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それから数日経った日の午後、山中誠が小夜子の屋敷を訪れた。
「エトワールの件ですが、どうも難しそうですね。連れて行く方法はあるのですが、あちらに到着したら二週間ほど検疫期間があるので、辛い思いをさせるだけになりそうです」
「まあ、そんなに長いの? 私は二週間も滞在しないから無理ね。預けるとなると……ペットホテルかしら。不安だわ」
山中が少し考えてから、ポンと手を打った。
「市場先生に預けるというのはどうですか?」
「主治医の市場先生? それなら安心だけれど、預かっていただけるかしら」
「聞いてみますよ」
山中が内ポケットから手帳を出して受話器を握った。
にこやかに会話をしつつも、用件はしっかりと伝えている。
「預かって下さるそうですよ。そういう方は多いのだそうです」
「良かったわ。あそこなら安心ね」
小夜子が嬉しそうな顔をした。
山中が続けて言う。
「千代さんは難しいみたいですよ。店は休めるけれど、飛行機には絶対に乗りたくないと言っていました」
小夜子が驚いた顔をする。
山中は苦笑いするように口角を片方だけ上げた。
「ですからこちらからは三人ですね。山中先生は息子さんも同行するそうです」
「では五人ということね? 旅行に手配は山中先生がして下さるのかしら」
「ええ、そう伺っています。こちらが準備するのはパスポートだけですね」
「そう。では山中さん、いろいろ大変でしょうけれどよろしくね」
「畏まりました」
山中がリビングを出てキッチンに向かった。
今の会話を聞いていたのか、エトワールが小夜子の膝で小さく鳴いた。
「ごめんね、全部終わらせてくるから。いい子で待っていてちょうだい」
小夜子は艶やかな黒毛を撫でながら、窓の外に視線を投げた。
今年で全て終わらせる。
小夜子の決意は固かった。
祖母であるパラメタ・メラ・ムダが叔母のサクラと共に、奴隷のように連れてこられて60年という月日が過ぎている。
サクラは東小路の子飼いだった斉藤に引き取られ、日本での戸籍さえ与えられていない。
祖母のパラメタは、言葉もわからない異国の地で、連れてきた子供さえ取り上げられ、多くの貴族や軍上層部の人間達に、夜ごと『珍しい貢物』のように献上される日々だった。
そんな地獄のような三年が過ぎ、誰が父親なのかもわからない子を身籠ってしまったパラメタ。連れてきた子供の行方も知らされないまま、失意の中で死を選ぼうとしていた彼女を救ったのは、東小路の正妻である麦穂だった。
「逃げなさい。私の姉が助けてくれるわ」
「オクサマ……」
「酷いよね。酷すぎるよね……あんな鬼畜どもはみんな死んでしまえば良いのにね。あなたは姉の家で安心して子供を産みなさい。生まれた子供は私が責任をもって東小路の子として守るから」
「アリガトゴザマス……オクサマ」
「明日から主人は出張に出るわ。私は姉に会いに烏丸家へ行くと言ってあるから、一緒に連れて行ってあげる」
烏丸家当主の正妻である稲実は、東小路家正妻の麦穂の実姉だった。
烏丸家の側室も妊娠中で、パラメタとほぼ同時期に産み月を迎える。
正妻である稲実が、すでに嫡男を生んでいるにもかかわらず、側室を迎えた夫に愛想を尽かしており、側室もまた金で買われただけの女だった。
烏丸家当主が出征している今しかパラメタを逃がすチャンスは無い。
しかも東小路の当主である栄記は、一度海外出張に出ると数年は戻らないのだ。
そして無事に逃げのびたパラメタは、烏丸家で出産した。
しかし、身も心もボロボロになっていたパラメタは、赤子の産声を聞いてすぐに力尽きて亡くなってしまった。
ほぼ同時期に出産した烏丸の側妃がパラメタの子に乳を与え、麦穂によって小百合と名付けた。
小百合は烏丸家当主が戻るまでの二年、側妃と共に屋敷の離れで育つことになる。
パラメタが亡くなった後の麦穂の行動は早かった。
当主が不在の間にパラメタを東小路の側妃として届け出て、その子供である小百合を当主の子として戸籍に載せた。
大金を動かすことに夢中になっている東小路は何も知らないまま、異国の血を引く子の実父となり、その顔も知らぬまま死んだ。
「亡くなったって言っても、大叔母様が殺したのだから、きっと仇をとって下さったんだわ」
東小路の当主がいなくなった屋敷に引き取られてきた小百合は、麦穂を母として不自由なく育った。
そして大戦が始まり、東京でも空襲の被害が出始めた1943年、学童疎開が始まる。
明日は出発という日、麦穂は小百合にパラメタが受けた屈辱と無念を言い聞かせ、この先どう生きるかを教えた。
パラメタから預かっていた『女神の涙』を小百合に渡し、絶対に誰にも見せてはいけないし、肌身から離してはいけないと言い聞かせたのだった。
烏丸家の二人の子と小百合を、東小路家の使用人だった夫婦に託し疎開させ、伊豆長岡に送り出した東小路麦穂と烏丸稲実の姉妹は、手を取り合って自害した。
当時は本土上陸した敵兵によって婦女子は全て凌辱されると言われていたためだ。
烏丸の側妃は自決を拒否し、子供をおいて姿を消した。
伊豆長岡に疎開した三人の子供たちは孤児となってしまったが、麦穂が渡した金で不自由なく終戦を迎えることになる。
三人を育てた使用人夫婦には、烏丸家の幼い当主となった信也よりひとつ下の女児がいた。
信也と小百合は別格扱いしていたが、側妃の子は自分の子供と同じように育てた。
側妃の子の名は千代、使用人の子の名は玲子。
千代は終戦後もそのまま伊豆長岡に残り、結婚して長谷部千代となった。
玲子は信也と小百合と共に東京に戻り、焼け残った烏丸家でメイドとして働いた。
大学生となった信也が連れてきた友人に紹介され結婚。
後に小夜子の養母となる田坂玲子その人だ。
「エトワールの件ですが、どうも難しそうですね。連れて行く方法はあるのですが、あちらに到着したら二週間ほど検疫期間があるので、辛い思いをさせるだけになりそうです」
「まあ、そんなに長いの? 私は二週間も滞在しないから無理ね。預けるとなると……ペットホテルかしら。不安だわ」
山中が少し考えてから、ポンと手を打った。
「市場先生に預けるというのはどうですか?」
「主治医の市場先生? それなら安心だけれど、預かっていただけるかしら」
「聞いてみますよ」
山中が内ポケットから手帳を出して受話器を握った。
にこやかに会話をしつつも、用件はしっかりと伝えている。
「預かって下さるそうですよ。そういう方は多いのだそうです」
「良かったわ。あそこなら安心ね」
小夜子が嬉しそうな顔をした。
山中が続けて言う。
「千代さんは難しいみたいですよ。店は休めるけれど、飛行機には絶対に乗りたくないと言っていました」
小夜子が驚いた顔をする。
山中は苦笑いするように口角を片方だけ上げた。
「ですからこちらからは三人ですね。山中先生は息子さんも同行するそうです」
「では五人ということね? 旅行に手配は山中先生がして下さるのかしら」
「ええ、そう伺っています。こちらが準備するのはパスポートだけですね」
「そう。では山中さん、いろいろ大変でしょうけれどよろしくね」
「畏まりました」
山中がリビングを出てキッチンに向かった。
今の会話を聞いていたのか、エトワールが小夜子の膝で小さく鳴いた。
「ごめんね、全部終わらせてくるから。いい子で待っていてちょうだい」
小夜子は艶やかな黒毛を撫でながら、窓の外に視線を投げた。
今年で全て終わらせる。
小夜子の決意は固かった。
祖母であるパラメタ・メラ・ムダが叔母のサクラと共に、奴隷のように連れてこられて60年という月日が過ぎている。
サクラは東小路の子飼いだった斉藤に引き取られ、日本での戸籍さえ与えられていない。
祖母のパラメタは、言葉もわからない異国の地で、連れてきた子供さえ取り上げられ、多くの貴族や軍上層部の人間達に、夜ごと『珍しい貢物』のように献上される日々だった。
そんな地獄のような三年が過ぎ、誰が父親なのかもわからない子を身籠ってしまったパラメタ。連れてきた子供の行方も知らされないまま、失意の中で死を選ぼうとしていた彼女を救ったのは、東小路の正妻である麦穂だった。
「逃げなさい。私の姉が助けてくれるわ」
「オクサマ……」
「酷いよね。酷すぎるよね……あんな鬼畜どもはみんな死んでしまえば良いのにね。あなたは姉の家で安心して子供を産みなさい。生まれた子供は私が責任をもって東小路の子として守るから」
「アリガトゴザマス……オクサマ」
「明日から主人は出張に出るわ。私は姉に会いに烏丸家へ行くと言ってあるから、一緒に連れて行ってあげる」
烏丸家当主の正妻である稲実は、東小路家正妻の麦穂の実姉だった。
烏丸家の側室も妊娠中で、パラメタとほぼ同時期に産み月を迎える。
正妻である稲実が、すでに嫡男を生んでいるにもかかわらず、側室を迎えた夫に愛想を尽かしており、側室もまた金で買われただけの女だった。
烏丸家当主が出征している今しかパラメタを逃がすチャンスは無い。
しかも東小路の当主である栄記は、一度海外出張に出ると数年は戻らないのだ。
そして無事に逃げのびたパラメタは、烏丸家で出産した。
しかし、身も心もボロボロになっていたパラメタは、赤子の産声を聞いてすぐに力尽きて亡くなってしまった。
ほぼ同時期に出産した烏丸の側妃がパラメタの子に乳を与え、麦穂によって小百合と名付けた。
小百合は烏丸家当主が戻るまでの二年、側妃と共に屋敷の離れで育つことになる。
パラメタが亡くなった後の麦穂の行動は早かった。
当主が不在の間にパラメタを東小路の側妃として届け出て、その子供である小百合を当主の子として戸籍に載せた。
大金を動かすことに夢中になっている東小路は何も知らないまま、異国の血を引く子の実父となり、その顔も知らぬまま死んだ。
「亡くなったって言っても、大叔母様が殺したのだから、きっと仇をとって下さったんだわ」
東小路の当主がいなくなった屋敷に引き取られてきた小百合は、麦穂を母として不自由なく育った。
そして大戦が始まり、東京でも空襲の被害が出始めた1943年、学童疎開が始まる。
明日は出発という日、麦穂は小百合にパラメタが受けた屈辱と無念を言い聞かせ、この先どう生きるかを教えた。
パラメタから預かっていた『女神の涙』を小百合に渡し、絶対に誰にも見せてはいけないし、肌身から離してはいけないと言い聞かせたのだった。
烏丸家の二人の子と小百合を、東小路家の使用人だった夫婦に託し疎開させ、伊豆長岡に送り出した東小路麦穂と烏丸稲実の姉妹は、手を取り合って自害した。
当時は本土上陸した敵兵によって婦女子は全て凌辱されると言われていたためだ。
烏丸の側妃は自決を拒否し、子供をおいて姿を消した。
伊豆長岡に疎開した三人の子供たちは孤児となってしまったが、麦穂が渡した金で不自由なく終戦を迎えることになる。
三人を育てた使用人夫婦には、烏丸家の幼い当主となった信也よりひとつ下の女児がいた。
信也と小百合は別格扱いしていたが、側妃の子は自分の子供と同じように育てた。
側妃の子の名は千代、使用人の子の名は玲子。
千代は終戦後もそのまま伊豆長岡に残り、結婚して長谷部千代となった。
玲子は信也と小百合と共に東京に戻り、焼け残った烏丸家でメイドとして働いた。
大学生となった信也が連れてきた友人に紹介され結婚。
後に小夜子の養母となる田坂玲子その人だ。
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