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17 猫の腹

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 この香りには覚えがある。
 カップを鼻の前に持って行きながら、山中信一郎が声を出した。

「ああ……懐かしいな。このコーヒーを教えてくれたのは斉藤さんでしたよ。まだ学生の私にも惜しげもなく淹れてくれて……本当に懐かしい」

「コピ・ルアックですよね。斉藤さんはこれがお好きだったのですね」

「ええ、昔から好きだったみたいですね。何でも若い頃に、長期滞在されていたとか聞いたことがあります。そこで覚えたのでしょうね」

「インドネシアですか」

「倒れるまでは父と一緒に年に一度は必ず訪問してましたよ。シンガポールだったりバリだったりいろいろですが、あの地域ばかりでしたね。好きなんでしょうね、あの雰囲気が」

「なるほど。それほどなら行けなくなってお寂しかったでしょうね」

「新婚の頃には小夜子夫人も同行したんじゃなかったかな。父には邪魔だから遠慮しろと言ったのですが、三人で行ってましたね。斉藤さんが行けなくなってからも、父は一人で行ってました」

「お一人で?」

「ええ、だから母が言ってたのです。きっと現地妻がいるのだろうって。私は笑っていましたが、そう思われても仕方がないくらい欠かさず毎年行ってましたね」

「今年はまだ?」

「ええ、行くのは大抵五月でしたから、本当ならそろそろなのでしょうけれど、さすがに今年はどうでしょうね。ほらボロブドゥール寺院っていうのがあるでしょう? そこに行くのですよ。たしか数年前に世界文化遺産に登録されたんじゃなかったかな」

「不勉強でよく存じませんが、なんだか凄そうですね」

「そうですね」

 同行していた医師たちは黙ったままコピ・ルアックの香りを堪能している。
 伊藤はすでに冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した。
 山本信一郎医師が立ち上がる。

「我々はこれで。ここから先は管轄外だ。では失礼します」

「ご苦労様でした」

 客間に一人残った伊藤は、習慣のようにポケットの煙草に手を伸ばしたが、まだ部屋に漂っている良い香りを惜しんで手を引っ込めた。

「伊藤さん、葬儀屋が来るようです」

「課長には?」

「連絡はしました。すぐに向かうとのことでした」

「そうか……」

 二人は黙ったままソファーに座っていた。
 開いたままのドアから黒猫が入ってきて、伊藤の向かいのソファーに陣取った。

「なんだか我々に慣れてきてますよね」

「ああ、もともと大人しい子だったものな。しかし猫ってのは歳がわからんなぁ。小夜子夫人の話だと二歳らしいが、何と言うか貫禄がある」

「まあ二歳といっても出産経験もある立派な大人ですもんね」

「そうだな」

 そう言うと伊藤は立ち上がり、体をゆったりと横たえたエトワールの腹を撫でた。

「皮が戻ってる。早いな」

「へぇ……そんなに皮が余ってたのですか?」

「ああ、出産直後はタルンタルンだったよ。傷が無いか確認もしたが、乳が張っていて、どう見ても出産したばかりの母猫だった」

「出入りしたのは猫だけなんですがねぇ……斉藤はオークション記事でショックを受けたのでしょうか」

「わからんがその可能性は高いよな。後で山中に確認しよう」

「山中さんは無理かもです。走り回ってますよ。聞くならむしろ山本医師か小夜子夫人かな」

「聞きづらいな……」

「仕事だぞ。つまらん感傷は捨てろ」

 入ってきたのは三課の課長だった。

「ああ、課長。ご苦労様です」

「……この香り……お前たちはまた俺を差し置いて」

「そう言われましても」

 藤田がお道化た顔をした。
 カップを下げに来た美奈が初見の男を見て驚いている。
 伊藤が慌てて紹介すると、ペコっと頭を下げて出て行った。

「今のは?」

「山中美奈四十二歳です。執事の山中の姪で離婚後ここでメイドをしています」

「当日は?」

「一緒に倒れた斉藤を運んでいます。その後はもう一人のメイドと一緒にずっと寝室に待機していました」

「そうか」

 気を利かせた美奈が課長の前にコーヒーを置いた。
 課長の口角がぴくっと上がる。

「もうすぐ執事が参りますので、今しばらくこちらでお待ちください」

「お気遣いなく。この度はご愁傷さまでした」

 ぺコンと頭を下げた美奈が部屋を出た。
 
「凄いな……これは本物だ」

「偽物もあるのですか?」

 課長は伊藤の言葉に返事もせず、コーヒーに集中している。

「お待たせしました」

 執事の山中が客間に顔を出した。
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