思い出を売った女

志波 連

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徒然という男

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「おはよう」

「あら、早いですねぇ」

 座敷で床の間の掃除をしていた志乃が明るい声を出した。
 美咲が磨き上げた廊下が、朝日を浴びて光っている。

「うん……志乃さん。昨日美咲から聞いたよ。いろいろとありがとう」

「そう。役に立てたのなら良かったわ。彼女は大丈夫?」

「大丈夫だよ。美咲は自分の意思で、裕子という女の思い出を私に売ると言った。その代価は私の人生のすべてで払う。美咲も了承してくれたよ」

「おめでとう、徒然さん」

「ありがとう……お母さん」

 志乃が驚いた顔で徒然を見たあと、その場で三つ指をついた。

「徒然さん。不束な娘ではございますが、とても性根の優しい娘でございます。臆病で引っ込み思案なところもございますが、どうぞ末長く可愛がってやってくださいませ」

 徒然が志乃の正面に正座する。

「こちらこそ、気の利かない若輩者ではございますが、あなたの愛した本田松延の名を汚すことの無いよう、これからも精進してまいりますので、妻共々お導き下さいますよう、心よりお願い申し上げます」

 二人は真面目な顔で頭を下げあった後、声を出して笑った。

「お母さんがそんなに笑うのって初めて見たよ」

「だって、徒然さんが……おかしいんだもの! 笑い過ぎてお腹が捩れちゃう」

「ははははは! そんなに笑うなんて酷いなぁ。頑張ったのに」

「そうね、頑張ったね。大変良くできました」

 台所から美咲が出てきた。

「何笑ってるの? ごはんできたよ?」

「ああ、今行く。ちょっと日本古来の儀式を2人でやってみたんだ」

 美咲が不思議そうな顔で小首を傾げた。

「さあ、いきましょうか。愛娘の旦那様」

「はい、参りましょう。愛する妻のお母様」

 また2人は笑い合った。
 台所に入ると、美咲が紅茶を淹れていた。

「徒然さん、ミルクティーにする?」

「今日はストレートにしよう。ハニートーストに合いそうだ。それより美咲、大丈夫?」

「何が?」

「体だよ。無理させちゃったから」

 志乃が紅茶を吹き出した。
 美咲が慌ててタオルを差し出したが、その顔は真っ赤に染まっている。

「徒然さんのバカ!」

「あ……ごめん」

 バタバタと音を立てて美咲が廊下に出た。
 慌てて追おうとする徒然を志乃が止める。

「私が行くわ。あなたは先に食べていてね。今日は出版社に行くのでしょう?」

「あ……ああ、そうだね。うん、よろしくお願いします」

 志乃がぽこんと徒然の頭に拳骨をひとつ落として出て行った。
 一人残った徒然は、バツが悪そうに黙々とトーストに嚙り付いている。

「美咲? 開けるわよ」

「お母さん……私……」

 志乃がソファーのクッションで顔を隠している美咲の肩を抱いた。

「おめでとう、美咲。徒然さんの妻になったのね」

 美咲が耳まで赤く染めて小さく頷く。

「あなた達って別荘に行っても寝室は別だし、イタリアにまで行ったのにそんな気配も見えないし。やきもきしてたのよ? 徒然さんていい年して意外とヘタレよね。そんなところも松延さんにそっくりだなんて」

 美咲が志乃の顔を見上げた。

「今日は出版社にお出かけでしょ? お見送りをしなくちゃね」

「はい」

「美咲。徒然さんを……あの子をどうぞよろしくお願いします」

 美咲は泣きそうになるのを必死でこらえながら、志乃に抱きついた。
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