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36 アレンの気持ち
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アレンの心の中には常に母親の存在があった。
しかしあの一件以来、一言も母のことを口にはしてこなかった。
自分がなぜあの話を受けたのか……そこに思い至るとき、どうしても母親のことが浮かんでしまう。
自分の罪の根幹が母親にかかる医療費だったなどという考えを持つことを心が拒否する。
母だって好きで寝たきりになっているわけでは無い。
でも父の残した貯えも領地も給料も全て注ぎ込んだのは事実だ。
アレンは母を憎いと思ったことは一度も無いが、自分の境遇には疲弊しきっていた。
給料では足りず、経験が浅いにも拘らず従軍を志願したこともある。
従軍すれば給料とは別に手当が出るからだ。
縦しんば死んだとしても、この貧乏生活から解放される……。
そう思って前線に向かったことも一度や二度ではない。
しかし、そのとき必ず父親の顔が浮かんだ。
『母さんを頼む』
これは父親が毒で苦しみながら最後に呟いた言葉だ。
アレンは父を尊敬していた。
その父から託されたのだ。
しかし、気持ちだけでは薬代は払えない。
このジレンマはアレンから覇気を削っていった。
第二王子の側近という話が来た時も、正直に言うと面倒だと思った。
しかし側近手当は魅力的な金額だったので、アレンは受けた。
休日も勤務時間も全て第二王子の一言で決まる職場環境は、真面目なアレンにとって苦痛以外の何物でもなかった。
『辞めたい』
アレンは毎日そう思いながら第二王子であるラウムに振り回されていた。
そんなラウムもアレンの母親のことだけは気にかけてくれていた。
薬を取りに行く日は必ず護衛の任から解放してくれたし、給料の前借りにも嫌な顔をしなかった。
『アレン、なんなら俺が個人的に融通しようか?』
そんな言葉を掛けてきたこともある。
しかしアレンはラウムの申し出を断った。
理由はない。
本当は喉から手が出るほど欲しい金。
最後に踏みとどまれたのはアレンが若いなりに経験してきた勘だった。
これにすがるとどんな無理難題を押し付けられるかわからない。
でも金は無い。
仲間内での食事会の時も、さり気なくアレンの分も一緒に払うラウムに、惨めさと悲しさを感じたが、ありがたく受けるしかない自分。
使用人には遅ればせながらもきちんと給与を渡していたが、必要最低限以下の人数で体裁を整えてくれている彼らには感謝しかなかった。
中でもメイド長はアレンのことを気にかけてくれていた。
アレンにとっては叔母のような存在だったのだ。
親類もいないアレンは、心の中で執事を叔父と思い、メイド長を叔母と思って信頼した。
そしてあの事件。
アレンは心の底から自分の見る目の無さに絶望した。
「あなたも大変だったのね」
まだマーガレットと2人で暮らしていた時に、問わず語りで話した自分の過去を、マーガレットは否定も肯定もしなかった。
話し終わったアレンの横に、車椅子を操りながら近寄ったマーガレットは、背中をぽんぽんと優しく撫でながら一緒に泣いてくれた。
その時ふと目に飛び込んだ窓から見える美しい牧草風景は、この地を守りたいという決意を新たにしてくれた。
「美しい夕暮れだった。庭にコクリコの花が揺れていたっけ」
そうつぶやいたアレンは立ち上がった。
ニコッと笑ってマーガレットの車椅子の持ち手を握りなおす。
「すみません、母の話にはどうも弱いみたいです。でも、本当に実現できたら嬉しいです」
「あら、実現させるのよ。馬の方はもう安定してきたのでしょう? だったら頑張るしかないわね?」
「マーガレットさんって結構人使い荒いですよね」
「そう? こんなに優しいおばあちゃんはいないと思うけど?」
「ええ、マーガレットさんは本当に聖人のような方です。そのお陰で僕は生きていられた」
「分かっているじゃないの」
「はい、感謝していますよ。本当に、心から」
「だったら私のお願いを聞いてくれないかしら」
「何でも言ってください」
「マリアをね……頼みたいの。私はもうすぐ天に召されるわ。そうなるとあの子が独りぼっちになってしまう。可哀想でしょう?」
「マリアさんの後見人になれということですか?」
「まあ、そんなようなものね」
「わかりました。必ずマリアさんが幸せに暮らせるように全力を尽くします。でもマーガレットさん。もうすぐ天に召されるなんて言わないでください。お願いします」
「そう? あなたがそう言うならそうしましょう。でも覚悟だけはしておいてね」
「嫌ですよ。覚悟なんてしません」
「ほほほ、わかったわ。もう言わない。そう言えばあなたは独身?」
「いいえ? 僕にはマリアという妻がいますよ?」
「でも彼女は第二王子の公妾になるために、あなたの正妻になっただけでしょう?本当の妻はルーナさんでしたっけ? その方じゃないの?」
「ルーナ……そうですね。今思えば彼女にも悪いことをしました。僕は彼女を逃げ場にしていたのでしょうね。愛していたのはウソじゃない。でも僕の妻はマリア嬢ですよ」
「彼女とは……もう終わったのね?」
「ええ、薄情だと思われるでしょうけれど、ここに着任してから、毎日が忙しすぎて彼女のことを考える暇も無かった。そのうちにあの頃の気持ちは消えてしまいました。忘れることはしませんが。でもそんな忙しい毎日でもマリア嬢のことは毎日考えていました。不思議ですよね。本当の顔も声も知らないのに」
「では、その正妻のマリアさんに一生を捧げるの?」
「勿論です。嫌がられるかもしれないけど」
「まだ若いのに? 後継者はどうするの? 親類もいないでしょう?」
「後継者はいりません。でも王家にこの領地を返納するつもりはないので、養子でもとりましょうか。この街の子供たちはなかなか有能だ」
「まあ、あなたが思うようにすればいいわ」
「あのね、マーガレットさん。僕はマリア嬢を納骨したとき、それを包んでいた彼女のベールを心を込めて解きました。結婚式のやり直しのつもりだったのです。あの納骨の日が僕とマリア嬢の本当の結婚式だったと思っています」
「律儀ねぇ」
マーガレットが頬に手を当てたとき、マリアが二人を呼びに来た。
「遅いから私がお昼ごはん作っちゃいましたよぉ?」
マーガレットとアレンは顔を見合わせて笑った。
しかしあの一件以来、一言も母のことを口にはしてこなかった。
自分がなぜあの話を受けたのか……そこに思い至るとき、どうしても母親のことが浮かんでしまう。
自分の罪の根幹が母親にかかる医療費だったなどという考えを持つことを心が拒否する。
母だって好きで寝たきりになっているわけでは無い。
でも父の残した貯えも領地も給料も全て注ぎ込んだのは事実だ。
アレンは母を憎いと思ったことは一度も無いが、自分の境遇には疲弊しきっていた。
給料では足りず、経験が浅いにも拘らず従軍を志願したこともある。
従軍すれば給料とは別に手当が出るからだ。
縦しんば死んだとしても、この貧乏生活から解放される……。
そう思って前線に向かったことも一度や二度ではない。
しかし、そのとき必ず父親の顔が浮かんだ。
『母さんを頼む』
これは父親が毒で苦しみながら最後に呟いた言葉だ。
アレンは父を尊敬していた。
その父から託されたのだ。
しかし、気持ちだけでは薬代は払えない。
このジレンマはアレンから覇気を削っていった。
第二王子の側近という話が来た時も、正直に言うと面倒だと思った。
しかし側近手当は魅力的な金額だったので、アレンは受けた。
休日も勤務時間も全て第二王子の一言で決まる職場環境は、真面目なアレンにとって苦痛以外の何物でもなかった。
『辞めたい』
アレンは毎日そう思いながら第二王子であるラウムに振り回されていた。
そんなラウムもアレンの母親のことだけは気にかけてくれていた。
薬を取りに行く日は必ず護衛の任から解放してくれたし、給料の前借りにも嫌な顔をしなかった。
『アレン、なんなら俺が個人的に融通しようか?』
そんな言葉を掛けてきたこともある。
しかしアレンはラウムの申し出を断った。
理由はない。
本当は喉から手が出るほど欲しい金。
最後に踏みとどまれたのはアレンが若いなりに経験してきた勘だった。
これにすがるとどんな無理難題を押し付けられるかわからない。
でも金は無い。
仲間内での食事会の時も、さり気なくアレンの分も一緒に払うラウムに、惨めさと悲しさを感じたが、ありがたく受けるしかない自分。
使用人には遅ればせながらもきちんと給与を渡していたが、必要最低限以下の人数で体裁を整えてくれている彼らには感謝しかなかった。
中でもメイド長はアレンのことを気にかけてくれていた。
アレンにとっては叔母のような存在だったのだ。
親類もいないアレンは、心の中で執事を叔父と思い、メイド長を叔母と思って信頼した。
そしてあの事件。
アレンは心の底から自分の見る目の無さに絶望した。
「あなたも大変だったのね」
まだマーガレットと2人で暮らしていた時に、問わず語りで話した自分の過去を、マーガレットは否定も肯定もしなかった。
話し終わったアレンの横に、車椅子を操りながら近寄ったマーガレットは、背中をぽんぽんと優しく撫でながら一緒に泣いてくれた。
その時ふと目に飛び込んだ窓から見える美しい牧草風景は、この地を守りたいという決意を新たにしてくれた。
「美しい夕暮れだった。庭にコクリコの花が揺れていたっけ」
そうつぶやいたアレンは立ち上がった。
ニコッと笑ってマーガレットの車椅子の持ち手を握りなおす。
「すみません、母の話にはどうも弱いみたいです。でも、本当に実現できたら嬉しいです」
「あら、実現させるのよ。馬の方はもう安定してきたのでしょう? だったら頑張るしかないわね?」
「マーガレットさんって結構人使い荒いですよね」
「そう? こんなに優しいおばあちゃんはいないと思うけど?」
「ええ、マーガレットさんは本当に聖人のような方です。そのお陰で僕は生きていられた」
「分かっているじゃないの」
「はい、感謝していますよ。本当に、心から」
「だったら私のお願いを聞いてくれないかしら」
「何でも言ってください」
「マリアをね……頼みたいの。私はもうすぐ天に召されるわ。そうなるとあの子が独りぼっちになってしまう。可哀想でしょう?」
「マリアさんの後見人になれということですか?」
「まあ、そんなようなものね」
「わかりました。必ずマリアさんが幸せに暮らせるように全力を尽くします。でもマーガレットさん。もうすぐ天に召されるなんて言わないでください。お願いします」
「そう? あなたがそう言うならそうしましょう。でも覚悟だけはしておいてね」
「嫌ですよ。覚悟なんてしません」
「ほほほ、わかったわ。もう言わない。そう言えばあなたは独身?」
「いいえ? 僕にはマリアという妻がいますよ?」
「でも彼女は第二王子の公妾になるために、あなたの正妻になっただけでしょう?本当の妻はルーナさんでしたっけ? その方じゃないの?」
「ルーナ……そうですね。今思えば彼女にも悪いことをしました。僕は彼女を逃げ場にしていたのでしょうね。愛していたのはウソじゃない。でも僕の妻はマリア嬢ですよ」
「彼女とは……もう終わったのね?」
「ええ、薄情だと思われるでしょうけれど、ここに着任してから、毎日が忙しすぎて彼女のことを考える暇も無かった。そのうちにあの頃の気持ちは消えてしまいました。忘れることはしませんが。でもそんな忙しい毎日でもマリア嬢のことは毎日考えていました。不思議ですよね。本当の顔も声も知らないのに」
「では、その正妻のマリアさんに一生を捧げるの?」
「勿論です。嫌がられるかもしれないけど」
「まだ若いのに? 後継者はどうするの? 親類もいないでしょう?」
「後継者はいりません。でも王家にこの領地を返納するつもりはないので、養子でもとりましょうか。この街の子供たちはなかなか有能だ」
「まあ、あなたが思うようにすればいいわ」
「あのね、マーガレットさん。僕はマリア嬢を納骨したとき、それを包んでいた彼女のベールを心を込めて解きました。結婚式のやり直しのつもりだったのです。あの納骨の日が僕とマリア嬢の本当の結婚式だったと思っています」
「律儀ねぇ」
マーガレットが頬に手を当てたとき、マリアが二人を呼びに来た。
「遅いから私がお昼ごはん作っちゃいましたよぉ?」
マーガレットとアレンは顔を見合わせて笑った。
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