24 / 58
最初の女
しおりを挟む
志乃は記憶を消す前『幸子』という名前だった。
実家は銀座に店を構える呉服屋で、当主の次女として生を受けている。
女ばかりの4人姉妹で、長女が婿を取って家を継ぐことは幼いころから決められていた。
三女は奔放な性格で、大学をでてすぐに駆け落ち同然で家を出てしまう。
末っ子の四女は人見知りで、いつまでたっても母から離れないような子だった。
父が決めた相手との結婚を、戸惑いながらも受け入れた幸子だったが、その相手がとんでもない男だった。
実権を握っていた義父が亡くなると、病身の義母を施設に入れて、結婚前から囲っていた女を家に入れた夫。
妻妾同居は嫌だと泣く妻に、容赦なく拳を振るい幸子は右耳の聴力を失った。
店の仕事は番頭に任せ、昼間から愛人と庭に面した座敷で痴態を繰り広げる。
まるで自分の方が立場が上だと言わんばかりに、裸で抱き合ったまま正妻に酒を持ってこさせる愛人と、それを咎めようともしない夫。
番頭に言われるがまま店頭で客を迎える幸子の心は、どんどん疲弊していった。
里帰りは許されず、出掛けるにしても必ず丁稚がついてくる。
店の宣伝のために贅を尽くした着物を纏い、使用人を連れて歩く幸子の姿に、友人たちは賞賛の声を上げつつも、隠しきれない妬みを浮かべる。
誰にも相談さえできない。
夫との閨を拒む幸子が懐妊などするはずもなく、従業員にも『石女』と陰口をたたかれ、店での立場も悪くなる一方だった。
顧客に誘われて出掛けた歌舞伎座からの帰り、その日もついてきていた丁稚に小銭を握らせて老舗和菓子店の最中を買いに走らせた。
そのまま皇居の濠に身を投げるつもりだったが、思いのほか早く丁稚が戻ってきてしまう。
顔中に汗をかき、焦った表情を浮かべる丁稚の懐に、幸子は自分の財布を差し込んだ。
「あんた、このまま帰ったら酷い目に遭うかもしれない。それが嫌ならこのままお逃げ」
ふらふらと歩き始めた幸子の後を、泣きそうな顔でついてくる。
まだ幼い顔立ちのこの子が、自分の我儘で折檻されるかもしれないと思うと、申し訳なさで胸が押しつぶされそうになった。
それでももう戻りたくない。
あの地獄に戻るくらいなら死んでしまいたい。
思いを定めて濠端の柵に手をかけた幸子を引き止めたのが、徒然の父である本田松延だった。
「危ないよ。死ぬには早い。それに心の内を全部吐き出してからじゃないと浮かばれないぜ」
松延の声が幸子の疲弊した心を揺さぶる。
懐かしいような気分にさせるその声に、幸子は全てをぶちまけていた。
「そりゃきついね。ひどい仕打ちだ」
「もう全部終わらせたいのです。後生ですから死なせてください」
「ご実家には頼れないの?」
「実家は……姉の代になって傾いてしまって。うちの店に借金をしているような状態です」
「そうか、それじゃあきっと頼っていっても戻されてしまうね」
「ですから!」
「いや、止めた方がいい。そうだ、私と一緒においで。助けてあげられるかもしれない」
「でも……」
「この子も一緒に引き取ろう。そうすれば君も安心だろう? 死ぬほどの決心をしたんだもの。何を怖がる必要がある?」
導かれるように幸子は松延の手を取った。
本田松園はタクシーを拾って、後部座席に二人を押し込み、自分は助手席に座る。
走り出したタクシーのシートに身を沈め、幸子はボロボロと涙を溢した。
到着したのは千鳥ヶ淵の手前を左に入った閑静な住宅地で、大きな門のある日本家屋。
書生らしき若い男衆が出迎えた。
本田松園と名乗ったその男性は『先生』と呼ばれているようだ。
「家族は家内だけだが、あと4人ほど住んでいる。部屋は余っているから遠慮なく使うといいよ。さあ君はこちらにおいで」
そう言うと玄関に幸子を残して、丁稚の少年を連れて庭の方に行ってしまった。
「どうぞ、こちらへ」
自分の母親くらいの年齢の女性が、真っ白な割烹着で志乃に声を掛けてきた。
言われるがまま通された座敷は、立派な日本庭園に面しており、優雅にたなびく藤の花房が印象的だ。
「先生もすぐに来られます。どうぞゆっくりなさってくださいませ」
放心状態で藤の花を見ていたら後ろから声がかかり、一気に現実に戻された。
「家内を紹介しておこう。彼女は体が弱くてね、ほとんど床に臥せっているんだ」
そう言うと幸子の手を取って立たせ、離れに続く渡り廊下へと導いた。
大きな桜木が縁側に木陰を作り、病人にとっては居心地の良い風を吹かせている。
「小夜子、入るよ。お客さんだ」
松延に続いて入室すると、青白い顔色の女性が儚げな微笑みで出迎えた。
「いらっしゃいませ。こんななりで申し訳ありません」
幸子は慌てて名乗り、死のうとしていたところを松延に助けてもらったのだと言った。
「そうですか、どうぞごゆっくり滞在なさってくださいね」
半身を起こしているのも辛いのか、小夜子と呼ばれたその女性は小さく咳き込んだ。
「今日は随分顔色がいいよ。でも無理はいけない。もう横になりなさい」
松延に促がされ退出すると、廊下に控えていた書生が音を立てずに障子を閉めた。
実家は銀座に店を構える呉服屋で、当主の次女として生を受けている。
女ばかりの4人姉妹で、長女が婿を取って家を継ぐことは幼いころから決められていた。
三女は奔放な性格で、大学をでてすぐに駆け落ち同然で家を出てしまう。
末っ子の四女は人見知りで、いつまでたっても母から離れないような子だった。
父が決めた相手との結婚を、戸惑いながらも受け入れた幸子だったが、その相手がとんでもない男だった。
実権を握っていた義父が亡くなると、病身の義母を施設に入れて、結婚前から囲っていた女を家に入れた夫。
妻妾同居は嫌だと泣く妻に、容赦なく拳を振るい幸子は右耳の聴力を失った。
店の仕事は番頭に任せ、昼間から愛人と庭に面した座敷で痴態を繰り広げる。
まるで自分の方が立場が上だと言わんばかりに、裸で抱き合ったまま正妻に酒を持ってこさせる愛人と、それを咎めようともしない夫。
番頭に言われるがまま店頭で客を迎える幸子の心は、どんどん疲弊していった。
里帰りは許されず、出掛けるにしても必ず丁稚がついてくる。
店の宣伝のために贅を尽くした着物を纏い、使用人を連れて歩く幸子の姿に、友人たちは賞賛の声を上げつつも、隠しきれない妬みを浮かべる。
誰にも相談さえできない。
夫との閨を拒む幸子が懐妊などするはずもなく、従業員にも『石女』と陰口をたたかれ、店での立場も悪くなる一方だった。
顧客に誘われて出掛けた歌舞伎座からの帰り、その日もついてきていた丁稚に小銭を握らせて老舗和菓子店の最中を買いに走らせた。
そのまま皇居の濠に身を投げるつもりだったが、思いのほか早く丁稚が戻ってきてしまう。
顔中に汗をかき、焦った表情を浮かべる丁稚の懐に、幸子は自分の財布を差し込んだ。
「あんた、このまま帰ったら酷い目に遭うかもしれない。それが嫌ならこのままお逃げ」
ふらふらと歩き始めた幸子の後を、泣きそうな顔でついてくる。
まだ幼い顔立ちのこの子が、自分の我儘で折檻されるかもしれないと思うと、申し訳なさで胸が押しつぶされそうになった。
それでももう戻りたくない。
あの地獄に戻るくらいなら死んでしまいたい。
思いを定めて濠端の柵に手をかけた幸子を引き止めたのが、徒然の父である本田松延だった。
「危ないよ。死ぬには早い。それに心の内を全部吐き出してからじゃないと浮かばれないぜ」
松延の声が幸子の疲弊した心を揺さぶる。
懐かしいような気分にさせるその声に、幸子は全てをぶちまけていた。
「そりゃきついね。ひどい仕打ちだ」
「もう全部終わらせたいのです。後生ですから死なせてください」
「ご実家には頼れないの?」
「実家は……姉の代になって傾いてしまって。うちの店に借金をしているような状態です」
「そうか、それじゃあきっと頼っていっても戻されてしまうね」
「ですから!」
「いや、止めた方がいい。そうだ、私と一緒においで。助けてあげられるかもしれない」
「でも……」
「この子も一緒に引き取ろう。そうすれば君も安心だろう? 死ぬほどの決心をしたんだもの。何を怖がる必要がある?」
導かれるように幸子は松延の手を取った。
本田松園はタクシーを拾って、後部座席に二人を押し込み、自分は助手席に座る。
走り出したタクシーのシートに身を沈め、幸子はボロボロと涙を溢した。
到着したのは千鳥ヶ淵の手前を左に入った閑静な住宅地で、大きな門のある日本家屋。
書生らしき若い男衆が出迎えた。
本田松園と名乗ったその男性は『先生』と呼ばれているようだ。
「家族は家内だけだが、あと4人ほど住んでいる。部屋は余っているから遠慮なく使うといいよ。さあ君はこちらにおいで」
そう言うと玄関に幸子を残して、丁稚の少年を連れて庭の方に行ってしまった。
「どうぞ、こちらへ」
自分の母親くらいの年齢の女性が、真っ白な割烹着で志乃に声を掛けてきた。
言われるがまま通された座敷は、立派な日本庭園に面しており、優雅にたなびく藤の花房が印象的だ。
「先生もすぐに来られます。どうぞゆっくりなさってくださいませ」
放心状態で藤の花を見ていたら後ろから声がかかり、一気に現実に戻された。
「家内を紹介しておこう。彼女は体が弱くてね、ほとんど床に臥せっているんだ」
そう言うと幸子の手を取って立たせ、離れに続く渡り廊下へと導いた。
大きな桜木が縁側に木陰を作り、病人にとっては居心地の良い風を吹かせている。
「小夜子、入るよ。お客さんだ」
松延に続いて入室すると、青白い顔色の女性が儚げな微笑みで出迎えた。
「いらっしゃいませ。こんななりで申し訳ありません」
幸子は慌てて名乗り、死のうとしていたところを松延に助けてもらったのだと言った。
「そうですか、どうぞごゆっくり滞在なさってくださいね」
半身を起こしているのも辛いのか、小夜子と呼ばれたその女性は小さく咳き込んだ。
「今日は随分顔色がいいよ。でも無理はいけない。もう横になりなさい」
松延に促がされ退出すると、廊下に控えていた書生が音を立てずに障子を閉めた。
352
お気に入りに追加
761
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる