31 / 58
眺める男
しおりを挟む
美咲と一緒に見た水平線を、今はひとりで眺めながら、徒然は遠い昔に父と交わした会話に思いを馳せた。
まだ学校に上がったばかりの徒然を書斎に呼び、神妙な顔で父が言ったあの日。
「お前はどこまで知っている? 母さんのことだ」
「母さんは僕を産んだ人ではない事は知っています。お母様本人から聞きました」
「そうか。それではお前を産んでくれたのは誰か知っているかい?」
「志乃さんでしょ? これもお母様が教えてくれましたよ」
「うん、ではなぜ産んでくれた人を使用人として名前を呼び、そうでない人を母と呼ぶのかはなんと言っていた?」
「体が弱くて跡継ぎが産めないから、健康な志乃さんに頼んだのだと聞きました」
「まあ大筋では間違っていないが、大事なことが抜けている」
そして父は年端も行かない子供の徒然に、母と呼んでいる女性との関係や、彼女が抱えている病について話した。
「お母様は精神を病んでいるの?」
「そうだ。幼いころからずっと病弱だった上に、両親を一度に亡くしてね。心が弱り切っていたところに、相続問題も重なって、とても辛い思いをしていたんだ。私と小夜子は親が決めた許嫁だったから、助けてやれるのは私しかいなかった」
「それでお母様と結婚を?」
「ああ。でも小夜子はそれを気に病んでね。どんどん現実から逃れていったんだよ。目を離すと死のうとする。だから私は小夜子に催眠術をかけた」
「催眠術ですか?」
「そうだ。ここにいて当然の人間なのだと思い込ませたんだ。でも催眠術というのはほんの数日しか効果は続かない。いや、続けるようにもできるけれど、本人への負担が大き過ぎる。だから断続的にかけ続けるしかないんだ」
「お母様が時々ひどく泣いておられるのは、術が解けている時ということですか?」
「そうだ。術の効果が切れたら発作のようなものが起きる。このところどんどん頻繫になっているだろう?」
「……」
「もう効かなくなっているのだと思う。そして体の方もどんどん悪くなっている」
「それは……」
「覚悟した方がいい。もってあとひと月だと医者も言っていた」
「……わかりました」
「それともうひとつ。私が愛した女はお前を産んだ志乃だけだ。そして志乃は私の研究の集大成でもある」
ずっと研究してきた記憶領域への介入や、その術を志乃に施すことになった経緯など、およそ子供に聞かせるような話ではない内容だった。
その長い話の中で、父は何度も『志乃だけを愛している』という言葉を口にする。
愛した女を妻にできないという後悔を、子供心にもヒシヒシと感じ、これほど辛いなら自分は生涯妻帯はしないでおこうと漠然と思ったものだ。
「それがどうだ? 同じ女に二度も求婚し、彼女を救うためにここまで奔走しているとは」
自分の変わりように驚くというより呆れてしまう。
それと同時に『愛』というものに限りない興味を覚えるのだった。
「困ったな、もう美咲に会いたい」
最早それは衝動とも言うべき渇望だろう。
それにしても明日だ。
もし山﨑孝志が『裕子』に会わせろと言ったら?
「答えはNOだ」
しかし『NO』と返答することは、美咲を裕子だと認めることになってしまう。
「他人の空似で押し通すか?」
編集長という男はどこまで事情を知っているのだろうか。
「もしもの時は、どんな手を使ってでも叩き潰すしかないな」
ふと徒然の頭に不穏な単語が浮かんだ。
「窮鼠猫を嚙むか……さてさて、どちらがネズミでどちらが猫やら」
もう真っ暗になった海に、光の粒が浮かんでいる。
「こんなに荒れていても出るんだな」
船籍も何も分からないその船に、航海の無事を祈らずにはいられない徒然だった。
まだ学校に上がったばかりの徒然を書斎に呼び、神妙な顔で父が言ったあの日。
「お前はどこまで知っている? 母さんのことだ」
「母さんは僕を産んだ人ではない事は知っています。お母様本人から聞きました」
「そうか。それではお前を産んでくれたのは誰か知っているかい?」
「志乃さんでしょ? これもお母様が教えてくれましたよ」
「うん、ではなぜ産んでくれた人を使用人として名前を呼び、そうでない人を母と呼ぶのかはなんと言っていた?」
「体が弱くて跡継ぎが産めないから、健康な志乃さんに頼んだのだと聞きました」
「まあ大筋では間違っていないが、大事なことが抜けている」
そして父は年端も行かない子供の徒然に、母と呼んでいる女性との関係や、彼女が抱えている病について話した。
「お母様は精神を病んでいるの?」
「そうだ。幼いころからずっと病弱だった上に、両親を一度に亡くしてね。心が弱り切っていたところに、相続問題も重なって、とても辛い思いをしていたんだ。私と小夜子は親が決めた許嫁だったから、助けてやれるのは私しかいなかった」
「それでお母様と結婚を?」
「ああ。でも小夜子はそれを気に病んでね。どんどん現実から逃れていったんだよ。目を離すと死のうとする。だから私は小夜子に催眠術をかけた」
「催眠術ですか?」
「そうだ。ここにいて当然の人間なのだと思い込ませたんだ。でも催眠術というのはほんの数日しか効果は続かない。いや、続けるようにもできるけれど、本人への負担が大き過ぎる。だから断続的にかけ続けるしかないんだ」
「お母様が時々ひどく泣いておられるのは、術が解けている時ということですか?」
「そうだ。術の効果が切れたら発作のようなものが起きる。このところどんどん頻繫になっているだろう?」
「……」
「もう効かなくなっているのだと思う。そして体の方もどんどん悪くなっている」
「それは……」
「覚悟した方がいい。もってあとひと月だと医者も言っていた」
「……わかりました」
「それともうひとつ。私が愛した女はお前を産んだ志乃だけだ。そして志乃は私の研究の集大成でもある」
ずっと研究してきた記憶領域への介入や、その術を志乃に施すことになった経緯など、およそ子供に聞かせるような話ではない内容だった。
その長い話の中で、父は何度も『志乃だけを愛している』という言葉を口にする。
愛した女を妻にできないという後悔を、子供心にもヒシヒシと感じ、これほど辛いなら自分は生涯妻帯はしないでおこうと漠然と思ったものだ。
「それがどうだ? 同じ女に二度も求婚し、彼女を救うためにここまで奔走しているとは」
自分の変わりように驚くというより呆れてしまう。
それと同時に『愛』というものに限りない興味を覚えるのだった。
「困ったな、もう美咲に会いたい」
最早それは衝動とも言うべき渇望だろう。
それにしても明日だ。
もし山﨑孝志が『裕子』に会わせろと言ったら?
「答えはNOだ」
しかし『NO』と返答することは、美咲を裕子だと認めることになってしまう。
「他人の空似で押し通すか?」
編集長という男はどこまで事情を知っているのだろうか。
「もしもの時は、どんな手を使ってでも叩き潰すしかないな」
ふと徒然の頭に不穏な単語が浮かんだ。
「窮鼠猫を嚙むか……さてさて、どちらがネズミでどちらが猫やら」
もう真っ暗になった海に、光の粒が浮かんでいる。
「こんなに荒れていても出るんだな」
船籍も何も分からないその船に、航海の無事を祈らずにはいられない徒然だった。
372
お気に入りに追加
762
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
わたしは不要だと、仰いましたね
ごろごろみかん。
恋愛
十七年、全てを擲って国民のため、国のために尽くしてきた。何ができるか、何が出来ないか。出来ないものを実現させるためにはどうすればいいのか。
試行錯誤しながらも政治に生きた彼女に突きつけられたのは「王太子妃に相応しくない」という婚約破棄の宣言だった。わたしに足りないものは何だったのだろう?
国のために全てを差し出した彼女に残されたものは何も無い。それなら、生きている意味も──
生きるよすがを失った彼女に声をかけたのは、悪名高い公爵子息。
「きみ、このままでいいの?このまま捨てられて終わりなんて、悔しくない?」
もちろん悔しい。
だけどそれ以上に、裏切られたショックの方が大きい。愛がなくても、信頼はあると思っていた。
「きみに足りないものを教えてあげようか」
男は笑った。
☆
国を変えたい、という気持ちは変わらない。
王太子妃の椅子が使えないのであれば、実力行使するしか──ありませんよね。
*以前掲載していたもののリメイク
消された過去と消えた宝石
志波 連
ミステリー
大富豪斎藤雅也のコレクション、ピンクダイヤモンドのペンダント『女神の涙』が消えた。
刑事伊藤大吉と藤田建造は、現場検証を行うが手掛かりは出てこなかった。
後妻の小夜子は、心臓病により車椅子生活となった当主をよく支え、二人の仲は良い。
宝石コレクションの隠し場所は使用人たちも知らず、知っているのは当主と妻の小夜子だけ。
しかし夫の体を慮った妻は、この一年一度も外出をしていない事は確認できている。
しかも事件当日の朝、日課だったコレクションの確認を行った雅也によって、宝石はあったと証言されている。
最後の確認から盗難までの間に人の出入りは無く、使用人たちも徹底的に調べられたが何も出てこない。
消えた宝石はどこに?
手掛かりを掴めないまま街を彷徨っていた伊藤刑事は、偶然立ち寄った画廊で衝撃的な事実を発見し、斬新な仮説を立てる。
他サイトにも掲載しています。
R15は保険です。
表紙は写真ACの作品を使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる