思い出を売った女

志波 連

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番外編2-2 孝志と洋子

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「そうか……そりゃきつかったな」

「私がバカだったのよ。あんな男を信じて」

「まあ……洋子ちゃんが早く思い切って良かったよ」

 洋子が箸をおく。

「必ず奥さんとわかれるからって……待っていてくれって……」

「男なんて目の前の女を手に入れたいばっかりだから。噓に噓を重ねていくと、どれが噓だったか麻痺するんだ。そのうちにその噓がバレないようにすることばかり考え始めて、一番大切なことを置き去りにしてしまう」

「一番大切なこと?」

「そう、今自分がやっていることが人として正しいのかどうかという、一番大事なことをだ」

「おじさんぶって……わかったように言うのね」

「だって経験者だもん」

 洋子が目をまん丸にして孝志の顔を見た。

「まあ、俺の話なんてどうでも良いよ。今更隠すつもりは無いけれど、聞いていて気持ちのいい話じゃない」

 いつの間にか店内は客でいっぱいになっている。

「店を変えようか」

 慌てて財布を出そうとする洋子を手で制した孝志。

「たまには良い恰好させてくれ」

 駅前通りまで歩き、孝志が雑居ビルを指さした。

「まだ飲めるだろ?」

 孝志が案内したのは少し場末感が漂う古いスタンドだった。
 カウンターの中は夫婦らしき2人だけで、若いスタッフはいない。
 
「別れたんだろ?」

 水割りのグラスを手にした孝志が唐突に聞いた。

「うん、もう疲れたの。待ちくたびれちゃった。きっとあの人……奥さんと別れる気なんて無いのよ。私は騙されたんだわ。バカよ……仕事もやめてさ……逃げ帰ってさ……結局私にもお母さんと同じ血が流れてるってことよ。私を捨てた女の汚い血が」

 山中の離婚に至った経緯を知っている孝志は、何も言わず水割りを飲み干した。

「俺は経験者だって言っただろ? だからわかるんだ。別れて正解だ。いつまで待ってもその男は奥さんとは別れない。もし奥さんが別れてくれって言いだしたら、泣いて縋って引き止める。許してくれるなら土下座でもなんでもしただろうね」

「でも奥さんとは上手くいってないって……」

「そんなもん常套句だろ? それは君にも分かっていたはずだ。違う?」

 洋子が唇を引き結んだ。

「もう忘れろよ。君は崖っぷちで思い留まったんだ。よく帰ってきた。もうどれほど悔いても、やっちまったことは消せない。でもね、前を向くしかないんだよ?」

「山﨑さんは……忘れたの?」

「いや? 忘れてないし、忘れる気もない。俺は一方的な加害者なんだ。よくどちらかだけが悪いわけじゃないなんていう人がいるけれど、彼女に関しては当てはまらない。全面的な被害者だ。浮気なんてやる奴は、ほとぼりが冷めたら繰り返しちまう程度の脳みそしかもってないんだよ。だから俺は絶対に忘れない。自分が大バカ野郎だって知ってるから、忘れるのが恐ろしい」

「私も加害者でしょ?」

「悪いのは男だよ。絶対的に男が悪い。でも洋子ちゃんもちょっと悪いかな。最初から妻帯者って知ってたの?」

「最初は知らなかったの。わかったときにはもう離れられなくなっていて……バカよね。お父さんがあんなに大切に育ててくれたのに」

「うん、お父さんは必死で子育てしたよね。でもね、それはお父さんの贖罪みたいなものだから、気にする必要は無いよ。それともう一つ言わせてくれ」

 洋子が孝志を見た。

「君の中に流れている血って話。あれは違うと思うよ。それを言っちゃうと俺の息子なんて救いがないぜ? 洋子ちゃんもわかってるんだろ? 血のせいじゃない、自分のせいだって。だから辛いんだよな? だから親の顔を見ると居た堪れないんだ。めちゃくちゃわかるよ。俺もそうだった」

 それから洋子はしゃくりあげながら別れた男とのことを、吐き出した。
 何も言わず聞き続けていた孝志が、肩で息をする洋子にポツリと言う。

「泣け泣け。泣くのは女の特権だ。後は時間が解決してくれる。それまでは我武者羅に何かをするのが一番だ。これは経験則だから間違いない。仕事……そうだ! 洋子ちゃん。うちの会社の面接受けてみない? 悩む暇も無いくらい忙しいぜ?」

 ポカンとした顔をする洋子。

「忘れることはできなくても、忘れた振りはできるようになるんだよ。でもね、ついた傷は一生残る。俺なんて島帰りの刺青が二本入っているようなもんだ。人には見せないし、言わなければ誰にもわからないけれど、自分にはくっきりと見えるんだよ。それを戒めとして生きていくしかないんだ」

 頷く洋子の横で、孝志が水割りのグラスをゆっくりと回す。

「俺は偉そうに言える人間じゃないんだ。言ってて恥ずかしいもん。ちょっと酔ったかな。ああそうだ、明日の休みにうちに来ないか? お父さんも一緒に。来年高校生になる息子を紹介するよ。俺の息子とは思えんほど良い男だぜ? 顔じゃなくて心が」

 洋子が笑顔を浮かべた。

「うん、行きたい。帰ったらお父さんに言ってみるね」

 洋子をタクシーに乗せた孝志は、その場に立ち止まったまま夜空を見上げた。

「すみません。偉そうなことを言いました。ごめんなさい」

 孝志が誰に許しを乞うたのかは本人しか知らない。
 しかし、歩き去るその足取りは、いつもより少し軽かった。
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