上 下
45 / 46

45 既視感

しおりを挟む
 それをサムから聞いたティアナは、悲しそうな顔で頷いた。

「お金持ってるのかしら」

「ある程度は持ってたと思うよ?」

「何処に行くのかしら」

「それはわからないけれど、トマスのことさ。何処に行っても心配ないよ」

「今日はサムが配達なのね」

「うん、今日から毎日僕が配達するよ」

「奥さんは?」

「奥さんってキャサリンのこと? あいつならもう逃げたよ」

「決断早くない?」

「早いよね~。後は全部僕に押し付けるつもりらしい。まあ予想はしていたけれどね。唯一手元に残していた南の別荘を売って金にしたみたいだ。まあ逃げても無駄だけどね」

「闇金のお金で少しは持ち直すのかと思ってた」

「クレマンさんが手を回したんだ。金があっても仕入れはできないよ。だからあの金は銀行への返済に充てて、残った金を持ってキャサリンのところに行ったらもぬけの殻だった。だから義父を施設に入れたんだ。持って行った金を全部渡したら、死ぬまで面倒見てくれるってさ。親孝行な娘だよね」

「ははは! それは良かったわね。ではもうシェリーと住むの?」

「うん、本当は僕が父親で、トマスは僕の代わりに守っていただけだって信じてもらわないとね。奥様っていう人種は身分に関係なく同じような弱点を持っているんだ。何かわかるかい?」

「いいえ、わからないわ」

「それはね、愛されているという疑似体験だよ。僕がシェリーを大切にして愛しているということを隠さない態度を貫いていると、周りの奥様達は僕らの味方になるんだ。自分も夫に愛されているという錯覚を覚えるんだろうね。そうやって味方になってもらってから、徐々に情報を浸透させる。そうすると一度も疑うことなく沁み込んでいくんだ」

「怖いわね……それも商会で磨いた技なの?」

「そうだよ。例えばどこかの貴族家に勤めているメイドに、毎日お嬢様って話しかけると、いつの間にかお嬢様の所作になるんだ。商会だってそうだよ。毎日スタッフから支店長って呼ばれることで、支店長になっていく。君だってそうだよ? 市場で食堂をやっているティアナになっただろう?」

「そうね、確かにそうよね。では、今日からよろしくね、パン屋のサムさん」

「へい、毎度ありがとうございます」

 二人は笑い合った。
 二階から降りてきたララが、神妙な顔でティアナに頭を下げた。

「ごめん、私って人を見る目が無かったわ。トマスがあそこまでヘタレだとは思わなかったし、キースがあそこまで大人だとは思わなかった」

「それを言うなら私も同じよ。良い勉強になったわ。それにトマスへの思いは淡すぎて恋とも呼べないくらいだったかもしれないもの」

「昨日言ってたけど、ティアナはトマスを待つの? おばあちゃんになっちゃうよ?」

「待つって……そうね、いつかは帰って来れば良いなとは思うし、そういう意味なら待つと言えるかな? でも恋愛することを待つつもりは無いわ。初恋は破れちゃったけれど、そんなものは焦げたパイと同じよ」

「焦げたパイ?」

「そうよ、焦げたらもう元には戻らないってこと。次行くわよ! 次! 次こそちゃんと恋をしてみせるわ」

 ティアナが景気よくフライ返しを突き上げた。

「次ってことは、ここに並んでいれば順番が来るってことかな」

 キースが呆れた顔で立っていた。

「あら、キースおはよう。今日はぴしっと制服なのね」

「うん、偶にはちゃんと仕事をしているところを見せないとね」

「仕事してるって思ってるよ? あの時助けてくれたのもキースだったじゃない」

「良かった、ホッとしたよ。あまりにも私に対する態度が他人行儀だから、そのことさえ忘れているのかと思って不安だったんだ。言っておくけれど、君だから助けたわけじゃなくて、仕事としてやったのだけれど、君を見た瞬間に私は君に恋をしたんだからね? それは忘れないでくれよ?」

 ティアナが目を丸くする。
 ララがティアナの横腹を肘で小突いてから出て行った。

「恋? え? 恋って?」

「……やっぱり……伝わってなかったか。まあ、君はいつもトマスを目で追っていたから告白しなかったけど、私は君に恋をして、君の側に居たくてこの街に住むことにした。君を少しでも長く見ていたくて、君の店に通っている。そして心の他に胃袋まで掴まれてさ。もうどうにでもしてくれって感じだよ」

「キース……」

「でも今はまだ我慢するよ。君の心からトマスが消えて、私をちゃんと男として見てくれるようになるまで耐えてみせる。君が平常心でミートパイを焼ける日が来たら、覚悟しておいてくれ。全身全霊で口説くから」

 固まってしまったティアナ。

「ティアナ! 大変だ! 焦げてる! 何か焦げてるよ!」

 我に返ったティアナがフライパンを持ち上げた。

「熱っ!」

「ティアナ!」

 キースが駆け寄り、火傷をしたティアナの手を水桶に浸した。

「火傷している。冷たいけれどもう少しこのまま我慢して。冷やさないと後ですごく痛むからね」

 そう言いながらティアナの手を掴んだまま、自分の手も水桶につけているキース。
 ティアナの顔の横にキースの顔があった。

 その時の彼女の心情を擬音化すると『ずきゅゅゅゅん』だろうか。
 その音が鳴りやむと、どこからか舞い降りてきた小さなエンジェル達が、金色のラッパを吹き鳴らし、その周りでピンク色の聖霊たちが花弁を撒き散らす。
 すべては幻聴幻覚のはずだが、その時のティアナにははっきりと見えていた。

「何と言うか……ものすごい既視感」

「え? なに? 痛いの?」

「痛い? ええ、少し痛いわ……心が」

「心って……ねえ、ティアナ。僕の忍耐力にも限界ってものがあるんだ。その顔はダメだ」

 キースが真っ赤な顔を横に逸らした。
 ティアナの鼓動が首筋にまで上がっている。

「キース、ごめん。ごめん。もう大丈夫だから、手を放して」

「あっごめん」

 二匹の蛸が今にも茹で上がりそうだ。
 花束を抱えて帰ってきたララが盛大に揶揄ったことは言うまでもない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

業腹

ごろごろみかん。
恋愛
夫に蔑ろにされていた妻、テレスティアはある日夜会で突然の爆発事故に巻き込まれる。唯一頼れるはずの夫はそんな時でさえテレスティアを置いて、自分の大切な主君の元に向かってしまった。 置いていかれたテレスティアはそのまま階段から落ちてしまい、頭をうってしまう。テレスティアはそのまま意識を失いーーー 気がつくと自室のベッドの上だった。 先程のことは夢ではない。実際あったことだと感じたテレスティアはそうそうに夫への見切りをつけた

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

【悪女】の次は【意地悪な継母】のようです。

ごろごろみかん。
恋愛
旦那様は、私の言葉を全て【女の嫉妬】と片付けてしまう。 正当な指摘も、注意も、全て無視されてしまうのだ。 忍耐の限界を試されていた伯爵夫人ルナマリアは、夫であるジェラルドに提案する。 「もうやめましょう。お互いの幸せのためにも、私たちは解放されるべきです」と。 ──悪名高い私ですので、今さらどう呼ばれようと構いません。

前略、旦那様……幼馴染と幸せにお過ごし下さい【完結】

迷い人
恋愛
私、シア・エムリスは英知の塔で知識を蓄えた、賢者。 ある日、賢者の天敵に襲われたところを、人獣族のランディに救われ一目惚れ。 自らの有能さを盾に婚姻をしたのだけど……夫であるはずのランディは、私よりも幼馴染が大切らしい。 「だから、王様!! この婚姻無効にしてください!!」 「My天使の願いなら仕方ないなぁ~(*´ω`*)」  ※表現には実際と違う場合があります。  そうして、私は婚姻が完全に成立する前に、離婚を成立させたのだったのだけど……。  私を可愛がる国王夫婦は、私を妻に迎えた者に国を譲ると言い出すのだった。  ※AIイラスト、キャラ紹介、裏設定を『作品のオマケ』で掲載しています。  ※私の我儘で、イチャイチャどまりのR18→R15への変更になりました。 ごめんなさい。

【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った

五色ひわ
恋愛
 辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。 ※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

バツイチ夫が最近少し怪しい

家紋武範
恋愛
 バツイチで慰謝料を払って離婚された男と結婚した主人公。  しかしその夫の行動が怪しく感じ、友人に相談すると『浮気した人は再度浮気する』という話。  そう言われると何もかもが怪しく感じる。  主人公は夫を調べることにした。

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

処理中です...