思い出を売った女

志波 連

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悔やむ男

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 裕子が消えた翌朝、孝志は昨日の服のままソファーに呆然と座っていた。
 会社には妻の具合が悪いと噓の連絡を入れ、情けなさで涙を溢す。 
 そんな時、昨夜鍵を掛けていなかったのか、玲子が無遠慮に入り込んできた。

「お前……」

 手を握りしめる孝志の頬をするっと撫でて、玲子が妖艶な笑みを浮かべた。

「きれいに片付いているじゃない。これなら明日にでも引っ越して来られるわね」

「ふざけるな!」

 立ち上がる孝志。

「あら、暴力はやめてね? 赤ちゃんがいるんだから。あなたが疑っているみたいだったから、証明書を持ってきてあげたのよ」

 孝志の前でピラピラと検査結果を揺らす。
 恐るおそる手に取ると、提供された毛髪が父親である可能性は99.9%と書かれていた。

「俺の髪の毛じゃないかもしれないだろ」

「まさか私があなた以外の男と寝たとでも言うの? 三日も開けずに抱いておいてよく言うわよ。なんならこのまま再検査に行く?」

 孝志は崩れ落ちるように座り込んだ。

「帰ってくれ……お前を殺してしまいそうだ……早く出て行ってくれ」

「困った人ね。いい加減現実を受け入れなさいな。まあ今日のところは帰るけど、明日はちゃんと出社してよ? 稼いでくれないと赤ちゃんがかわいそうだもの。ね? お父さん?」

 孝志は俯いて歯を食いしばり、玲子を殴りたい衝動に耐えた。
 口の中に鉄の味が広がる。
 反応しない孝志に飽きたのか、フンッと鼻を鳴らして玲子が出て行った。
 結局それから週末まで、孝志は出社することができなかった。

 月曜になり、これ以上休めないと思った孝志は、裕子がアイロンをかけたワイシャツに腕を通し、裕子が磨いた靴を履く。
 自分の愚かさに吐き気を覚えながら、駅へと続く道をのろのろと歩いた。

「裕子……帰ってきてくれよ……悪かったよ……俺がバカだった」

 仕事が手につかず、上司に呼ばれて注意を受けた。
 その言葉でさえ孝志の耳には入ってこない。
 ただ惰性で出社しているだけの日々が続く。

 当然のごとく成績も落ちていき、決まりかけていた昇進の話も消えた。
 冷たい同僚の視線をやり過ごし、今日も定時で退社して家路を急ぐ。

「ただいま」

 返事はない。
 コンビニ弁当をつつき、裕子が準備していた缶ビールを大事そうに飲む。
 やがてその缶ビールも最後の一個となった頃、再び玲子がやってきた。

「このままじゃモヤモヤするでしょ? 検査した方が納得できるんじゃない? もしあなたの子じゃないって証明できたらキッパリと別れてあげるわよ。でもあなたの子だと証明できたらさっさと離婚届を出して、私と再婚してちょうだい。この子を片親にはしたくないわ」

「うるさい……うるさいうるさいうるさいうるさい!」

「もう、困ったちゃんねぇ。自分がやったことでしょ? それにしてもあなたって不思議な人よね。裕子さんがいるときは飲み歩いたり私の部屋に来たりしてたのに、いなくなった途端にまっすぐ帰るんだもん。本当は裕子さんが鬱陶しかったんじゃない? いい加減に認めて前を向いてちょうだいな、お父さん?」

 孝志はその場で吐いた。

「まあ! 汚いわね!」

 顔を顰めた玲子が出て行くと、孝志は自分が吐き戻したものを見て声を出して笑った。
 外せない接待に出向き、あまり得意でない牡蠣料理を無理して食べた日のことを思い出す。
 帰るなり玄関で吐いた孝志を、裕子は抱えるようにしてリビングに連れて行き、丁寧に体を拭いて着替えさせてくれた。
 玄関を汚したことを謝ると、静かに首を振って裕子は言った。

「汚いなんて思わないよ? 今タクシーを呼んだから救急病院に行こうね。辛かったね、良くここまで我慢したよ」

 それから三日ほど、食中毒で会社を休んだ。
 あとで聞くと、同行した二人も同じ症状で休んでいたらしい。
 
「随分やせたな、二人とも」

「そりゃ先輩と違って寂しい独身ですからね。二日間は眩暈で動けなくて、水しか飲んでないですよ。三日目にやっとカップ麺食ったけど、胃が痛かったですもん」

 口を揃える二人に、自分は妻に看病してもらったというと、羨ましいと言われた。
 
「そりゃ自慢の奥さんだからな。本当によくできた嫁なんだ。お前らも早く結婚しろよ」

 初日は重湯、二日目は味の無いお粥、三日目には薄味の卵粥を作って、フウフウと息を吹きかけて冷ましながら、懸命に食べさせてくれた裕子。
 口を尖らせて懸命に息を吹きかけるその唇に、思わずキスをしたことを思い出す。

 本当に自慢の妻だった。
 心から愛していたのに……

「裕子……ごめん……ホントにごめん」

 孝志はそのまま泣き続けた。
 
「裕子……裕子……」

 ふらふらと立ち上がり、雑巾をとりに洗面台に向かった。
 洗面台にはゴミ箱から拾った空のシャンプーボトルがそのまま置かれている。
 無造作に捨てられていた裕子の日常。
 
 半分以上残した弁当をゴミ箱に入れ、一個だけになってしまったペアマグで水を飲む。
 アイロンのかかっていないワイシャツを着るようになって何日が経つのだろう。
 靴を磨く気にもなれないが、明日も会社に行かなくてはいけない。

『しっかり稼いでね、お父さん?』

 玲子の声が聞こえたような気がした。
 
「俺は正真正銘のバカだ……」

 孝志の懺悔が裕子に届くことはもうない。
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