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沈む女
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「リハビリだからって頑張りすぎちゃだめだよ? 少し座ろうか」
本田が裕子の肩を抱き、一定のリズムを背中に刻み始める。
「私はずっと旅行に出ていたからすぐに帰れなくてごめんね。君がここに戻って来ていることは志乃さんから聞いていたけれど、どうしても仕事が終わらなくてね」
裕子は何かを言わなければと焦った。
そう言えば、ここにきて何日が経ったのだろうか。
いつ? 誰と? どうやって?
この家にはカレンダーもテレビもない。
もう長いこと誰にも名前を呼ばれていない気がする。
「友達と……」
「友達? 誰だい?」
「え?」
もしかしたら自分の方がおかしいのだろうか……そんな思いが頭をよぎる。
「酷い怪我……」
本田が悲しそうな顔をした。
「まだ全部は思い出せないんだね。焦ることは無いから、ゆっくり療養しなさい」
急に耳の奥で潮騒の音が聞こえてきた。
眠りにつく前に聞こえるのと同じあの音だ。
寄せては返す波が数万年の時をかけて磨き上げた砂が奏でるその音は、まるで藤の花が風と遊ぶ時の音のようだ。
「藤の花……」
本田が裕子にゆっくりと近づき、藤棚の前に誘導した。
「うん、藤の花。もうすぐ終わってしまうね」
「終わる……」
本田は話しながら、ポンポンと規則正しいリズムで背中をやさしく叩き続ける。
「藤の花が終わると、今度は石楠花が咲き始めるよ。その次は紫陽花だ。ああ、覚えてる? 紫陽花の花をたくさん摘んで川に浮かべて遊んだよね」
その言葉に遠い記憶が映像を結ぶ。
どこから摘んできたのか紫陽花を抱えて楽しそうに笑う幼い自分がいる。
そうだ、横にはもう一人子供がいて……その子と一緒に紫陽花の花を千切って川に投げて遊んでいた。
誰と?
「川が紫色できれいだねって君は言ったんだ」
「一緒にいたのが徒然さん?」
「そうだよ」
そう返事をした瞬間、本田が裕子の目の前でパンッと手を打った。
裕子の目が焦点を結ぶ。
「え……えっと……あの……私、今何を……」
「ん? 君は無心になって廊下を磨いていたよ?」
視線を向けると、廊下の隅にバケツがあった。
「すみません。ちょっとボーッとしていたみたいです」
「全然構わない。むしろそうやって心を開放するのはとても良いことさ」
廊下を磨いていただけのはずなのに、途轍もない疲労感に襲われる。
「ん? なんだか疲れているみたいだね。少し部屋で休むといい」
「はい、そうさせてもらいます。どうしたのかしら……とても疲れて……」
そう言うなり、裕子は意識を手放した。
深い海に沈んでいくような感覚の中で、裕子はゆっくりと目を開けた。
キラキラと光っているのは水面だろうか。
太陽の光を水の中から見上げるのは初めてだ。
何も聞こえないし、色も何も無い。
誰にも邪魔をされない自分だけの世界。
裕子はその解放感を全身で受け止めつつ、自分の意思で深く沈降していった。
本田はこれと全く同じ会話と行動を、二週間に渡って続けていた。
藤の花はもうとっくに散ってしまい、濃い緑の実をつけ始めているというのに、裕子の目には未だ満開に見えている。
「そろそろだね。今日から次に進もうか」
裕子の治療を始めてひと月が経つ。
本田の言葉に頷いた志乃が、裕子の部屋へと向かった。
「さあさあ、朝食の時間よ。美咲? まだ寝てるの?」
志乃の声に目を開ける。
ここがどこで自分が誰なのか……
ドアが開き、志乃が顔を覗かせる。
「起きた? ご飯にしましょう。徒然さんが待っているわよ」
「あっ! はい。すぐに行きます」
「まあ、敬語なんておかしな子ね。まだ寝ぼけているの?」
「え?」
「いいから早くしなさい。あなたの大好きな徒然さんが帰ってきてるんだから。元気になった顔を見せてあげるんでしょう?」
私の大好きな徒然さん?
私の?
私……私は誰?
「美咲? 大丈夫? また頭が痛むの? 酷い事故だったものねぇ。痛かったら無理しなくていいのよ?」
美咲?
私は美咲っていう名前?
ああ……思い出した。
そうだ、私の名前は『美咲』だ。
本田が裕子の肩を抱き、一定のリズムを背中に刻み始める。
「私はずっと旅行に出ていたからすぐに帰れなくてごめんね。君がここに戻って来ていることは志乃さんから聞いていたけれど、どうしても仕事が終わらなくてね」
裕子は何かを言わなければと焦った。
そう言えば、ここにきて何日が経ったのだろうか。
いつ? 誰と? どうやって?
この家にはカレンダーもテレビもない。
もう長いこと誰にも名前を呼ばれていない気がする。
「友達と……」
「友達? 誰だい?」
「え?」
もしかしたら自分の方がおかしいのだろうか……そんな思いが頭をよぎる。
「酷い怪我……」
本田が悲しそうな顔をした。
「まだ全部は思い出せないんだね。焦ることは無いから、ゆっくり療養しなさい」
急に耳の奥で潮騒の音が聞こえてきた。
眠りにつく前に聞こえるのと同じあの音だ。
寄せては返す波が数万年の時をかけて磨き上げた砂が奏でるその音は、まるで藤の花が風と遊ぶ時の音のようだ。
「藤の花……」
本田が裕子にゆっくりと近づき、藤棚の前に誘導した。
「うん、藤の花。もうすぐ終わってしまうね」
「終わる……」
本田は話しながら、ポンポンと規則正しいリズムで背中をやさしく叩き続ける。
「藤の花が終わると、今度は石楠花が咲き始めるよ。その次は紫陽花だ。ああ、覚えてる? 紫陽花の花をたくさん摘んで川に浮かべて遊んだよね」
その言葉に遠い記憶が映像を結ぶ。
どこから摘んできたのか紫陽花を抱えて楽しそうに笑う幼い自分がいる。
そうだ、横にはもう一人子供がいて……その子と一緒に紫陽花の花を千切って川に投げて遊んでいた。
誰と?
「川が紫色できれいだねって君は言ったんだ」
「一緒にいたのが徒然さん?」
「そうだよ」
そう返事をした瞬間、本田が裕子の目の前でパンッと手を打った。
裕子の目が焦点を結ぶ。
「え……えっと……あの……私、今何を……」
「ん? 君は無心になって廊下を磨いていたよ?」
視線を向けると、廊下の隅にバケツがあった。
「すみません。ちょっとボーッとしていたみたいです」
「全然構わない。むしろそうやって心を開放するのはとても良いことさ」
廊下を磨いていただけのはずなのに、途轍もない疲労感に襲われる。
「ん? なんだか疲れているみたいだね。少し部屋で休むといい」
「はい、そうさせてもらいます。どうしたのかしら……とても疲れて……」
そう言うなり、裕子は意識を手放した。
深い海に沈んでいくような感覚の中で、裕子はゆっくりと目を開けた。
キラキラと光っているのは水面だろうか。
太陽の光を水の中から見上げるのは初めてだ。
何も聞こえないし、色も何も無い。
誰にも邪魔をされない自分だけの世界。
裕子はその解放感を全身で受け止めつつ、自分の意思で深く沈降していった。
本田はこれと全く同じ会話と行動を、二週間に渡って続けていた。
藤の花はもうとっくに散ってしまい、濃い緑の実をつけ始めているというのに、裕子の目には未だ満開に見えている。
「そろそろだね。今日から次に進もうか」
裕子の治療を始めてひと月が経つ。
本田の言葉に頷いた志乃が、裕子の部屋へと向かった。
「さあさあ、朝食の時間よ。美咲? まだ寝てるの?」
志乃の声に目を開ける。
ここがどこで自分が誰なのか……
ドアが開き、志乃が顔を覗かせる。
「起きた? ご飯にしましょう。徒然さんが待っているわよ」
「あっ! はい。すぐに行きます」
「まあ、敬語なんておかしな子ね。まだ寝ぼけているの?」
「え?」
「いいから早くしなさい。あなたの大好きな徒然さんが帰ってきてるんだから。元気になった顔を見せてあげるんでしょう?」
私の大好きな徒然さん?
私の?
私……私は誰?
「美咲? 大丈夫? また頭が痛むの? 酷い事故だったものねぇ。痛かったら無理しなくていいのよ?」
美咲?
私は美咲っていう名前?
ああ……思い出した。
そうだ、私の名前は『美咲』だ。
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