思い出を売った女

志波 連

文字の大きさ
上 下
15 / 58

沈む女

しおりを挟む
「リハビリだからって頑張りすぎちゃだめだよ? 少し座ろうか」

 本田が裕子の肩を抱き、一定のリズムを背中に刻み始める。

「私はずっと旅行に出ていたからすぐに帰れなくてごめんね。君がここに戻って来ていることは志乃さんから聞いていたけれど、どうしても仕事が終わらなくてね」

 裕子は何かを言わなければと焦った。
 そう言えば、ここにきて何日が経ったのだろうか。
 いつ? 誰と? どうやって?
 この家にはカレンダーもテレビもない。
 もう長いこと誰にも名前を呼ばれていない気がする。

「友達と……」

「友達? 誰だい?」

「え?」

 もしかしたら自分の方がおかしいのだろうか……そんな思いが頭をよぎる。

「酷い怪我……」

 本田が悲しそうな顔をした。

「まだ全部は思い出せないんだね。焦ることは無いから、ゆっくり療養しなさい」

 急に耳の奥で潮騒の音が聞こえてきた。
 眠りにつく前に聞こえるのと同じあの音だ。
 寄せては返す波が数万年の時をかけて磨き上げた砂が奏でるその音は、まるで藤の花が風と遊ぶ時の音のようだ。

「藤の花……」

 本田が裕子にゆっくりと近づき、藤棚の前に誘導した。

「うん、藤の花。もうすぐ終わってしまうね」

「終わる……」

 本田は話しながら、ポンポンと規則正しいリズムで背中をやさしく叩き続ける。

「藤の花が終わると、今度は石楠花が咲き始めるよ。その次は紫陽花だ。ああ、覚えてる? 紫陽花の花をたくさん摘んで川に浮かべて遊んだよね」

 その言葉に遠い記憶が映像を結ぶ。
 どこから摘んできたのか紫陽花を抱えて楽しそうに笑う幼い自分がいる。
 そうだ、横にはもう一人子供がいて……その子と一緒に紫陽花の花を千切って川に投げて遊んでいた。

 誰と?

「川が紫色できれいだねって君は言ったんだ」

「一緒にいたのが徒然さん?」

「そうだよ」

 そう返事をした瞬間、本田が裕子の目の前でパンッと手を打った。
 裕子の目が焦点を結ぶ。

「え……えっと……あの……私、今何を……」

「ん? 君は無心になって廊下を磨いていたよ?」

 視線を向けると、廊下の隅にバケツがあった。

「すみません。ちょっとボーッとしていたみたいです」

「全然構わない。むしろそうやって心を開放するのはとても良いことさ」

 廊下を磨いていただけのはずなのに、途轍もない疲労感に襲われる。
 
「ん? なんだか疲れているみたいだね。少し部屋で休むといい」

「はい、そうさせてもらいます。どうしたのかしら……とても疲れて……」

 そう言うなり、裕子は意識を手放した。

 深い海に沈んでいくような感覚の中で、裕子はゆっくりと目を開けた。
 キラキラと光っているのは水面だろうか。
 太陽の光を水の中から見上げるのは初めてだ。
 
 何も聞こえないし、色も何も無い。
 誰にも邪魔をされない自分だけの世界。
 裕子はその解放感を全身で受け止めつつ、自分の意思で深く沈降していった。


 本田はこれと全く同じ会話と行動を、二週間に渡って続けていた。
 藤の花はもうとっくに散ってしまい、濃い緑の実をつけ始めているというのに、裕子の目には未だ満開に見えている。

「そろそろだね。今日から次に進もうか」
 
 裕子の治療を始めてひと月が経つ。
 本田の言葉に頷いた志乃が、裕子の部屋へと向かった。 

「さあさあ、朝食の時間よ。美咲? まだ寝てるの?」

 志乃の声に目を開ける。
 ここがどこで自分が誰なのか……
 ドアが開き、志乃が顔を覗かせる。

「起きた? ご飯にしましょう。徒然さんが待っているわよ」

「あっ! はい。すぐに行きます」

「まあ、敬語なんておかしな子ね。まだ寝ぼけているの?」

「え?」

「いいから早くしなさい。あなたの大好きな徒然さんが帰ってきてるんだから。元気になった顔を見せてあげるんでしょう?」

 私の大好きな徒然さん?
 私の?
 私……私は誰?

「美咲? 大丈夫? また頭が痛むの? 酷い事故だったものねぇ。痛かったら無理しなくていいのよ?」

 美咲?
 私は美咲っていう名前?

 ああ……思い出した。
 そうだ、私の名前は『美咲』だ。
しおりを挟む
感想 37

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

処理中です...