思い出を売った女

志波 連

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振り返る女

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 日本茶を淹れながら志乃が美咲に聞いた。

「どうする? 徒然さんに、記憶が戻ったことを伝える?」

 美咲がきゅっと唇を引き結んだ。

「どうするべきなのでしょう……あんなに良くしてくださった徒然さんに『失敗です』って言うのもどうなのかしら。でも噓をつくのはもっと申し訳ないような気もして」

「うん、凄く分かる。でもね、人のことはどうでも良いんじゃない? だって徒然さんは研究者ではないでしょ? だから敢えてあなたの記憶を買うという言い方をしたんだもの。でもそう簡単には割り切れないかぁ……」

「あんなに頑張って下さった徒然さんにも申し訳ないし、何年か友達を止めてまで私を助けようとしてくれた澄子にも悪くて……志乃さんにもそうです。大切な娘さんの戸籍を私のために使って下さって。もうどうして良いのか分からなくて。あの写真は最初に届いたんものなのです。なんで持ってきちゃったんだろ……あとは全部捨てたのに……もう何も要らないって思ったのに」

「ねえ、正直に答えて? 裕子として生きていた時と、美咲として生まれかわってから、どちらの方が心が穏やかだった?」

「楽しいとかじゃなく? 心が穏やかだったか?」

「そう。生きていれば辛いことも悲しいこともいっぱいあるわよ。もちろん楽しいこともね。どうせなら、心が穏やかな方がいいじゃない?」

「心が……」

 頭の中をぐるぐるといろいろな記憶が駆け巡る。
 父を憎み、母に怯えた子供時代。
 それでも澄子たち友人と過ごした時間は宝石のように輝いている。
 告白され、この人を信じてみようと思ったあの日。
 少しずつ愛を育んだ時間。
 結婚式で涙を流し幸せを嚙みしめた。
 
「もうこれで幸せになれるって思ったんだわ……」

 ひたすら夫のために尽くしていた毎日。
 笑いながら二人で食べる夕食。
 些細な行き違いで言い合ったこともある。
 義両親の思いやりと義弟の励まし。
 子を授かれない焦り。

 徐々に帰る時間が遅くなり、帰ってこない日が増えていく。
 悩んで澄子に縋った時に流した涙。
 隠そうともしない浮気の痕跡と、それを裏付けるように送られてくる写真。
 どんどん疲弊していく心と、噓をつき続ける夫の顔。
 そして玲子の妊娠。

「もう無理だった……もう消えてなくなりたかった」

 座ったままぽろぽろと涙を流す美咲を、志乃がしっかりと抱きしめた。
 志乃の胸に顔を埋めて美咲は話し続ける。

「あの日……」

 澄子を頼って家を出て、徒然の話を聞いた。
 藁にも縋る思いでこの屋敷を訪ねたのは、四月の半ばだったろうか。
 
「お蕎麦……澄子とお蕎麦を食べました。たぬき蕎麦……澄子はお稲荷さんも食べました」

 黙って美咲の頭を撫でながら、美咲のモノローグを聞き続ける志乃。

「徒然さん、最初は厳しい顔して……ふふふ。ちょっと怖かったです。でも言葉はとても優しくて、私のことをすごく心配してくれているのが伝わってきて、この人に頼ってもいいのかなって思いました」

 美咲が顔をあげて志乃を見上げた。

「藤の花、きれいでしたね。とても良い匂いで……あの花房が箒みたいに私の心をきれいに掃き清めてくれているような気がしました」

 美咲の頬に志乃の涙が落ちた。

「廊下を拭いていると、全部がどうでも良くなっていって……何も考えていない瞬間がとても心地よくて……あんな体験は初めてでした」

「それから?」

 志乃が先を促がした。

「それから……いつからなのかしら。私は安倍美咲になっていました。境目は良く分かりません。あんぱんを一緒に食べているだけなのに、凄く幸せだった……毎日がとても穏やかで……別荘に行きましたよね? そうだ、あの時テラスから知っている人の顔を見たんです。それで海に行って……ああ……雄二君だ。雄二君を見かけたんです。あの時は誰か思い出せなくて、すぐに徒然さんに連れ戻されて」

「雄二君?」

「ええ、そうです。孝志の弟の雄二君です。伊豆は彼の実家があるので」

「まあ! そうだったの」

 志乃は知っていたが知らなかった振りをした。

「その日のうちに徒然さんにプロポーズされて……でも、それって私がおかしな行動をしたからだったんですね……私ったら嬉し過ぎて舞い上がっちゃって。見かけた人が誰だったかなんてどうでも良くなって。でも心のどこかに棘が刺さっているような気持ちになるような日もあって。それからすぐにイタリアに行ったので、また忘れて……全部徒然さんが私の記憶が戻らないためにやってくれていたんですね」

「そうね。でもそれだけじゃないわ」

「え?」

「タイミング的にはそうだったけれど、あの子も必死だったんじゃない? あなたを失いたくなくて。あなたにプロポーズしたって私に報告した時の顔……思い出しただけで、幸せになれるわ。照れくさそうに笑ってたでしょ? あの子のあんな顔、親の私でさえ初めてみたのよ」

「そうなんですか? そうだったら……うれしいな」

 美咲はいつの間にか泣き止んでいる。
 志乃は美咲がどちらを選んでも、絶対に最後まで守ろうと心に決めた。

「時間はあるわ。大丈夫、ゆっくり考えてね」

 その頃徒然は、孝志がかき集めてきた伊豆の資料を片手に、淡々と原稿を書いていた。
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