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23 ノアール 

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 伊藤が飲みかけの缶コーヒーを握ったまま話し始める。

「いろいろお世話になりましたが……斉藤邸の件、被害届が取り下げられましたのでご報告に参りました」

 市場医師は不思議そうな顔で小首を傾げた。

「それはわざわざどうも」

「先生は小夜子未亡人の親戚筋ですよね? そのことを小夜子さんご本人はご存じですか?」

「ええ、ご存じですよ。彼女は覚えてないみたいですが、私が小さかった頃には、少しですがまだ家同士の交流があったのですよ。おじさんが死んじゃってから疎遠になりましたが」

「それであなたは覚えておられた?」

「彼女とは三つ違いなのですが、何と言うか……あの頃のままの笑顔だったので思い出したって言うか? ダメもとで聞いてみたら本人だったという感じですかね」

「なるほど。小夜子さんがここに来るようになった経緯は?」

「坂本さん繋がりですよ。私が坂本さんのところの猫ちゃんを譲り受けたのが、今から五年前です。それまでもずっと坂本くろべえちゃんを診ていたのですが、あまりの美しさに私の方が惚れこんでしまいましてね。子供が出来たら譲ってほしいとずっと頼んでいたのです」

「それがあの写真の?」

「そうです。可愛いでしょう?ノアールと言います。何のひねりも無い名前ですが」

「……ノアールちゃんはメスですか?」

「ええ、もう何度も出産経験がある熟女ですよ。ははは」

 何がおかしいのかという顔をする藤田を伊藤が目で諫めた。

「ノアールちゃんの子供がエトワール?」

「ええそうです。坂本さんが斉藤家に出入りしている時に、猫の話になって譲ってほしいと頼まれたのだと聞きました。ノアールの二回目の出産の子だったかな? 代金はいただきましたが保護猫団体に寄付しましたので金額までは覚えていません」

「保護猫団体といえば、エトワールの子供も同じようになさったとか?」

「ええ、小夜子さんから頼まれて私が手続きしました。振込用紙もありますよ。確認されますか? 確か引き出しに……」

「いえ、それは結構です。もし必要ならまたお伺いします」

 市場医師が小さく何度も頷いた。

「それにしても……何の御用ですか? 被害届が取り下げられたというご報告ではないのですか?」

「あっ……すみません。刑事という職業柄、気になるとつい矢継ぎ早に質問をしてしまうのです。もう少しお付き合いください。先ほどエトワールを抱き上げたのですが、腹に無かったはずの傷がありました。避妊手術の必要があったのですか?」

「ええ、あの子の出産がかなり重くて、もう子供は産ませない方が良いだろうと判断したのです。だから避妊手術を勧めて、先々週にここで行いました。順調に回復しているはずですが何かありましたか?」

「いいえ、元気そうでしたよ。出産後には無かった傷だったので気になっただけです」

「なるほど。猫は年に二回から三回ほど発情期を迎えます。初産が済んで、次の発情期が来る前に処置をした方が良いと判断しました」

「良く分かりました。小夜子さんはよくここに来られるのですか?」

「いいえ? 来られたことは一度も無いんじゃないかな? 定期健診は執事さんかメイドさんが連れて来るし、急病の時は私が往診に行きますしね。小猫の引き渡しも私が行きました」

「来たことが無い?」

「ええ、斉藤さんが外出を許さないみたいで。飼育環境も確認できたし良かったですけどね」

「連絡は山中さん経由ですか?」

「いいえ、電話で直接お話しします。まあ、それほど話すことも無いのですが。もちろん執事の方から電話があることもありましたよ」

「それはだいたい何時ころですか?」

「覚えていませんが、私が電話できるとしたら休診時間でしょうね」

「ありがとうございました」

 伊藤と藤田は何度も礼を言いながら病院を出た。

「怪しいところが……無いですね」

「ああ、怪しくなさ過ぎて逆に怪しいよ」

 パトカーの運転席で藤田が隣に座った伊藤に聞く。

「めし、どうします?」

「切り替えが早いな……じゃあ蕎麦屋にでも行くか」

「五反田ですね? 俺は天丼セットにしようっと」

 飛び去る景色を眺めながら伊藤がふと声を出す。

「ここからだとインドネシア大使館のところを通るのか?」

「通らないですけど、回りましょうか?」

「じゃあ、もう一度斉藤邸を一回りして、インドネシア大使館の前を通って蕎麦屋に行こう」

 藤田がニヤッと笑う。

「伊藤さんとドライブか……」

「まあそう言うな。今日は驕ってやる」

「あざっす! 天丼セット大盛でお願いします」

「……好きなだけ食え」

 斉藤邸の屋根が見え始める。
 そしてパトカーは斉藤家の勝手口に隣接したビルの前を通り過ぎた。

「あ、あれって美奈さんですよね」

 藤田の声に反応した伊藤だが、すでに通り過ぎた後だった。

「美奈か……勝手口ならそうだろうな」

「あの人たちどうするんですかね」

「どうするんだろうな……て言うか、小夜子夫人は伊豆長岡で一人で住むのか? あんな大富豪の夫人が家事なんてできるのかな」

「そりゃお手伝いさんでも雇うでしょう? ああ、それなら千代さんか美奈さんを連れて行けばいいのに」

「そうだよな? でもそれらしい素振りは無かったよなぁ」

「どうなのでしょうね」

 二人を乗せたパトカーは渋滞に巻き込まれることもなく、順調に走る。
 有名な老舗ホテルの前を走り抜け、五反田に差し掛かろうとする手前の交差点を左折した。
 高い塀に囲まれたインドネシア大使館の前を通り過ぎる。

「ここ見てもしょうがないでしょ?」

「まあ、そうなんだが……」

 車はそのまま大通りを進み、すぐに蕎麦屋の前に到着した。
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