消された過去と消えた宝石

志波 連

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39 宝石に宿るもの

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 すでに冷めきってしまったコーヒーをソーサーに戻し、小夜子はエトワールを抱きなおす。
 少し開けた窓から忍び込んだ風がカーテンを揺らし、小夜子をまた回想の中に引き戻した。
 薄水色の空に浮かんだ雲が斉藤の顔を思い出させる。
 斎藤の若かりし頃の話を聞いたのは、結婚してからだっただろうか。

 斉藤雅也が14歳になった夏、インドネシアから帰ってきた父親が連れてきた日焼けをした女の子。
 日本語をまったく理解せず、自分では名前も年齢も言えないような子だった。

 キラキラと光る瞳と、厚めの唇が印象的なその子の名前はサクラだと父親が言った。
 その日から家族経営の繊維会社で、掃除のまねごとをさせられることになったサクラ。
 夜になると手拭いを嚙みしめて、声を殺して泣くその娘が、雅也は不憫でならなかった。

 学業の合間にインドネシアの言葉を父親から学び、サクラとコミュニケーションがとれるように努力を続けた。
 元々優秀だった雅也は、高校に進むと父親の仕事を手伝うようになり、軍の上層部の人間たちと知り合うことになっていく。

 どこから資金を調達したのか知らないが、父親が運び込んだ大量の生糸を反物に織りあげ売りさばく日々。
 その金で木綿を仕入れ、軍服を量産しようと言い出したのは雅也だった。

 生糸の価格が安定の兆しを見せ始めると、父親は絹に見切りをつけた。
 儲けた金で機械を揃え、軍事用品の製造だけに絞り込む。
 戦争で面白いように儲かり、雅也は相当な額を勝手に動かすことができるようになった。
 税金として払うぐらいならと父親も黙認したのを良いことに、雅也は学費に困っている親しい友人に金を工面するようになる。

 その恩恵を一番受けたのが、山本充と田坂一郎だ。
 斉藤の金で山本は医師の道に進み、恩を感じた田坂は斉藤の仕事を手伝うようになる。

 戦争が激化し始め、空襲も酷くなってきた1944年。
 軍部との繋がりで兵役を逃れた雅也が23才になった冬のある日、父親が現金を全て宝石に替え青山墓苑にある先祖代々の墓に隠すと言い出した。

 自分では知り得ない情報を掴んだのだろうと考えた雅也は、何も言わず父親の言うとおりにした。
 そして1945年、大空襲が下町を襲い、仕事で新潟に行っていた雅也だけを残して斉藤一家は全滅した。
 何日もかかってやっと東京に辿り着いた雅也は、焼け果てた実家の前で、血だらけのまま蹲っていたサクラと遭遇する。

 聞けば最初の爆撃で川に投げ出され、桟橋の足にしがみついていたらしい。
 飛んでくる木片や瓦礫で酷いケガを負ったが、命だけは取り留めていたサクラ。
 雅也はサクラを抱きかかえ、父親から聞いていたサクラの母親がいる東小路家に向かった。

 しかし銀座にあった東小路の屋敷は全焼しており、当主も当主夫人も数年前に亡くなったという。
 燃え残った屋敷を片づけていた近所の住民から、当主夫人の姉の存在を聞き、雅也は東麻布にある烏丸家を訪ねることにした。

 ようやく辿り着いた烏丸の屋敷は、焼けてはいないがもぬけの殻で、もう長いこと人が住んでいない様子だった。
 抱きかかえていたサクラの顔を見た隣家の住人が、一時期ここに住んでいたパラメタを思い出して勝手に親戚だと勘違いし勝手口の場所を教えてくれた。
 家を失った雅也とサクラは、勧められるまま烏丸の屋敷で雨露を凌ぐことになる。

 医者もいなければ薬もないという状況の中、友人の山本を呼び出し治療を頼んだ。
 最終学年とはいえまだ学生だった山本も、大学の研究室から使えるものを持ち出し、できる限りの手を尽くした。
 しかし失血量が多かったのだろう。
 烏丸家の庭にある桜の枝に、固い蕾が見え始めた三月も終わろうという日の朝、サクラは帰らぬ人となった。

 奇しくも引き離されて二度と会うことが無かった母親が死んだ部屋で最後を迎えたサクラ。
 サクラの死亡を役場に届けようとした斉藤は、サクラに戸籍が無いことを思い出す。
 遠い異国の地で、幼い子供が苦労しか経験せず、戸籍もないまま無縁墓に葬られることを不憫に思った雅也は、地元の役場は台帳ごと全て焼失していることを利用して、サクラを昨年入籍した妻だと届け出た後、死亡届を提出した。

 死に際にサクラが雅也に伝えたパラメタと自分の血筋と弟の存在。
 たったそれだけの情報を元に、雅也はインドネシアに通い続けた。
 弟を探し当てたのは1980年、彼女の死から実に34年もの時間が経過していた。

 サクラとパラメタのルーツを探り当てた斎藤雅也が知った事実を、小夜子が聞かされたのは結婚して数年が経った頃だった。
 泣きながら語る雅也から、初めて『女神の涙』を見せられたその日。
 宝石を手にした小夜子の胸に、到底受け入れがたいほどの激情がこみ上げた。
 そしてその騒々しい感情は、今日まで小夜子の心を支配し続けている。

『殺せ! 殺せ! 私を売った鬼たちを! 私を買った鬼たちを! 私を抱いた鬼たちを!』

『八つ裂きにしろ! 深海に沈めろ! その魂に未来永劫の呪いを!』

 小夜子は湧き上がる衝動を抑えるために、強く唇をかんだ。
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