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28 さくら
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「ここまでの疑問点を洗い出してみようか」
資料室に入るなり口を開いた伊藤に、藤田が頷いて見せる。
「大筋は先ほどの説明で良いと思うのですが、俺が一番疑問なのは遠い親戚とは言え、なぜ市場正平が協力したのかです。それと小夜子が親の復讐を心に秘めて斉藤に嫁いだのなら、なぜ十年も待ったのか……待つ必要性は何だったのでしょうね」
「うん、それだよな。そして出品者との繋がりだ」
「もう一度小夜子の出自を洗う必要がありますね。古い人物名鑑って図書館にありますかね。国立ならあるかな。俺ちょっと行ってきます」
藤田が元気よく立ち上がった。
伊藤は座ったまま手を振り、手元の資料に目を戻す。
「斉藤小夜子、1962年6月2日生まれの32歳か。二十一歳で斉藤雅也と結婚、斉藤は再婚と……ん? 再婚? 初婚はいつだ?」
手元の資料を片っ端から探す。
「あった……1944年か。二十三歳じゃないか。卒業と同時に結婚したってことか。名前は斉藤さくら。歳は……十五。え? 十五?」
その幼さに違和感を覚えた伊藤は資料を丁寧に読み込んだ。
「旧姓も斉藤ってことか? 偶然にしては出来過ぎだ」
伊藤の独り言がどんどん大きくなっている。
「ん? 戸籍焼失により本人申告により記載……マジか……」
あの大戦が1945年に終わって今年で五十年。
もうとっくに過去になったような気分になっていた戦後生まれの伊藤だが、いまだに生々しい傷痕は消えていないということを実感した。
人が人であることを放棄する行為である戦争は、今もまだ世界のどこかで起きている。
神に祈ろうと仏に縋ろうと、人間の本能が戦争を手放さないのだろうか。
「本能のままに生きるなんて、野生の猿と同じじゃねえか。人間には理性ってもんがあるだろうに……」
無性に腹立たしさを覚えた伊藤は、机の上に放り投げていた煙草を手に立ち上がった。
非常階段に続く鉄扉を押し開けると、先客がいた。
「ああ、課長。お疲れ様です」
声を出さずに片手だけを上げて応える課長の目には疲労が浮かんでいた。
「そう言えばお前たち、俺を誘わずに蕎麦屋に行ったのか。薄情な奴らだな」
「偶然ですよ。斉藤邸に行った帰りに思い立って寄っただけです。でもお陰で収穫がありましたけどね」
「そうだな。それにしてもあの旨い蕎麦を打っていたのがインドネシアの留学生とは驚きだ」
「私も驚きました。とても誠実そうな青年でしたよ。彼ならとても丁寧な仕事をしそうだ」
「そうか、品質に人種は関係ないのかもな」
「それにあの蕎麦屋の親父も日系のインドネシア人でしたからね。それにも驚きましたよ」
「日系インドネシア人の話なら聞いた事があるよ。侵略者の子供って呼ばれてたんだろ? あの頃は逃げるように来日して遠い親戚を頼って国籍を得る子供がたくさんいたんだってさ」
「子供? 子供だけが逃げて来るんですか? 親は?」
「親は来ないパターンは多かった。日系っていうのが拙かったんだ。逃げのびたのは、ある程度金がある家の子だけだっただろうけどな」
「課長っていくつでしたっけ」
「俺は今年で五十四だ。定年まであと少しの草臥れたおっさんだよ」
「……返事に困るようなこと言わないでくださいよ。それにしても課長でもそういう子供を知ってるってんですね」
「ああ、そういう子は戦前から多かったらしい。東南アジア諸国には日本人がたくさん行っていたからな。いわゆる現地妻ってやつだ。蕎麦屋のおやじも苦労したんだろう」
「そうかもしれませんね」
「蕎麦が食いたくなったな。明日にでも行くか?」
伊藤がフッと笑顔を浮かべた。
「お供します」
煙草をバケツに放り込んだ課長が鉄扉を開けた。
伊藤は残って二本目の煙草に火をつける。
掴みかけているのにどこか靄が晴れないような気分のまま、紫煙を吐き出していた伊藤の耳に、自分を呼ぶ藤田の声が届いた。
「おい、ここだ」
鉄扉を開けて声を掛けると、神妙な顔で走り寄って来る。
その額にはびっしりと汗の玉が張り付いていて、急いで来たことが伺えた。
「俺、とっても頑張っちゃいましたよ」
「なんだ?」
「名鑑で烏丸を調べるついでに同級生だろう元華族をピックアップしたんです。この近くに住んでいる人がいたので、ダメもとで訪ねたら面白い話が聞けました」
「面白い話?」
「ええ、同級生って言っても死んだ息子の一也の方なのですが、その同級生は一也が結核で死ぬわけがないと言うのです。親が死んだと聞かされて早退した日もピンピンしてたらしいですよ。烏丸信也が死んだのが七月二日、そして息子の一也が結核で死んだのが八月の二十九日。その前日まで一也と一緒に遊んでいたと証言してくれました」
「え? どういうことだ?」
「面白いでしょ? 当時の烏丸家は西麻布にあって、話をしてくれた人の実家は六本木だったそうです。家も近いからよく遊んでいたんですって。通学も一緒の車で行ってたそうですからかなり仲が良かったのでしょうね。それが、二学期から急に来なくなって、担任から結核で死んだと聞かされて驚いたって言ってました。当時一年生に入学したばかりの小夜子も、一学期だけだけれど一緒に通学していたそうですよ」
「そりゃ凄い情報だな。一也の死因が結核というのは疑わしいのか……小夜子より三つ上だよな?」
「ええ、当時十歳ですね」
「戦後ならまだしも、結核で死ぬって、あの頃だと珍しい時代だぜ?」
「匂いますよね。烏丸家の墓所は青山ですし、斉藤家の墓所も青山です。行ってみます?」
「ああ、行ってみよう。俺も気になることがあるんだ」
二人は非常階段の踊り場をそのまま降りて、駐車場に向かった。
資料室に入るなり口を開いた伊藤に、藤田が頷いて見せる。
「大筋は先ほどの説明で良いと思うのですが、俺が一番疑問なのは遠い親戚とは言え、なぜ市場正平が協力したのかです。それと小夜子が親の復讐を心に秘めて斉藤に嫁いだのなら、なぜ十年も待ったのか……待つ必要性は何だったのでしょうね」
「うん、それだよな。そして出品者との繋がりだ」
「もう一度小夜子の出自を洗う必要がありますね。古い人物名鑑って図書館にありますかね。国立ならあるかな。俺ちょっと行ってきます」
藤田が元気よく立ち上がった。
伊藤は座ったまま手を振り、手元の資料に目を戻す。
「斉藤小夜子、1962年6月2日生まれの32歳か。二十一歳で斉藤雅也と結婚、斉藤は再婚と……ん? 再婚? 初婚はいつだ?」
手元の資料を片っ端から探す。
「あった……1944年か。二十三歳じゃないか。卒業と同時に結婚したってことか。名前は斉藤さくら。歳は……十五。え? 十五?」
その幼さに違和感を覚えた伊藤は資料を丁寧に読み込んだ。
「旧姓も斉藤ってことか? 偶然にしては出来過ぎだ」
伊藤の独り言がどんどん大きくなっている。
「ん? 戸籍焼失により本人申告により記載……マジか……」
あの大戦が1945年に終わって今年で五十年。
もうとっくに過去になったような気分になっていた戦後生まれの伊藤だが、いまだに生々しい傷痕は消えていないということを実感した。
人が人であることを放棄する行為である戦争は、今もまだ世界のどこかで起きている。
神に祈ろうと仏に縋ろうと、人間の本能が戦争を手放さないのだろうか。
「本能のままに生きるなんて、野生の猿と同じじゃねえか。人間には理性ってもんがあるだろうに……」
無性に腹立たしさを覚えた伊藤は、机の上に放り投げていた煙草を手に立ち上がった。
非常階段に続く鉄扉を押し開けると、先客がいた。
「ああ、課長。お疲れ様です」
声を出さずに片手だけを上げて応える課長の目には疲労が浮かんでいた。
「そう言えばお前たち、俺を誘わずに蕎麦屋に行ったのか。薄情な奴らだな」
「偶然ですよ。斉藤邸に行った帰りに思い立って寄っただけです。でもお陰で収穫がありましたけどね」
「そうだな。それにしてもあの旨い蕎麦を打っていたのがインドネシアの留学生とは驚きだ」
「私も驚きました。とても誠実そうな青年でしたよ。彼ならとても丁寧な仕事をしそうだ」
「そうか、品質に人種は関係ないのかもな」
「それにあの蕎麦屋の親父も日系のインドネシア人でしたからね。それにも驚きましたよ」
「日系インドネシア人の話なら聞いた事があるよ。侵略者の子供って呼ばれてたんだろ? あの頃は逃げるように来日して遠い親戚を頼って国籍を得る子供がたくさんいたんだってさ」
「子供? 子供だけが逃げて来るんですか? 親は?」
「親は来ないパターンは多かった。日系っていうのが拙かったんだ。逃げのびたのは、ある程度金がある家の子だけだっただろうけどな」
「課長っていくつでしたっけ」
「俺は今年で五十四だ。定年まであと少しの草臥れたおっさんだよ」
「……返事に困るようなこと言わないでくださいよ。それにしても課長でもそういう子供を知ってるってんですね」
「ああ、そういう子は戦前から多かったらしい。東南アジア諸国には日本人がたくさん行っていたからな。いわゆる現地妻ってやつだ。蕎麦屋のおやじも苦労したんだろう」
「そうかもしれませんね」
「蕎麦が食いたくなったな。明日にでも行くか?」
伊藤がフッと笑顔を浮かべた。
「お供します」
煙草をバケツに放り込んだ課長が鉄扉を開けた。
伊藤は残って二本目の煙草に火をつける。
掴みかけているのにどこか靄が晴れないような気分のまま、紫煙を吐き出していた伊藤の耳に、自分を呼ぶ藤田の声が届いた。
「おい、ここだ」
鉄扉を開けて声を掛けると、神妙な顔で走り寄って来る。
その額にはびっしりと汗の玉が張り付いていて、急いで来たことが伺えた。
「俺、とっても頑張っちゃいましたよ」
「なんだ?」
「名鑑で烏丸を調べるついでに同級生だろう元華族をピックアップしたんです。この近くに住んでいる人がいたので、ダメもとで訪ねたら面白い話が聞けました」
「面白い話?」
「ええ、同級生って言っても死んだ息子の一也の方なのですが、その同級生は一也が結核で死ぬわけがないと言うのです。親が死んだと聞かされて早退した日もピンピンしてたらしいですよ。烏丸信也が死んだのが七月二日、そして息子の一也が結核で死んだのが八月の二十九日。その前日まで一也と一緒に遊んでいたと証言してくれました」
「え? どういうことだ?」
「面白いでしょ? 当時の烏丸家は西麻布にあって、話をしてくれた人の実家は六本木だったそうです。家も近いからよく遊んでいたんですって。通学も一緒の車で行ってたそうですからかなり仲が良かったのでしょうね。それが、二学期から急に来なくなって、担任から結核で死んだと聞かされて驚いたって言ってました。当時一年生に入学したばかりの小夜子も、一学期だけだけれど一緒に通学していたそうですよ」
「そりゃ凄い情報だな。一也の死因が結核というのは疑わしいのか……小夜子より三つ上だよな?」
「ええ、当時十歳ですね」
「戦後ならまだしも、結核で死ぬって、あの頃だと珍しい時代だぜ?」
「匂いますよね。烏丸家の墓所は青山ですし、斉藤家の墓所も青山です。行ってみます?」
「ああ、行ってみよう。俺も気になることがあるんだ」
二人は非常階段の踊り場をそのまま降りて、駐車場に向かった。
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