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30 烏丸小百合
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「その斎藤さくらの弟っていうのは、何歳くらいだったんだ?」
翌日の昼過ぎに、蕎麦屋に向かう車の中で課長が伊藤に話しかけた。
「どうでしょう。還暦を迎えたくらいじゃないかなと思いましたが、東南アジア系の人って年齢がわかりにくいですよね」
「仕事で来てるんだっけ? まだ現役ってことだよな? 俺と同じくらいかな」
「そうかもしれません。蕎麦屋の親父も同じくらいじゃないかと思いますよ」
「そうか……」
どこか感慨深げな課長が流れゆく車窓に顔を向ける。
空気を読めないのか読まないのか、ハンドルを握る藤田が能天気に言った。
「俺は今日も天丼セットにします。蕎麦はもちろん大盛で」
「今日は驕らんぞ」
伊藤の言葉に藤田が肩を落とす。
「え……じゃあ……もり蕎麦だけで……」
課長がプッと吹き出した。
「今日は俺が驕ろう。何でも頼め」
元気のよい返事を車内に響かせ、グッと一段スピードが上がる。
助手席に座る伊藤は、昨日から調べている小夜子の母についての情報を思い出していた。
夫を亡くし、息子だけが親戚に引き取られて行った後、結婚前まで烏丸家でメイドをしていた田坂玲子の口利きで伊豆長岡に移り住んだ。
すでに住む者もいなくなった玲子の実家に、幼い娘と二人で暮らし始めた小百合は、それからすぐに息子の死を知らされることになる。
息子を養子として迎えてくれた親戚からの仕送りだけが頼りだったが、当の息子が死んだとなれば、これ以上の援助は望めない。
華族令嬢として育った小百合は藤間流の名取りだった。
日本舞踊が踊れるということは、酒宴に呼ばれても即戦力になるということで、温泉旅館で働くことがすぐに決まった。
しかし当時の温泉旅館で、ただ踊るだけの女が娘と二人暮らせるほど稼げるはずもなく、周りに流されるように客をとるようになったのだろう。
朝まで帰らぬ母を一人待つ小夜子はどれほど心細かったことだろう。
その頃同じ温泉町でホステスをやっていた長谷部千代と知り合った小百合は、いろいろなことを相談し合う仲になる。
長谷部千代とは、斉藤家のメイドをしているあの千代だ。
偶然かもしれないが、斉藤が仕組んだ必然かもしれない。
伊藤は後者だと考えていた。
そして四年ほどそんな暮らしを続けていた小百合に、身請け話が持ち上がる。
相手は当然斉藤雅也。
座敷に出ることを止めた小百合は、斎藤雅也の囲われ者になった。
伊藤はふと考える。
もしかすると斉藤は小百合の中に最初の妻の面影を見たのかもしれない。
十八歳で長男を出産したばかりの小百合は、輝くような美しさだったに違いない。
その姿を山中が勤めるデパートで見かけた斉藤は、小百合に執着したのではないだろうか。
何年もかけて夫である烏丸信也を消し、偶然を装ってかつての使用人である玲子に近寄らせて、虫がつかないように千代に見張らせたのではないだろうか。
小百合は斉藤によって、堕ちるべくして堕ちたのだ。
小百合を手に入れた斉藤は、その時に初めて小夜子に会ったのだ。
当時の小夜子は十五歳。
まさに幼な妻が亡くなった年齢だ。
小百合に似ている小夜子は、当然最初の妻であるさくらを彷彿とさせただろう。
やっと手に入れた小百合でさえ霞むほどの執着を抱いたとしても不思議ではない。
そして小百合を隠し、死んだことにして子飼いの田坂に小夜子を引き取らせる。
少女が女に変わる過程の全てをその目で楽しみ、亡き幼な妻の成長に重ねていたと想像するのは考え過ぎだろうか。
小百合が死に、遂に手に入れた小夜子を初めて抱いた時、斉藤はどんな思いだっただろう。
しかしこれはすべて伊藤の想像でしかない。
「着きましたよ。今日は意外と道が混んでましたね」
課長を先頭に暖簾をくぐると、いつもの女店員が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。先日はたくさんのご厚志をありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。良いものを見せていただきました」
伊藤の声に気付いたのだろう、ブディが顔を出す。
「いらっしゃいませ」
「やあ、昨日は不思議なところでお会いしましたね」
「本当に。昨日の方もすぐに来られます。それまでに蕎麦を手繰られますか?」
インドネシアから来た留学生の口から『蕎麦を手繰る』という古風な日本語を聞いた伊藤は、なぜか嬉しくなって大きく頷いた。
嬉々として天丼をかきこむ藤田を前に、課長と伊藤は黙ってもり蕎麦を啜る。
二人とも大盛を頼んだのは、若い藤田へのせめてもの対抗だ。
それぞれが蕎麦猪口に蕎麦湯を注いでいると、ガラッと音がして店のドアが開いた。
「コンニチハ」
弾かれた様に顔をあげると、昨日熱心に墓石を拭いていた男が立っていた。
気を利かせたのだろう、店主が暖簾を下げて休店札を出している。
食器が引かれ、蕎麦店には不似合いの香り高いコーヒーがテーブルに並んだ。
「通訳としてブディも同席させます」
親父が静かに言った。
「お気遣いありがとうございます」
三人はそれぞれ名刺を渡し、昨日の非礼を改めて詫びた。
「刑事さんでしたか。なるほど納得しました。それで? 昨日あそこにおられたのは何かの捜査ですか?」
「実は被害届が取り下げられてしまったので、正確には捜査ではありません。誤解を恐れずに申しますと、ただの刑事の興味です。これほど摩訶不思議な事件は今までありませんでしたから、気になって仕方がないのですよ」
課長が困ったような表情を浮かべながら、言い訳のような言葉を口にした。
「事件でないということならお話になっても大丈夫なのでしょう?」
「あ……いや、個人情報が大量に含まれますので、お話しできることは多くありません」
課長が伊藤の顔を見た。
伊藤が鼻から大きく息を吸って、思い切るように声を出す。
「単刀直入にお伺いします。あなたはサム・ワン・チェンさんですね?」
ブディが通訳すると、男が驚いた顔で伊藤を見た。
誰も口を開かない。
遠くから聞こえる救急車のサイレンの音が、妙に耳に残った。
翌日の昼過ぎに、蕎麦屋に向かう車の中で課長が伊藤に話しかけた。
「どうでしょう。還暦を迎えたくらいじゃないかなと思いましたが、東南アジア系の人って年齢がわかりにくいですよね」
「仕事で来てるんだっけ? まだ現役ってことだよな? 俺と同じくらいかな」
「そうかもしれません。蕎麦屋の親父も同じくらいじゃないかと思いますよ」
「そうか……」
どこか感慨深げな課長が流れゆく車窓に顔を向ける。
空気を読めないのか読まないのか、ハンドルを握る藤田が能天気に言った。
「俺は今日も天丼セットにします。蕎麦はもちろん大盛で」
「今日は驕らんぞ」
伊藤の言葉に藤田が肩を落とす。
「え……じゃあ……もり蕎麦だけで……」
課長がプッと吹き出した。
「今日は俺が驕ろう。何でも頼め」
元気のよい返事を車内に響かせ、グッと一段スピードが上がる。
助手席に座る伊藤は、昨日から調べている小夜子の母についての情報を思い出していた。
夫を亡くし、息子だけが親戚に引き取られて行った後、結婚前まで烏丸家でメイドをしていた田坂玲子の口利きで伊豆長岡に移り住んだ。
すでに住む者もいなくなった玲子の実家に、幼い娘と二人で暮らし始めた小百合は、それからすぐに息子の死を知らされることになる。
息子を養子として迎えてくれた親戚からの仕送りだけが頼りだったが、当の息子が死んだとなれば、これ以上の援助は望めない。
華族令嬢として育った小百合は藤間流の名取りだった。
日本舞踊が踊れるということは、酒宴に呼ばれても即戦力になるということで、温泉旅館で働くことがすぐに決まった。
しかし当時の温泉旅館で、ただ踊るだけの女が娘と二人暮らせるほど稼げるはずもなく、周りに流されるように客をとるようになったのだろう。
朝まで帰らぬ母を一人待つ小夜子はどれほど心細かったことだろう。
その頃同じ温泉町でホステスをやっていた長谷部千代と知り合った小百合は、いろいろなことを相談し合う仲になる。
長谷部千代とは、斉藤家のメイドをしているあの千代だ。
偶然かもしれないが、斉藤が仕組んだ必然かもしれない。
伊藤は後者だと考えていた。
そして四年ほどそんな暮らしを続けていた小百合に、身請け話が持ち上がる。
相手は当然斉藤雅也。
座敷に出ることを止めた小百合は、斎藤雅也の囲われ者になった。
伊藤はふと考える。
もしかすると斉藤は小百合の中に最初の妻の面影を見たのかもしれない。
十八歳で長男を出産したばかりの小百合は、輝くような美しさだったに違いない。
その姿を山中が勤めるデパートで見かけた斉藤は、小百合に執着したのではないだろうか。
何年もかけて夫である烏丸信也を消し、偶然を装ってかつての使用人である玲子に近寄らせて、虫がつかないように千代に見張らせたのではないだろうか。
小百合は斉藤によって、堕ちるべくして堕ちたのだ。
小百合を手に入れた斉藤は、その時に初めて小夜子に会ったのだ。
当時の小夜子は十五歳。
まさに幼な妻が亡くなった年齢だ。
小百合に似ている小夜子は、当然最初の妻であるさくらを彷彿とさせただろう。
やっと手に入れた小百合でさえ霞むほどの執着を抱いたとしても不思議ではない。
そして小百合を隠し、死んだことにして子飼いの田坂に小夜子を引き取らせる。
少女が女に変わる過程の全てをその目で楽しみ、亡き幼な妻の成長に重ねていたと想像するのは考え過ぎだろうか。
小百合が死に、遂に手に入れた小夜子を初めて抱いた時、斉藤はどんな思いだっただろう。
しかしこれはすべて伊藤の想像でしかない。
「着きましたよ。今日は意外と道が混んでましたね」
課長を先頭に暖簾をくぐると、いつもの女店員が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。先日はたくさんのご厚志をありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。良いものを見せていただきました」
伊藤の声に気付いたのだろう、ブディが顔を出す。
「いらっしゃいませ」
「やあ、昨日は不思議なところでお会いしましたね」
「本当に。昨日の方もすぐに来られます。それまでに蕎麦を手繰られますか?」
インドネシアから来た留学生の口から『蕎麦を手繰る』という古風な日本語を聞いた伊藤は、なぜか嬉しくなって大きく頷いた。
嬉々として天丼をかきこむ藤田を前に、課長と伊藤は黙ってもり蕎麦を啜る。
二人とも大盛を頼んだのは、若い藤田へのせめてもの対抗だ。
それぞれが蕎麦猪口に蕎麦湯を注いでいると、ガラッと音がして店のドアが開いた。
「コンニチハ」
弾かれた様に顔をあげると、昨日熱心に墓石を拭いていた男が立っていた。
気を利かせたのだろう、店主が暖簾を下げて休店札を出している。
食器が引かれ、蕎麦店には不似合いの香り高いコーヒーがテーブルに並んだ。
「通訳としてブディも同席させます」
親父が静かに言った。
「お気遣いありがとうございます」
三人はそれぞれ名刺を渡し、昨日の非礼を改めて詫びた。
「刑事さんでしたか。なるほど納得しました。それで? 昨日あそこにおられたのは何かの捜査ですか?」
「実は被害届が取り下げられてしまったので、正確には捜査ではありません。誤解を恐れずに申しますと、ただの刑事の興味です。これほど摩訶不思議な事件は今までありませんでしたから、気になって仕方がないのですよ」
課長が困ったような表情を浮かべながら、言い訳のような言葉を口にした。
「事件でないということならお話になっても大丈夫なのでしょう?」
「あ……いや、個人情報が大量に含まれますので、お話しできることは多くありません」
課長が伊藤の顔を見た。
伊藤が鼻から大きく息を吸って、思い切るように声を出す。
「単刀直入にお伺いします。あなたはサム・ワン・チェンさんですね?」
ブディが通訳すると、男が驚いた顔で伊藤を見た。
誰も口を開かない。
遠くから聞こえる救急車のサイレンの音が、妙に耳に残った。
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