23 / 66
23 ノアール
しおりを挟む
伊藤が飲みかけの缶コーヒーを握ったまま話し始める。
「いろいろお世話になりましたが……斉藤邸の件、被害届が取り下げられましたのでご報告に参りました」
市場医師は不思議そうな顔で小首を傾げた。
「それはわざわざどうも」
「先生は小夜子未亡人の親戚筋ですよね? そのことを小夜子さんご本人はご存じですか?」
「ええ、ご存じですよ。彼女は覚えてないみたいですが、私が小さかった頃には、少しですがまだ家同士の交流があったのですよ。おじさんが死んじゃってから疎遠になりましたが」
「それであなたは覚えておられた?」
「彼女とは三つ違いなのですが、何と言うか……あの頃のままの笑顔だったので思い出したって言うか? ダメもとで聞いてみたら本人だったという感じですかね」
「なるほど。小夜子さんがここに来るようになった経緯は?」
「坂本さん繋がりですよ。私が坂本さんのところの猫ちゃんを譲り受けたのが、今から五年前です。それまでもずっと坂本くろべえちゃんを診ていたのですが、あまりの美しさに私の方が惚れこんでしまいましてね。子供が出来たら譲ってほしいとずっと頼んでいたのです」
「それがあの写真の?」
「そうです。可愛いでしょう?ノアールと言います。何のひねりも無い名前ですが」
「……ノアールちゃんはメスですか?」
「ええ、もう何度も出産経験がある熟女ですよ。ははは」
何がおかしいのかという顔をする藤田を伊藤が目で諫めた。
「ノアールちゃんの子供がエトワール?」
「ええそうです。坂本さんが斉藤家に出入りしている時に、猫の話になって譲ってほしいと頼まれたのだと聞きました。ノアールの二回目の出産の子だったかな? 代金はいただきましたが保護猫団体に寄付しましたので金額までは覚えていません」
「保護猫団体といえば、エトワールの子供も同じようになさったとか?」
「ええ、小夜子さんから頼まれて私が手続きしました。振込用紙もありますよ。確認されますか? 確か引き出しに……」
「いえ、それは結構です。もし必要ならまたお伺いします」
市場医師が小さく何度も頷いた。
「それにしても……何の御用ですか? 被害届が取り下げられたというご報告ではないのですか?」
「あっ……すみません。刑事という職業柄、気になるとつい矢継ぎ早に質問をしてしまうのです。もう少しお付き合いください。先ほどエトワールを抱き上げたのですが、腹に無かったはずの傷がありました。避妊手術の必要があったのですか?」
「ええ、あの子の出産がかなり重くて、もう子供は産ませない方が良いだろうと判断したのです。だから避妊手術を勧めて、先々週にここで行いました。順調に回復しているはずですが何かありましたか?」
「いいえ、元気そうでしたよ。出産後には無かった傷だったので気になっただけです」
「なるほど。猫は年に二回から三回ほど発情期を迎えます。初産が済んで、次の発情期が来る前に処置をした方が良いと判断しました」
「良く分かりました。小夜子さんはよくここに来られるのですか?」
「いいえ? 来られたことは一度も無いんじゃないかな? 定期健診は執事さんかメイドさんが連れて来るし、急病の時は私が往診に行きますしね。小猫の引き渡しも私が行きました」
「来たことが無い?」
「ええ、斉藤さんが外出を許さないみたいで。飼育環境も確認できたし良かったですけどね」
「連絡は山中さん経由ですか?」
「いいえ、電話で直接お話しします。まあ、それほど話すことも無いのですが。もちろん執事の方から電話があることもありましたよ」
「それはだいたい何時ころですか?」
「覚えていませんが、私が電話できるとしたら休診時間でしょうね」
「ありがとうございました」
伊藤と藤田は何度も礼を言いながら病院を出た。
「怪しいところが……無いですね」
「ああ、怪しくなさ過ぎて逆に怪しいよ」
パトカーの運転席で藤田が隣に座った伊藤に聞く。
「めし、どうします?」
「切り替えが早いな……じゃあ蕎麦屋にでも行くか」
「五反田ですね? 俺は天丼セットにしようっと」
飛び去る景色を眺めながら伊藤がふと声を出す。
「ここからだとインドネシア大使館のところを通るのか?」
「通らないですけど、回りましょうか?」
「じゃあ、もう一度斉藤邸を一回りして、インドネシア大使館の前を通って蕎麦屋に行こう」
藤田がニヤッと笑う。
「伊藤さんとドライブか……」
「まあそう言うな。今日は驕ってやる」
「あざっす! 天丼セット大盛でお願いします」
「……好きなだけ食え」
斉藤邸の屋根が見え始める。
そしてパトカーは斉藤家の勝手口に隣接したビルの前を通り過ぎた。
「あ、あれって美奈さんですよね」
藤田の声に反応した伊藤だが、すでに通り過ぎた後だった。
「美奈か……勝手口ならそうだろうな」
「あの人たちどうするんですかね」
「どうするんだろうな……て言うか、小夜子夫人は伊豆長岡で一人で住むのか? あんな大富豪の夫人が家事なんてできるのかな」
「そりゃお手伝いさんでも雇うでしょう? ああ、それなら千代さんか美奈さんを連れて行けばいいのに」
「そうだよな? でもそれらしい素振りは無かったよなぁ」
「どうなのでしょうね」
二人を乗せたパトカーは渋滞に巻き込まれることもなく、順調に走る。
有名な老舗ホテルの前を走り抜け、五反田に差し掛かろうとする手前の交差点を左折した。
高い塀に囲まれたインドネシア大使館の前を通り過ぎる。
「ここ見てもしょうがないでしょ?」
「まあ、そうなんだが……」
車はそのまま大通りを進み、すぐに蕎麦屋の前に到着した。
「いろいろお世話になりましたが……斉藤邸の件、被害届が取り下げられましたのでご報告に参りました」
市場医師は不思議そうな顔で小首を傾げた。
「それはわざわざどうも」
「先生は小夜子未亡人の親戚筋ですよね? そのことを小夜子さんご本人はご存じですか?」
「ええ、ご存じですよ。彼女は覚えてないみたいですが、私が小さかった頃には、少しですがまだ家同士の交流があったのですよ。おじさんが死んじゃってから疎遠になりましたが」
「それであなたは覚えておられた?」
「彼女とは三つ違いなのですが、何と言うか……あの頃のままの笑顔だったので思い出したって言うか? ダメもとで聞いてみたら本人だったという感じですかね」
「なるほど。小夜子さんがここに来るようになった経緯は?」
「坂本さん繋がりですよ。私が坂本さんのところの猫ちゃんを譲り受けたのが、今から五年前です。それまでもずっと坂本くろべえちゃんを診ていたのですが、あまりの美しさに私の方が惚れこんでしまいましてね。子供が出来たら譲ってほしいとずっと頼んでいたのです」
「それがあの写真の?」
「そうです。可愛いでしょう?ノアールと言います。何のひねりも無い名前ですが」
「……ノアールちゃんはメスですか?」
「ええ、もう何度も出産経験がある熟女ですよ。ははは」
何がおかしいのかという顔をする藤田を伊藤が目で諫めた。
「ノアールちゃんの子供がエトワール?」
「ええそうです。坂本さんが斉藤家に出入りしている時に、猫の話になって譲ってほしいと頼まれたのだと聞きました。ノアールの二回目の出産の子だったかな? 代金はいただきましたが保護猫団体に寄付しましたので金額までは覚えていません」
「保護猫団体といえば、エトワールの子供も同じようになさったとか?」
「ええ、小夜子さんから頼まれて私が手続きしました。振込用紙もありますよ。確認されますか? 確か引き出しに……」
「いえ、それは結構です。もし必要ならまたお伺いします」
市場医師が小さく何度も頷いた。
「それにしても……何の御用ですか? 被害届が取り下げられたというご報告ではないのですか?」
「あっ……すみません。刑事という職業柄、気になるとつい矢継ぎ早に質問をしてしまうのです。もう少しお付き合いください。先ほどエトワールを抱き上げたのですが、腹に無かったはずの傷がありました。避妊手術の必要があったのですか?」
「ええ、あの子の出産がかなり重くて、もう子供は産ませない方が良いだろうと判断したのです。だから避妊手術を勧めて、先々週にここで行いました。順調に回復しているはずですが何かありましたか?」
「いいえ、元気そうでしたよ。出産後には無かった傷だったので気になっただけです」
「なるほど。猫は年に二回から三回ほど発情期を迎えます。初産が済んで、次の発情期が来る前に処置をした方が良いと判断しました」
「良く分かりました。小夜子さんはよくここに来られるのですか?」
「いいえ? 来られたことは一度も無いんじゃないかな? 定期健診は執事さんかメイドさんが連れて来るし、急病の時は私が往診に行きますしね。小猫の引き渡しも私が行きました」
「来たことが無い?」
「ええ、斉藤さんが外出を許さないみたいで。飼育環境も確認できたし良かったですけどね」
「連絡は山中さん経由ですか?」
「いいえ、電話で直接お話しします。まあ、それほど話すことも無いのですが。もちろん執事の方から電話があることもありましたよ」
「それはだいたい何時ころですか?」
「覚えていませんが、私が電話できるとしたら休診時間でしょうね」
「ありがとうございました」
伊藤と藤田は何度も礼を言いながら病院を出た。
「怪しいところが……無いですね」
「ああ、怪しくなさ過ぎて逆に怪しいよ」
パトカーの運転席で藤田が隣に座った伊藤に聞く。
「めし、どうします?」
「切り替えが早いな……じゃあ蕎麦屋にでも行くか」
「五反田ですね? 俺は天丼セットにしようっと」
飛び去る景色を眺めながら伊藤がふと声を出す。
「ここからだとインドネシア大使館のところを通るのか?」
「通らないですけど、回りましょうか?」
「じゃあ、もう一度斉藤邸を一回りして、インドネシア大使館の前を通って蕎麦屋に行こう」
藤田がニヤッと笑う。
「伊藤さんとドライブか……」
「まあそう言うな。今日は驕ってやる」
「あざっす! 天丼セット大盛でお願いします」
「……好きなだけ食え」
斉藤邸の屋根が見え始める。
そしてパトカーは斉藤家の勝手口に隣接したビルの前を通り過ぎた。
「あ、あれって美奈さんですよね」
藤田の声に反応した伊藤だが、すでに通り過ぎた後だった。
「美奈か……勝手口ならそうだろうな」
「あの人たちどうするんですかね」
「どうするんだろうな……て言うか、小夜子夫人は伊豆長岡で一人で住むのか? あんな大富豪の夫人が家事なんてできるのかな」
「そりゃお手伝いさんでも雇うでしょう? ああ、それなら千代さんか美奈さんを連れて行けばいいのに」
「そうだよな? でもそれらしい素振りは無かったよなぁ」
「どうなのでしょうね」
二人を乗せたパトカーは渋滞に巻き込まれることもなく、順調に走る。
有名な老舗ホテルの前を走り抜け、五反田に差し掛かろうとする手前の交差点を左折した。
高い塀に囲まれたインドネシア大使館の前を通り過ぎる。
「ここ見てもしょうがないでしょ?」
「まあ、そうなんだが……」
車はそのまま大通りを進み、すぐに蕎麦屋の前に到着した。
2
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
RoomNunmber「000」
誠奈
ミステリー
ある日突然届いた一通のメール。
そこには、報酬を与える代わりに、ある人物を誘拐するよう書かれていて……
丁度金に困っていた翔真は、訝しみつつも依頼を受け入れ、幼馴染の智樹を誘い、実行に移す……が、そこである事件に巻き込まれてしまう。
二人は密室となった部屋から出ることは出来るのだろうか?
※この作品は、以前別サイトにて公開していた物を、作者名及び、登場人物の名称等加筆修正を加えた上で公開しております。
※BL要素かなり薄いですが、匂わせ程度にはありますのでご注意を。
【完結】少女探偵・小林声と13の物理トリック
暗闇坂九死郞
ミステリー
私立探偵の鏑木俊はある事件をきっかけに、小学生男児のような外見の女子高生・小林声を助手に迎える。二人が遭遇する13の謎とトリック。
鏑木 俊 【かぶらき しゅん】……殺人事件が嫌いな私立探偵。
小林 声 【こばやし こえ】……探偵助手にして名探偵の少女。事件解決の為なら手段は選ばない。
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
有栖と奉日本『幸福のブラックキャット』
ぴえ
ミステリー
警察と相対する治安維持組織『ユースティティア』に所属する有栖。
彼女は謹慎中に先輩から猫探しの依頼を受ける。
そのことを表と裏社会に通じるカフェ&バーを経営する奉日本に相談するが、猫探しは想定外の展開に繋がって行く――
表紙・キャラクター制作:studio‐lid様(twitter:@studio_lid)
没入劇場の悪夢:天才高校生が挑む最恐の密室殺人トリック
葉羽
ミステリー
演劇界の巨匠が仕掛ける、観客没入型の新作公演。だが、幕開け直前に主宰は地下密室で惨殺された。完璧な密室、奇妙な遺体、そして出演者たちの不可解な証言。現場に居合わせた天才高校生・神藤葉羽は、迷宮のような劇場に潜む戦慄の真実へと挑む。錯覚と現実が交錯する悪夢の舞台で、葉羽は観客を欺く究極の殺人トリックを暴けるのか? 幼馴染・望月彩由美との淡い恋心を胸に秘め、葉羽は劇場に潜む「何か」に立ち向かう。だが、それは想像を絶する恐怖の幕開けだった…。
マクデブルクの半球
ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。
高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。
電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう───
「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」
自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。
忘却の魔法
平塚冴子
ミステリー
フリーライターの梶は、ある年老いた脳科学者の死について調べていた。
その学者は脳内が爆弾でも仕掛けられたかのように、あちこちの血管が切れて多量の脳内出血で亡くなっていた。
彼の研究には謎が多かった。
そして…国が内密に研究している、『忘却魔法』と呼ばれる秘密に触れる事になる。
鍵となる人物『18番』を探して辿り着いたのは…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる