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叫ぶ女
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最初に通された座敷に戻ると、見計らったようにお茶が運ばれてくる。
ゆっくりと飲み干してから、松延が口を開いた。
「私は人間の記憶領域について研究している者でね、もしかしたら君のその辛い記憶を消してあげることができるんじゃないかと思うんだ」
催眠療法で医療行為ではないことや、消す記憶は選べないので、実行するなら全ての思い出を失うことなどを、実に淡々と話す松延。
「どう? やってみる価値はあると思うよ。絶対に死ぬよりは良い」
「でも私は何も持たない出奔者です。お礼のしようがございません」
「お礼なんて要らないさ。はっきり言ってしまえば、私の研究成果を試させてほしいんだよ。もし失敗しても君の体や精神が傷つくことは無いから安心しなさい。やるにしてもやらないにしても、君はここに住めばよい。お手伝いさんとして働くなら遠慮も無いだろう?」
会ったばかりの自分に、どうしてここまでしてくれるのかと聞いた。
「人であることを放棄した人間を初めて見たから。興味が湧いたと言えば納得してくれる?」
同情や憐憫ではなく、自分の興味を満たすためだと言い切った松延を幸子は素直に信じることができた。
「お願いします。もう何も……本当にもう何も要らないんです」
「わかった。では明日から始めよう」
そう言うとパンパンと手を打って書生を呼び、部屋に案内するよう指示をする。
深くお辞儀をして廊下に出た幸子を呼び止め、先ほどの少年は庭師の親方に預けたよと言い、心から安心できるような笑顔を向けた。
翌日から治験が始まり、藤棚の前で揺れる花を見ながら、生まれてからの記憶の全てを曝けだしていく日々が始まった。
羞恥でどうにかなりそうなほどの経験さえも、松延の前でなら言える。
「きっと辛いことが溜まりすぎて決壊したんだ。一度溢れだすと次々にまろび出るものさ。それでいいんだよ。それが当たり前なんだから」
まるで母の子宮に戻ったような安心感に包まれて、幸子は心の澱を吐き出していった。
「閨に来いと呼ばれて、拒むと酷い折檻をうけます。覚悟を決めて行きますと、夫と妾の破廉恥な営みを見せつけられるのです。終わった後、今度は3人でと言われたときには、その場で吐いてしまいました」
「そう……なんと言うか、とんでもないね」
「気が向くと2人に殴る蹴るの暴行を受けます。やっと終わって這うようにして自室に戻ると、仕入れ先の旦那衆が待っていたこともあります。何をされたわけでも無いのですが、気付くと朝ということが多く、その間の記憶は無いのです」
「怖い話だ」
1枚ずつ筍の皮をぬぎ捨てるように、口に出すと忘れたような気になっていく。
数日かけて、やっとあの歌舞伎座に行ったところまで話し終えた。
「君の名前は?」
そう言えば、ここに来てから誰も私の名を呼んでいないことに気付く。
ふと見ると、規則正しく左右に揺れる藤の花が早く早くと急き立てる。
「名前? 私の名前は……」
「君の名前は安倍志乃だよ」
ああそうだった、なぜ忘れていたのだろう。
私の名前は『安倍志乃』だ。
松延の妻とも仲良くなり、志乃は本田家の家政婦として3年の月日が流れた。
そんなある日、妻の小夜子に呼ばれ、思いもかけない願いを伝えられる。
「あのね志乃さん、お願いがあるの。私の代わりに松延の子を産んでくれないかしら」
「何を仰っているのですか」
「本気よ? 本気で頼んでいるの。彼は天才よ。彼の血は子々孫々まで伝えなくてはいけないの。私の命と引き換えにできるのなら喜んで産むわ。でももう何年も月の物が無くてどうしようもないの。お願いよ……志乃さん。考えてみてくれない?」
「奥様……」
今日は体調が良いのだろうか。
それとも覚悟を決めているのか。
小夜子が怖いくらい強い視線を向けてくる。
「私と松延さんはね、幼馴染なの。ずっと幼いころからの許嫁で、結核を患って妻の務めも果たせなくなった私を、約束通り娶ってくれた優しい人よ。私では跡継ぎを産めないから離縁してくれって言っても頷かないの。本田家は自分の代で終わっても構わないって……」
志乃は何も言えないでいた。
「そんなあの人が初めてこの家の敷居を跨がせたのがあなたなの。きっとあなたのことが気に入ったのだと思うわ。私が生きている間なら、私の子として本田家に入籍します。もし私が死んだ後なら、あなたが松延の後妻として入ればいいわ」
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
急な頭痛に襲われた志乃の叫び声に、松延が慌てて駆け付けた。
頭を押さえてのたうち回る志乃を見て、状況を察した松延が小夜子に言った。
「どうやら戻ってしまったみたいだ。当分の間は休養させるから、君はもう休みなさい」
「あなた……ごめんなさい。私……」
「いや、君の気持ちは理解できるさ。でもね、事を急いでは良い成果は得られないんだよ」
「はい……」
志乃を抱き上げた松延が部屋を後にすると、小夜子は顔を覆って泣き出した。
「ごめんなさい幸子さん……いえ、志乃さん」
3年という長い努力が無駄になり、志乃は自分の過去を思い出した。
ゆっくりと飲み干してから、松延が口を開いた。
「私は人間の記憶領域について研究している者でね、もしかしたら君のその辛い記憶を消してあげることができるんじゃないかと思うんだ」
催眠療法で医療行為ではないことや、消す記憶は選べないので、実行するなら全ての思い出を失うことなどを、実に淡々と話す松延。
「どう? やってみる価値はあると思うよ。絶対に死ぬよりは良い」
「でも私は何も持たない出奔者です。お礼のしようがございません」
「お礼なんて要らないさ。はっきり言ってしまえば、私の研究成果を試させてほしいんだよ。もし失敗しても君の体や精神が傷つくことは無いから安心しなさい。やるにしてもやらないにしても、君はここに住めばよい。お手伝いさんとして働くなら遠慮も無いだろう?」
会ったばかりの自分に、どうしてここまでしてくれるのかと聞いた。
「人であることを放棄した人間を初めて見たから。興味が湧いたと言えば納得してくれる?」
同情や憐憫ではなく、自分の興味を満たすためだと言い切った松延を幸子は素直に信じることができた。
「お願いします。もう何も……本当にもう何も要らないんです」
「わかった。では明日から始めよう」
そう言うとパンパンと手を打って書生を呼び、部屋に案内するよう指示をする。
深くお辞儀をして廊下に出た幸子を呼び止め、先ほどの少年は庭師の親方に預けたよと言い、心から安心できるような笑顔を向けた。
翌日から治験が始まり、藤棚の前で揺れる花を見ながら、生まれてからの記憶の全てを曝けだしていく日々が始まった。
羞恥でどうにかなりそうなほどの経験さえも、松延の前でなら言える。
「きっと辛いことが溜まりすぎて決壊したんだ。一度溢れだすと次々にまろび出るものさ。それでいいんだよ。それが当たり前なんだから」
まるで母の子宮に戻ったような安心感に包まれて、幸子は心の澱を吐き出していった。
「閨に来いと呼ばれて、拒むと酷い折檻をうけます。覚悟を決めて行きますと、夫と妾の破廉恥な営みを見せつけられるのです。終わった後、今度は3人でと言われたときには、その場で吐いてしまいました」
「そう……なんと言うか、とんでもないね」
「気が向くと2人に殴る蹴るの暴行を受けます。やっと終わって這うようにして自室に戻ると、仕入れ先の旦那衆が待っていたこともあります。何をされたわけでも無いのですが、気付くと朝ということが多く、その間の記憶は無いのです」
「怖い話だ」
1枚ずつ筍の皮をぬぎ捨てるように、口に出すと忘れたような気になっていく。
数日かけて、やっとあの歌舞伎座に行ったところまで話し終えた。
「君の名前は?」
そう言えば、ここに来てから誰も私の名を呼んでいないことに気付く。
ふと見ると、規則正しく左右に揺れる藤の花が早く早くと急き立てる。
「名前? 私の名前は……」
「君の名前は安倍志乃だよ」
ああそうだった、なぜ忘れていたのだろう。
私の名前は『安倍志乃』だ。
松延の妻とも仲良くなり、志乃は本田家の家政婦として3年の月日が流れた。
そんなある日、妻の小夜子に呼ばれ、思いもかけない願いを伝えられる。
「あのね志乃さん、お願いがあるの。私の代わりに松延の子を産んでくれないかしら」
「何を仰っているのですか」
「本気よ? 本気で頼んでいるの。彼は天才よ。彼の血は子々孫々まで伝えなくてはいけないの。私の命と引き換えにできるのなら喜んで産むわ。でももう何年も月の物が無くてどうしようもないの。お願いよ……志乃さん。考えてみてくれない?」
「奥様……」
今日は体調が良いのだろうか。
それとも覚悟を決めているのか。
小夜子が怖いくらい強い視線を向けてくる。
「私と松延さんはね、幼馴染なの。ずっと幼いころからの許嫁で、結核を患って妻の務めも果たせなくなった私を、約束通り娶ってくれた優しい人よ。私では跡継ぎを産めないから離縁してくれって言っても頷かないの。本田家は自分の代で終わっても構わないって……」
志乃は何も言えないでいた。
「そんなあの人が初めてこの家の敷居を跨がせたのがあなたなの。きっとあなたのことが気に入ったのだと思うわ。私が生きている間なら、私の子として本田家に入籍します。もし私が死んだ後なら、あなたが松延の後妻として入ればいいわ」
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
急な頭痛に襲われた志乃の叫び声に、松延が慌てて駆け付けた。
頭を押さえてのたうち回る志乃を見て、状況を察した松延が小夜子に言った。
「どうやら戻ってしまったみたいだ。当分の間は休養させるから、君はもう休みなさい」
「あなた……ごめんなさい。私……」
「いや、君の気持ちは理解できるさ。でもね、事を急いでは良い成果は得られないんだよ」
「はい……」
志乃を抱き上げた松延が部屋を後にすると、小夜子は顔を覆って泣き出した。
「ごめんなさい幸子さん……いえ、志乃さん」
3年という長い努力が無駄になり、志乃は自分の過去を思い出した。
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