思い出を売った女

志波 連

文字の大きさ
上 下
13 / 58

揺れる女

しおりを挟む
 本田は静かに頷いた。
 コーヒーを配り終えた澄子が裕子の隣に座る。

「三谷さんも聞いておいてください。あなただけでも裕子さんという存在が確かにいたのだと覚えていてあげてくださいね。でもこの屋敷を一歩出たら、それらは記憶の奥底に沈めると約束してください」

「勿論です。お約束します」

「では続けますね。私は裕子さんに催眠療法を施します。これにはふた月くらいの時間が必要です。よくテレビで見るような催眠術とは違い、パンと手を打てばかかるようなものではありません。潜在意識に働きかけるので、じっくりとゆっくりとやっていく必要があるからです。その間は、ここに住んでもらいます。まあご覧の通り部屋数だけは旅館並みにありますからね」

 裕子は頷いた。

「私がもう大丈夫だと判断するまでは、屋敷から出ないでください。世話は先ほどの志乃さんがしてくれますし、必要なものはこちらですべて用意します。もちろん三谷さんと会うのも今日が最後です」

 裕子が慌てて澄子の顔を見る。 
 澄子は悲痛な表情を浮かべながらも、裕子を後押しするように力強く頷いて見せた。

「費用はどれくらい用意すれば良いですか?」

「費用? ああ治療費ですか? もちろん必要ありませんし、こちらから対価をお支払いします。支払うと言っても、あなたにお金を払うわけでは無く、あなたが全てを忘れて新しい人生を歩めるようになるまで全面的にバックアップするという意味です。その間にかかる経費は全てこちらで負担します」

「なんだか申し訳ないわ」

「いいえ、正当な取引ですよ。私はあなたからもらった記憶を元に、小説を書きますので収入に直結します。もちろん素性が知れるような書き方はしませんから、そこはご心配なく。私がそれを書く頃には、あなたはすっかり別人になっているので、もしそれを読まれても、単なる小説だとしか認識しないはずです」

「承知しました」

「それと、もうお聞きになっているかもしれませんが、あなたは今の名前も住所も学歴も全て失います。先ほども言いましたが、全くの別人になるからです。その別人の戸籍や履歴はこちらで用意します」

「わかりました」

「では合意したということで、こちらにサインをいただけますか?」

 本田が立ち上がって執務机の引き出しから1枚の紙を取り出した。
 
「同意書?」

「そうですよ。お読みいただけたら分かると思いますが、この同意書には『施術中に起きた不都合なこと』や『施術後に起こった不都合なこと』に関する事が書かれています。誤解の無いように申し上げますが、それらに対する私の責任を回避するものではありません。始めたからには何があってもこちらで責任をもって対処します。その代わりと言っては語弊があるかもしれませんが、あなたにも守ってもらいたいことなどを記載しています」

「あの……具体的にお聞きしても?」

 本田がゆっくりと頷いた。

「大きく言えば三つです。一つ目は、如何なる事由があろうとも、途中でやめることはできないということ。そして二つ目は、忘れたい記憶に存在する人物が接触してきたとしても、あなたの意志にかかわらず、こちらで対処するということです。ここまでは良いですか?」

「勿論です」

「では、最後の一つ。絶対に生きたいという強い意志を持ち続ける覚悟です」

「覚悟……」

「そうです。覚悟です。できますか?」

 裕子は漠然とした不安を感じたが、一度大きく息を吐いて頷いた。

「よろしくお願いします」

 裕子が立ち上がって深々と頭を下げた。

「施術は明日から始めましょう。今日は三谷さんとゆっくり過ごせばいい。私は今から出掛けますので、何かあれば志乃さんに言ってください。ここにいても良いですし、出掛けても構いませんが、リスクを考えるとここにいることをお勧めします」

 そう言うと本田はドアを開けて志乃を呼び、二人を頼むと言い残して出て行った。

「どうぞ、座敷に。今の季節は藤がきれいですよ」

 促されて客間に向かうと、カレンダーでよく見る古刹の庭のような景色が広がった。
 絶妙に配置されている石がどのような意味を持つのかは分からないが、懐かしいような泣きたいような気持ちになるのはなぜだろうと裕子は思った。

「すごいね。ザ・日本庭園って感じ」

「うん、修学旅行で行った京都で見たような庭だねぇ」

 二人の会話を微笑ましく聞いていた志乃が、口を開いた。

「このお屋敷はとても古くて、もう少しで150年くらいになるそうですよ。明治維新後の鹿鳴館ができた頃に建てられたものです。もちろんずっと手を入れ続けていますし、徒然さんの代になってからは、かなり本格的に耐震工事もしました。当時のままなのは見た目だけで、中身は近代建築と言っても過言ではないらしいですよ。ああ、でもお庭はあまり変わっていませんね。このお庭も含めて保存指定建造物にされそうなのを徒然さんが断固拒否しているのです」

 縁側に三人並んで座る。
 都会の中にいるとは思えないような空気が流れる。

「徒然さんはこの景色がお好きでしてね。この屋敷を残すために、随分ご苦労もなさったのです。まだ独身ですし、もっと便利なマンションにでも引っ越せばいいのにとは思いましたけれど、私もここが好きなので、残してくれて嬉しかったですけどね。ふふふ」

 ボーッと庭を眺めていると、甘酸っぱい香りが漂って来た。

「この香りは……」

「藤ですよ。とても良い香りでしょ?」

 志乃の言葉に視線を向けると、立派な藤棚があった。
 浅い池の上に揺れる薄紫の花が揺蕩う舞姫のように見える。

「かくしてぞ ひとはしぬといふ ふじなみの……」

 裕子が口ずさむと、澄子が後を引き取った。

「ただひとめのみ みしひとゆゑに……万葉集だっけ。懐かしいね」

 その声には反応せず、魅入られたように揺れる藤を見ている裕子。

「裕子?」

 裕子はただ涙を流し続けていた。
 その肩に触れようと手を伸ばした澄子を制し、志乃が静かに立ち上がった。
 数歩離れて振り返った志乃の目線が、澄子を呼ぶ。
 澄子も静かにその場を離れ、志乃の後に続いた。
 廊下を折れて、立ち止まると志乃が静かに口を開く。

「浄化はすでに始まっています。この数日は心に溜まった澱をひたすら洗い流すという作業になるでしょう。もしよろしければ、三谷様も今夜はここにお泊りなってください。お友達として最後の時間をお過ごしくださいませ」

「最後の時間?」

「ええ、このまま忘れられるのはお辛いでしょう? それに裕子さんもきっと不安だと思います。もちろんお仕事のご都合もおありでしょうけれど」

「そうですね、裕子も不安ですよね。申し訳ございませんが、お言葉に甘えます」

「畏まりました。先にお部屋に案内しましょうね。裕子さんは当分あのままですから」

「わかりました。よろしくお願いします」

 澄子は廊下の角から裕子を覗き見た。
 裕子の体が小さくゆっくりと左右に揺れている。
 まるで風にそよぐ藤の花とシンクロしているような不思議な動きだった。
しおりを挟む
感想 37

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

わたしは不要だと、仰いましたね

ごろごろみかん。
恋愛
十七年、全てを擲って国民のため、国のために尽くしてきた。何ができるか、何が出来ないか。出来ないものを実現させるためにはどうすればいいのか。 試行錯誤しながらも政治に生きた彼女に突きつけられたのは「王太子妃に相応しくない」という婚約破棄の宣言だった。わたしに足りないものは何だったのだろう? 国のために全てを差し出した彼女に残されたものは何も無い。それなら、生きている意味も── 生きるよすがを失った彼女に声をかけたのは、悪名高い公爵子息。 「きみ、このままでいいの?このまま捨てられて終わりなんて、悔しくない?」 もちろん悔しい。 だけどそれ以上に、裏切られたショックの方が大きい。愛がなくても、信頼はあると思っていた。 「きみに足りないものを教えてあげようか」 男は笑った。 ☆ 国を変えたい、という気持ちは変わらない。 王太子妃の椅子が使えないのであれば、実力行使するしか──ありませんよね。 *以前掲載していたもののリメイク

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

処理中です...