思い出を売った女

志波 連

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訪ねてきた男

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 その夜、美咲がぐっすりと眠ったことを確認した志乃が、徒然の書斎を訪れた。
 思い当たる可能性と、ほんの些細な会話の中で抱いた懸念を志乃に話す徒然。

「なるほど、予想外でしたね。子供とはね……そんなに似てるのかしら」

「子供はノーマークだったから顔は分からないんだ」

「男の子でしたっけ?」

「うん、かずとっていう名前だよ」

「まったく……神様の悪戯かしら」

「ははは……だとしたら私は神に見放されてるってことだね。イタリアに行ったら聖堂巡りでもしてみようかな」

「来週からイタリアね。二週間でした?」

「そう、二週間の予定だよ。それで相談なんだけれど、美咲も連れて行こうかと思うんだ。今は私の側から離さない方が良い」

「そうね、今の状態で何か不測の事態が起こったとしたら、私では対処できないもの。でも美咲のパスポートは無いわよ?」

「そこは伝手があるから。明日の朝一番で戸籍謄本と住民票を取ってきてくれないか? 運転免許証は失効したままだから、健康保険証と年金手帳が必要だ」

「わかりました」

「申請書は私が準備するから」

「イタリアかぁ……遠いわねぇ」

「そうだね、直行便で13時間くらいかな。ニューヨークに行くのと同じくらいだよ」

「半日以上もずっと座ってなくちゃいけないの?」

 徒然は肩を竦めて笑ってみせた。
 チケットもホテルも無理を言うことになるが、何とかなるだろう。
 もし駄目なら出発日を遅らせても良い。
 とにかく美咲から目を話すのだけは絶対に避けなくてはいけない。
 
 伝手を使って美咲のパスポートを3日で用意した徒然は、戸惑う美咲を言いくるめるようにして、編集者と共に2人はイタリアへと飛び立った。

 1人で留守番をしている志乃は、いい機会だからと庭師を呼んで手を入れさせることにした。
 出入りの庭師は先々代からの付き合いだ。
 あの時に連れてきた丁稚が、今では親方と呼ばれるまでになっている。
 志乃は縁側に座って流れるような職人の仕事を眺めていた。
 
「どなたかお出でになってますよ」

 切った枝を軽トラックに運んでいた若い職人が志乃に声を掛けた。

「あら、お客様? ありがとう」

 来客の予定があっただろうかと考えながら玄関に向かう。

「いらっしゃいませ」

「あっ……お忙しいところ申し訳ございません。私はこういうものです」

 2人のうち、年配の方の男が名刺を差し出した。

「伊豆タウンマガジン?」

「はい、伊豆でタウン誌を発行している会社です。私は編集長の山中、こちらは営業担当の山﨑です」

 志乃の眉がぴくっと揺れた。
 山崎と紹介された男が、恭しく名刺を差し出してくる。

「伊豆タウンマガジンの営業を担当しております山﨑孝志と申します」

 志乃がひゅっと息をのんだ。

「どういったご用件でしょうか。本田先生は出張中ですが」

 男たちは顔を見合わせた。
 営業の山﨑が口を開く。

「先日、地元の海岸で先生をお見掛けしたものですから、もしよろしければ短いエッセイでもお願いできないかと思いましてお伺いした次第です」

 志乃は名刺を握り潰さないようにポケットに入れてから声を出す。

「私は家政婦ですので、先生のお仕事のことは分かりかねます。遠いところから来ていただいたのに申し訳ございません。お名刺は先生にお渡ししておきますし、ご用件も伝えておきますが、ご連絡は来月になると存じます」

「そうですか。こちらがアポ無しで来たのがいけません。ちょうど東京で別件があったものですから、ダメ元でお伺いしてしまいました。またご連絡をいたします。どうぞ先生によろしくお伝えください」

 二人は深々と頭を下げて出て行った。
 志乃はよろよろと台所に向かい、ペタンと座り込む。

「来た……来てしまった……」

 ゆっくりと立ち上がり冷蔵庫を開けて、冷やしていた麦茶を出した。
 
「落ち着かなくちゃ。絶対に大丈夫だもの」

 志乃は神妙な顔で控えていた山﨑孝志と名乗った男の顔を思い出す。

「私が守らなくては……」

 志乃は湯吞の麦茶を煽るように一気に飲み干した。
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