れた。
「うん……少し疲れているのだと思うわ」
志乃があんパンをちぎりながら言う。
「あなたは噓が下手ね。ちゃんと話しなさい。抱え込んでも良いことなんて何もないのよ? それとも私では役者不足かしら。その感じだと徒然さんにも言ってないのでしょう?」
俯いた美咲が小さな声を出した。
「徒然さんには言えないわ……だって私が間違ってるもん」
「美咲?」
ぽつりぽつりと美咲が話し始めた。
247
お気に入りに追加
761
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる