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その日から二か月、シェリーは夫であるアルバートと一度も会わないままだ。
公的な夜会さえ顔を出さない皇太子。
執務室に行っても不在だし、手紙を出しても返事は代筆で『忙しいが元気なので心配ない』判で押したような定型文のそれだけ。
いつ仕事をしているのかと思うが、手元に回ってくる皇太子からの書類に不備はない。
「おかしいわ。無能ではないけれどここまで優秀だったかしら」
シェリーの側で執務補佐をしている側近が顔を上げた。
「ご存じなのかと思っておりました」
「何のこと?」
「皇太子殿下のことです。殿下は今ミスティ侯爵令嬢とミスティ家の別荘に滞在中です。その間の皇太子業務は国王陛下と宰相閣下が分担しておられるのです」
「そうなの? それなら私が確認などする必要ないじゃない?」
「そこは決まった手順ですし、これは……まあ秘密ですから」
「あなたはなぜ知っているの?」
「兄が国王陛下の事務官なのです。私に話すことは国王陛下もご同意だと言っていました。きっと妃殿下の耳にそれとなく入れたかったのでしょうね。妃殿下が何も仰らず黙々とお仕事をこなされていたので、既にご存じなのだと思っていました」
「知らなかったわ……皇太子殿下がそこまでバカだとは思わなかったから……」
「今回の件は王妃殿下の尺金ですよ。アルバート殿下は別荘行きを渋っておられたと聞いております。ノリノリなのは王妃殿下とミスティ侯爵令嬢だけで」
シェリーはフッと溜息を吐いた。
「皇太子印って陛下に預けて行ったってこと?」
「最初は王妃殿下が預かると仰ったそうですが、国王陛下が宰相に託すように指示をされたそうですよ」
「正解ね。でないと今頃は国庫が破綻しているでしょうから」
「確かに」
「王妃殿下は何を考えておられえるのかしら」
側近の男は肩を竦めて見せただけで、机の上に視線を戻した。
シェリーは立ち上がり、窓を開けた。
まだ少し肌寒い風が執務室に流れ込む。
今頃我が夫は何をしているのだろう。
何を考えているのだろう。
これからどうするつもりなのだろう。
疑問は尽きない。
「ねえ、宰相閣下にお時間がある時で良いから来ていただけないかお伺いしてちょうだい」
側近が立ち上がり執務室を出た。
メイドに言ってお茶とお菓子の準備をする。
ほどなくしてシュラインがドアをノックした。
人払いをしてソファーに座る。
「知りませんでしたわ。ミスティ家の別荘に行っているだなんて」
シュラインは口元まで寄せていたカップを止めた。
「おそっ! それほど疎遠だったの?」
「ええ」
「君が戻って二週間くらいはいたんだよ? 何も話が無かったの?」
「ええ」
「信じられないな……アルバートは何を考えているんだ?」
「もう私など眼中にないのでしょう。早く離婚してくださればいいのに」
シュラインが笑う。
「でもここにいないとキツネ狩りに参加できないよ?」
「そうですわね。父にも弟にも同じことを言われましたわ」
「ブラッド侯爵もブルーノもよくやってくれているね」
シェリーはシュラインの顔を一度見てから、天井に視線を移した。
シュラインが首を横に振る。
「いないよ。奴らは撤収させた。それに彼らは君を守っていたんだよ。聡明な君より手玉に取りやすいローズに挿げ替えようとしていた王妃の魔の手からね」
「そうだったのですか? 私はてっきり王妃殿下の手の者だと思っていましたわ」
「うん、そういうのもいたにはいたけどね。全部消した。ああ、殺してはいないから安心してね? 君はそういうの嫌いだろう?」
「安心しましたわ。でもそれを聞いて婚姻からずっと緊張しっぱなしだったことが少し悔しいですわね」
「まあ入れ替えたのは最近の事だから。君の対処は正解だったよ」
二人は困った顔で笑いあった。
「でれで? 決まったのですか?」
「ああ、私と叔父上の骨肉の争いのこと?」
「ええ」
「まだ渋ってるけど、一択だよね。僕には愛妻と愛娘がいるんだもの」
「私が生贄になることも変更なしですの?」
「生贄って……言い方!」
「だってそうでしょう?」
「イーサンのところに行きたい?」
「行きたいかと聞かれれば行きたいですけど……」
「ブルーノからは何も聞いてないの?」
「え?」
「私から言うのは控えるよ。どうしても知りたければブルーノを攻めてみるんだね」
「それも含めて実家に帰りたいのですが」
「今は難しいかな。それより来てもらおうよ。そろそろ全体会議を開催するべき時期だ」
「でも王妃様の目が」
「大丈夫。義母上にはアルバートのところに遊びに行ってもらう」
「素直に行きます?」
「アルバートを連れ戻せって国王から言われたら動くしかないさ。往復で10日は稼げる」
「それは良いことですが、別に帰って来てほしくも無いですね」
「まあそう言うな。じゃあそういうことで、ブラッド侯爵にはこちらから連絡しておくよ」
「よろしくお願いいたします」
退出するシュラインの背中を見送りながら、シェリーは再び窓の外に視線を投げた。
イーサンに関する情報は全くない。
というより、わざと情報を遠ざけていた。
もし会ってしまったら、心の中で軽蔑しているアルバートと同じことをしてしまいそうで怖い。
心情ではアルバートの行動を理解できる。
だからこそ、本当にするのは裏切り行為だと思うのだ。
シェリーは濃い青に変わりつつある遠くの山の稜線を見て、何度目かの溜息を吐いた。
公的な夜会さえ顔を出さない皇太子。
執務室に行っても不在だし、手紙を出しても返事は代筆で『忙しいが元気なので心配ない』判で押したような定型文のそれだけ。
いつ仕事をしているのかと思うが、手元に回ってくる皇太子からの書類に不備はない。
「おかしいわ。無能ではないけれどここまで優秀だったかしら」
シェリーの側で執務補佐をしている側近が顔を上げた。
「ご存じなのかと思っておりました」
「何のこと?」
「皇太子殿下のことです。殿下は今ミスティ侯爵令嬢とミスティ家の別荘に滞在中です。その間の皇太子業務は国王陛下と宰相閣下が分担しておられるのです」
「そうなの? それなら私が確認などする必要ないじゃない?」
「そこは決まった手順ですし、これは……まあ秘密ですから」
「あなたはなぜ知っているの?」
「兄が国王陛下の事務官なのです。私に話すことは国王陛下もご同意だと言っていました。きっと妃殿下の耳にそれとなく入れたかったのでしょうね。妃殿下が何も仰らず黙々とお仕事をこなされていたので、既にご存じなのだと思っていました」
「知らなかったわ……皇太子殿下がそこまでバカだとは思わなかったから……」
「今回の件は王妃殿下の尺金ですよ。アルバート殿下は別荘行きを渋っておられたと聞いております。ノリノリなのは王妃殿下とミスティ侯爵令嬢だけで」
シェリーはフッと溜息を吐いた。
「皇太子印って陛下に預けて行ったってこと?」
「最初は王妃殿下が預かると仰ったそうですが、国王陛下が宰相に託すように指示をされたそうですよ」
「正解ね。でないと今頃は国庫が破綻しているでしょうから」
「確かに」
「王妃殿下は何を考えておられえるのかしら」
側近の男は肩を竦めて見せただけで、机の上に視線を戻した。
シェリーは立ち上がり、窓を開けた。
まだ少し肌寒い風が執務室に流れ込む。
今頃我が夫は何をしているのだろう。
何を考えているのだろう。
これからどうするつもりなのだろう。
疑問は尽きない。
「ねえ、宰相閣下にお時間がある時で良いから来ていただけないかお伺いしてちょうだい」
側近が立ち上がり執務室を出た。
メイドに言ってお茶とお菓子の準備をする。
ほどなくしてシュラインがドアをノックした。
人払いをしてソファーに座る。
「知りませんでしたわ。ミスティ家の別荘に行っているだなんて」
シュラインは口元まで寄せていたカップを止めた。
「おそっ! それほど疎遠だったの?」
「ええ」
「君が戻って二週間くらいはいたんだよ? 何も話が無かったの?」
「ええ」
「信じられないな……アルバートは何を考えているんだ?」
「もう私など眼中にないのでしょう。早く離婚してくださればいいのに」
シュラインが笑う。
「でもここにいないとキツネ狩りに参加できないよ?」
「そうですわね。父にも弟にも同じことを言われましたわ」
「ブラッド侯爵もブルーノもよくやってくれているね」
シェリーはシュラインの顔を一度見てから、天井に視線を移した。
シュラインが首を横に振る。
「いないよ。奴らは撤収させた。それに彼らは君を守っていたんだよ。聡明な君より手玉に取りやすいローズに挿げ替えようとしていた王妃の魔の手からね」
「そうだったのですか? 私はてっきり王妃殿下の手の者だと思っていましたわ」
「うん、そういうのもいたにはいたけどね。全部消した。ああ、殺してはいないから安心してね? 君はそういうの嫌いだろう?」
「安心しましたわ。でもそれを聞いて婚姻からずっと緊張しっぱなしだったことが少し悔しいですわね」
「まあ入れ替えたのは最近の事だから。君の対処は正解だったよ」
二人は困った顔で笑いあった。
「でれで? 決まったのですか?」
「ああ、私と叔父上の骨肉の争いのこと?」
「ええ」
「まだ渋ってるけど、一択だよね。僕には愛妻と愛娘がいるんだもの」
「私が生贄になることも変更なしですの?」
「生贄って……言い方!」
「だってそうでしょう?」
「イーサンのところに行きたい?」
「行きたいかと聞かれれば行きたいですけど……」
「ブルーノからは何も聞いてないの?」
「え?」
「私から言うのは控えるよ。どうしても知りたければブルーノを攻めてみるんだね」
「それも含めて実家に帰りたいのですが」
「今は難しいかな。それより来てもらおうよ。そろそろ全体会議を開催するべき時期だ」
「でも王妃様の目が」
「大丈夫。義母上にはアルバートのところに遊びに行ってもらう」
「素直に行きます?」
「アルバートを連れ戻せって国王から言われたら動くしかないさ。往復で10日は稼げる」
「それは良いことですが、別に帰って来てほしくも無いですね」
「まあそう言うな。じゃあそういうことで、ブラッド侯爵にはこちらから連絡しておくよ」
「よろしくお願いいたします」
退出するシュラインの背中を見送りながら、シェリーは再び窓の外に視線を投げた。
イーサンに関する情報は全くない。
というより、わざと情報を遠ざけていた。
もし会ってしまったら、心の中で軽蔑しているアルバートと同じことをしてしまいそうで怖い。
心情ではアルバートの行動を理解できる。
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