思い出を売った女

志波 連

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動きだす男

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 裕子が完全に安倍美咲となるまでにかかった時間は約1年。
 それは孝志と玲子の地獄のような暮らしと同時進行の1年だった。

 裏切られ傷ついた裕子と、裏切り傷つけた孝志の明暗。
 まさに天国と地獄。

 玲子と別れ実家に戻った孝志は、それでも裕子を探し続けていたが、何の手掛かりも見つけられずにいた。
 裕子と仲の良かった友人を思い出し、家に訪ねていったこともある。

「どちら様ですか?」

「えっと……三谷澄子さんですよね? 急にお邪魔してすみません。僕は裕子の夫の山﨑孝志ともうします。何度かお会いしたことがあるのですが、覚えておられませんか?」

「裕子の? お会いしましたっけ?」

「ええ、ここにも送ってきたことがありますよ。引っ越しをされてなくて助かりました」

「それで? どうされたのですか?」

「裕子が……出て行ってしまって……こちらに連絡とかしてこなかったでしょうか」

「裕子が? いえ、ありませんよ。いつ頃ですか?」

「それが……もう1年前になります」

「まあ! 1年も? ああ、だったら連絡がつかなかったのかもしれませんね。ストーカーに電話番号を知られてしまって変えたのが、丁度その頃です。裕子には知らせてなかったかな? あれ? どうだっけ」

 澄子のとぼけた答えに孝志はイラついた。

「仲が良かったと記憶しているのですが」

「ええ、良かったですよ? でも私も仕事が忙しくなっていましたし、2年前くらいから裕子からの連絡が来なくなっていましたし」

 2年前と言えば玲子と関係を持ち始めたころだ。
 孝志は唇を嚙むしかなかった。

「わかりました。もし連絡があったら私が会いたがっていると伝えていただけませんか?」

「ええ、伝えましょう。連絡するかどうかは本人が決めるでしょうし」

「……よろしくお願いします」

 それからも何度か訪れたが、何回目かに手狭になったので引っ越すと言われてしまった。
 新しい住所は教えてもらえず、孝志は唯一の手掛かりを失ってしまう。

 それでも日々成長していく息子の事を考えなくてはならない。
 遂に孝志は地元で就職先を探し始める。
 実家に戻った孝志が、やっと動き出すまでにかかった時間は3か月だった。
 
 子育て優先という条件に合いそうな企業へ履歴書を送り、面接を受けること数社。
 それなりの学歴を持ち、それなりの会社に勤めていた孝志に、どの会社の面接官も同じ質問をした。

「こんな大企業にいらっしゃったのに、退職されて実家に戻られたのですか?」

 何か問題を起こしたと疑っているのだ。
 起こしたと言えば、起こしたのだが……

「妻と離婚しまして、子供を引き取ったのですが働きながら育てるには限界がありました。残業も多く、休日も出勤するような部署でしたから、仕方なく退職を選びました」

「なるほど、それでご実家に」

「はい、両親には苦労を掛けてしまいますが、子供のことを最優先したいと考えました。御社はひとり親に柔軟な対応をしていただけけると聞き、履歴書をお送りした次第です」

「確かにわが社は『ひとり親』への優遇を実践しています。ただそれは女性の場合を想定していまして……」

「職種は問いません。ご一考いただけませんか」

「……追ってご連絡いたします」

 今回もダメだろうと孝志は思った。
 ひとり親家庭といえば平等に聞こえるが、一昔前の言葉でいえば母子家庭のことだ。
 父親しかいない家庭だってたくさんあるのに、社会の制度も認識も追いついていない。
 耳ざわりの良い言葉だけが一人歩きして、実際には母子家庭より父子家庭の方がよっぽど子育てが難しいという現実は置き去りだ。

「まあ、うちはばあちゃんがいるからまだマシだけどな」

 しかし年老いた両親にばかり頼る訳にもいかないのはわかっている。

「現実は厳しいよな……仕事なんて何だっていいのに」

 浮気なんかせず、あのまま裕子と暮らしていたらどれほど幸せだっただろうか。
 それとも愛していないとはいえ、かずとの母親である玲子がまともな人間だったら、それなりに暮らしていたのだろうか。

 何度後悔しても、取り戻せるものは何もない。
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