思い出を売った女

志波 連

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約束した女

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 水差しと濡らしたタオルを持ってきた志乃が言う。

「大丈夫? どこが痛むの?」

 涙目のままの美咲がか細い声を出した。

「もう大丈夫です。頭が痛かったんですが、今は平気です」

 この状態に心当たりがある志乃が、美咲の頭を撫でながら聞いた。

「徒然さんに帰ってきてもらおうか?」

 ぶんぶんと首を振り、美咲がそれを拒否した。

「徒然さんには言わないでください。お願いします」

「……わかったわ。今はもうどこも痛くは無いのね?」

「はい。痛いところはありません」

 美咲が拳を握り、俯いたまま言った。

「少し眠りなさい。私は台所にいるから。ひとりになりたいのね? わかったわ。でもその前にひとつだけ約束してちょうだい」

 問いかけるような視線を志乃に向ける美咲。

「徒然さんとの約束を思い出して。だから絶対にここに居なさい。この屋敷から出てはダメ。それだけは約束して」

「……はい」

「うん、安心した。ゆっくりしなさいね」

 志乃が出て行き、美咲が半身を起こした。
 のろのろと立ち上がり、ゆったりしたスウェットに着替える。

「志乃さん……ありがとう」

 美咲は薄手のカーデガンを羽織り、窓辺に置いたソファーに座った。

「孝志……」

 落ちたノートを拾おうとした時、徒然が走り書きしていた『孝志』という文字が目に飛び込んできたのだ。
 そして唐突にあの写真に写っていたのが誰なのかを思い出してしまった。

「玲子さん」

 ボロボロと涙が零れ落ちる。
 しかし、不思議なほど冷静に受け止めている自分もいた。
 ここに座って涙を流している自分を、自分が上から眺めているような気分だ。
 あの時の悲しみは覚えているが、苦しみや痛みは残っていない。

「あれから何年も経ったのね……もう……ずっと昔のことなんだわ」

 窓を見ると、のりだせば手が届くほどの近くまで枝を伸ばした桜葉が色づき始めていた。
 この桜葉が人生に重なって見える。
 生まれ育ち、人生を謳歌しつつもやがて老い、そしてその役目を終えるのだ。
 中には虫に食われ、成長の過程で落ちるものもあるだろう。
 しかしその身を食い破られても残った葉もあるはずだ。

「徒然さん……わたし……」

 その日から2日ほど美咲は部屋に閉じこもっていた。
 志乃には美咲の気持ちが手に取るように分かる。
 ただ何も聞かず、美咲の好物ばかりを作って部屋に運び続けた。

「いつもすみません」

「何言ってるの。そんなこと心配しないで美味しいものを食べてゆっくりしなさいね」

「志乃さん……話を聞いていただけますか?」

「もちろんよ」

 志乃が後ろ手にドアを閉めた。
 古いバッグから孝志と玲子が写っている写真を見つけてしまったことや、徒然の書斎で走り書きされた『孝志』という文字を偶然見たことをゆっくりと話す。

「思い出しちゃったのね」

「はい、全部思い出しました」

「ここに来てからの記憶は?」

「全部覚えています」

 志乃がホッと息を吐く。

「良かったわ……私もそうだったから大丈夫とは思っていたけれど、確証は無いでしょう? 心配していたの」

「志乃さんと一緒?」

「ええ、私の話をしましょうね。良かったら台所に行かない? お茶をいただきましょうよ」

 志乃は美咲の頭を優しく撫でた。
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