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35 50年の謎

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 ホワイトボードの前に立った伊藤が神妙な顔をして口を開いた。

「あくまでも予想です。いや、妄想と言った方が正しいかもしれません」

 伊藤の言葉に藤田の喉がゴクッと鳴った。

「東小路は『桃色の宝石』という名を持った王族の姫君とその娘を日本に連れ帰った。それは人質のようなものです。この二人を担保に何かを提供したのだと思います。そして恐らくそれはインドネシア独立のための資金でしょう」

 伊藤はそこまで一気に喋った。
 二人は一言も発せず次の言葉を待っている。

「しかし独立運動が遅々として進まないうちに、満州事変が始まって、どんどん戦争が拡大していったんです。ここで敵国となる欧州にゴールドを売った金を持って帰ったら戦犯扱いだ」

 課長が何度も頷いた。

「なるほど、それで独立運動に投資したのか。その資金を回収するための担保がジャワ王族の姫君というわけだな? そうなるとインドネシア独立運動というより民族間の主権争いかもしれんな。それとも指導者争いか? ジャワ王族の姫君を差し出してでも欲しかった資金……酷い話だな。利権争いに巻き込まれて、子供ごと売られたようなもんだ」

「そうですね。あの頃は世界中が狂っていた時代です、何があっても不思議じゃない。そして返済時の条件が王女若しくはその血筋の人間と、それを証明する宝石『女神の涙』ではないでしょうか」

「それが斉藤が小夜子を離さない理由か? ちょっと弱いな。そもそも斉藤は50年後、自分が何歳になっているかなんて分かっていたはずだ。もしかしたら生きてないかもしれない。そんなロングスパンな賭けをするかな」

「ですよね……辻褄を合わせ過ぎましたか」

「違うとは言ってないんだ。ただ他にも何かありそうじゃないか?」

 三人は黙ったまま考え込んだ。
 藤田がふと顔を上げる。

「実は逆ってことないですか? せっかく連れ帰ったはいいけれど、王女の血筋と宝石をセットで返さなくては戻らない何か大切なものを握られてしまって50年待たされることになったとか」

「誰に握られてるんだ?」

「当時の民族運動メンバーって今も政治の中枢にいるんですよね? その人達とか?」

 課長が口を開く。

「まあ絶対に無いとは言わんが、ちょっと突拍子もないな。もしかしたら日本側かもしれんぞ。敗戦国日本は相当な賠償金を背負ったんだ。その交渉には十年以上もかかったらしいが、東小路が提供していた資金を返さない代わりに、賠償金を値切ったという事も考えられる。そのくらいインドネシア側の賠償請求と日本側の賠償提示額には乖離があった」

 伊藤が課長の顔を見た。

「ということは斉藤が握っているのは日本側の弱み? まあ斉藤の葬儀に参列した顔ぶれを考えると無きにしも非ずという気はしますが。しかしそれだと王女の血筋と宝石の関係が浮いてしまいませんか?」

「う~ん、どれも決め手に欠けるな……もう少し時間が必要か」

「そうですね。どちらにしても小夜子が『女神の涙』を隠す理由にはなりません。引き続き調べてみますよ」

 伊藤がホワイトボードに視線を戻した。
 思い出したように課長が言う。
 その時、資料室の扉が乱暴に開かれた。

「至急戻ってきてください。大島物産の会長宅から空き巣の通報がありました。被害額からしても大捕り物になりそうです」

 三人は一斉に立ち上がり、資料室係に片づけを頼んで部屋を出た。





 その同時刻、小夜子は橘弁護士事務所を訪れていた。

「では先生、後のことはよろしくお願いします」

 そう言いながら小夜子は橘弁護士の前に、委任状と斉藤の実印を置いた。

「もう一度確認しますが、ご自身の口座に移された現金以外は、全額寄付ということで間違いないですね? 残っている有価証券や不動産も全て換金で良いのですね?」

「ええ、問題ございません。お陰様で斉藤が随分な資産を残してくれましたから、私が一人で生きていくのに不自由はありませんわ」

「しかし……なんとも思い切りの良いことですね」

「そうでしょうね。でも私には不要なものです。私が持ち腐らせるより、有効に使った方が斉藤も喜ぶでしょう」

「わかりました。それではこちらにサインをお願いいたします」

 小夜子は差し出された書類を丹念に読んでから、すらすらとサインをした。

「それから復氏届は無事に受理されましたよ。昨日付で斉藤小夜子さんは烏丸小夜子さんになりました。それにしても田坂さんとは随分早くに養子縁組を解消されていたのですね」

「ええ、斉藤に嫁ぐときに一旦養子縁組を解消し、烏丸に戻ってから斉藤になったのです。これは斉藤が言い出したことですが、今となっては良かったと思っています」

「理由をお伺いしても?」

「やはり生まれたときの名前には思い入れがございます。それにこの苗字を名乗れる人間は、もう私だけですから。田坂の家は養父の親戚がおりますから途絶えることはありません」

「なるほど。烏丸家といえば由緒ある家名ですからね。守りたいというお気持ちはわかりますよ。お母様のご実家も無くなっているのでしたか?」

「ええ、母の実家の方が早かったのです。母が烏丸に嫁いで消えましたわ」

「確かお母様も元華族家でしたね?」

「ええ、東小路家です」

「そうですか。不勉強でどのような歴史をお持ちなのかは存じませんが、烏丸家の名が復活するのは喜ばしいことです。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「寄付のご名義は烏丸小夜子さん名義で良いですね?」

「はい、そうしてください。遺言通り一旦はすべて私が相続し、税金などの諸経費と使用人三人への退職金を支払ってください。そして私名義の口座に、すでにお伝えしてある金額を入金していただき、残金は全て寄付ということでお願いします」

「お任せください」

「ああ、先生への報酬金もしっかりと引いてくださいね」

「ありがとうございます。ついでと言っては語弊がありますが、烏丸小夜子さんの顧問弁護士料も永代契約額もこちらからお支払いいただく手続きをしておきます。どのような些細な事でも承りますから、遠慮なく利用してくださいね」

「心強いですわ。寄付をする先はお伝えしている通りでお願いします」

「承知しました。新聞に載りそうなほどの大金ですからね。多くの子供たちが救われると思いますよ」

 小夜子が立ち上がった。

「それでは私はこれで」

「もう伊豆長岡に戻られるのですか?」

「ええ、かわいいエトワールが待っておりますから。ああ、そうだわ。忘れるところでした。一応約束しましたので、伊藤さんと藤田さんという刑事さんたちには引っ越しをしたことを伝えておいていただけませんか?」

「わかりました。そうしましょう」

 小夜子はにこやかな笑顔を残して去って行った。
 見送った橘は、一仕事終えたというように大きな息を吐いてからドアを閉めた。

「まさに巨星墜つというところだな。一時代が終わったような感じか」

 橘は誰に言うでもなくそう呟き、執務机に戻った。
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