17 / 66
17 猫の腹
しおりを挟む
この香りには覚えがある。
カップを鼻の前に持って行きながら、山中信一郎が声を出した。
「ああ……懐かしいな。このコーヒーを教えてくれたのは斉藤さんでしたよ。まだ学生の私にも惜しげもなく淹れてくれて……本当に懐かしい」
「コピ・ルアックですよね。斉藤さんはこれがお好きだったのですね」
「ええ、昔から好きだったみたいですね。何でも若い頃に、長期滞在されていたとか聞いたことがあります。そこで覚えたのでしょうね」
「インドネシアですか」
「倒れるまでは父と一緒に年に一度は必ず訪問してましたよ。シンガポールだったりバリだったりいろいろですが、あの地域ばかりでしたね。好きなんでしょうね、あの雰囲気が」
「なるほど。それほどなら行けなくなってお寂しかったでしょうね」
「新婚の頃には小夜子夫人も同行したんじゃなかったかな。父には邪魔だから遠慮しろと言ったのですが、三人で行ってましたね。斉藤さんが行けなくなってからも、父は一人で行ってました」
「お一人で?」
「ええ、だから母が言ってたのです。きっと現地妻がいるのだろうって。私は笑っていましたが、そう思われても仕方がないくらい欠かさず毎年行ってましたね」
「今年はまだ?」
「ええ、行くのは大抵五月でしたから、本当ならそろそろなのでしょうけれど、さすがに今年はどうでしょうね。ほらボロブドゥール寺院っていうのがあるでしょう? そこに行くのですよ。たしか数年前に世界文化遺産に登録されたんじゃなかったかな」
「不勉強でよく存じませんが、なんだか凄そうですね」
「そうですね」
同行していた医師たちは黙ったままコピ・ルアックの香りを堪能している。
伊藤はすでに冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した。
山本信一郎医師が立ち上がる。
「我々はこれで。ここから先は管轄外だ。では失礼します」
「ご苦労様でした」
客間に一人残った伊藤は、習慣のようにポケットの煙草に手を伸ばしたが、まだ部屋に漂っている良い香りを惜しんで手を引っ込めた。
「伊藤さん、葬儀屋が来るようです」
「課長には?」
「連絡はしました。すぐに向かうとのことでした」
「そうか……」
二人は黙ったままソファーに座っていた。
開いたままのドアから黒猫が入ってきて、伊藤の向かいのソファーに陣取った。
「なんだか我々に慣れてきてますよね」
「ああ、もともと大人しい子だったものな。しかし猫ってのは歳がわからんなぁ。小夜子夫人の話だと二歳らしいが、何と言うか貫禄がある」
「まあ二歳といっても出産経験もある立派な大人ですもんね」
「そうだな」
そう言うと伊藤は立ち上がり、体をゆったりと横たえたエトワールの腹を撫でた。
「皮が戻ってる。早いな」
「へぇ……そんなに皮が余ってたのですか?」
「ああ、出産直後はタルンタルンだったよ。傷が無いか確認もしたが、乳が張っていて、どう見ても出産したばかりの母猫だった」
「出入りしたのは猫だけなんですがねぇ……斉藤はオークション記事でショックを受けたのでしょうか」
「わからんがその可能性は高いよな。後で山中に確認しよう」
「山中さんは無理かもです。走り回ってますよ。聞くならむしろ山本医師か小夜子夫人かな」
「聞きづらいな……」
「仕事だぞ。つまらん感傷は捨てろ」
入ってきたのは三課の課長だった。
「ああ、課長。ご苦労様です」
「……この香り……お前たちはまた俺を差し置いて」
「そう言われましても」
藤田がお道化た顔をした。
カップを下げに来た美奈が初見の男を見て驚いている。
伊藤が慌てて紹介すると、ペコっと頭を下げて出て行った。
「今のは?」
「山中美奈四十二歳です。執事の山中の姪で離婚後ここでメイドをしています」
「当日は?」
「一緒に倒れた斉藤を運んでいます。その後はもう一人のメイドと一緒にずっと寝室に待機していました」
「そうか」
気を利かせた美奈が課長の前にコーヒーを置いた。
課長の口角がぴくっと上がる。
「もうすぐ執事が参りますので、今しばらくこちらでお待ちください」
「お気遣いなく。この度はご愁傷さまでした」
ぺコンと頭を下げた美奈が部屋を出た。
「凄いな……これは本物だ」
「偽物もあるのですか?」
課長は伊藤の言葉に返事もせず、コーヒーに集中している。
「お待たせしました」
執事の山中が客間に顔を出した。
カップを鼻の前に持って行きながら、山中信一郎が声を出した。
「ああ……懐かしいな。このコーヒーを教えてくれたのは斉藤さんでしたよ。まだ学生の私にも惜しげもなく淹れてくれて……本当に懐かしい」
「コピ・ルアックですよね。斉藤さんはこれがお好きだったのですね」
「ええ、昔から好きだったみたいですね。何でも若い頃に、長期滞在されていたとか聞いたことがあります。そこで覚えたのでしょうね」
「インドネシアですか」
「倒れるまでは父と一緒に年に一度は必ず訪問してましたよ。シンガポールだったりバリだったりいろいろですが、あの地域ばかりでしたね。好きなんでしょうね、あの雰囲気が」
「なるほど。それほどなら行けなくなってお寂しかったでしょうね」
「新婚の頃には小夜子夫人も同行したんじゃなかったかな。父には邪魔だから遠慮しろと言ったのですが、三人で行ってましたね。斉藤さんが行けなくなってからも、父は一人で行ってました」
「お一人で?」
「ええ、だから母が言ってたのです。きっと現地妻がいるのだろうって。私は笑っていましたが、そう思われても仕方がないくらい欠かさず毎年行ってましたね」
「今年はまだ?」
「ええ、行くのは大抵五月でしたから、本当ならそろそろなのでしょうけれど、さすがに今年はどうでしょうね。ほらボロブドゥール寺院っていうのがあるでしょう? そこに行くのですよ。たしか数年前に世界文化遺産に登録されたんじゃなかったかな」
「不勉強でよく存じませんが、なんだか凄そうですね」
「そうですね」
同行していた医師たちは黙ったままコピ・ルアックの香りを堪能している。
伊藤はすでに冷めてしまったコーヒーを一息に飲み干した。
山本信一郎医師が立ち上がる。
「我々はこれで。ここから先は管轄外だ。では失礼します」
「ご苦労様でした」
客間に一人残った伊藤は、習慣のようにポケットの煙草に手を伸ばしたが、まだ部屋に漂っている良い香りを惜しんで手を引っ込めた。
「伊藤さん、葬儀屋が来るようです」
「課長には?」
「連絡はしました。すぐに向かうとのことでした」
「そうか……」
二人は黙ったままソファーに座っていた。
開いたままのドアから黒猫が入ってきて、伊藤の向かいのソファーに陣取った。
「なんだか我々に慣れてきてますよね」
「ああ、もともと大人しい子だったものな。しかし猫ってのは歳がわからんなぁ。小夜子夫人の話だと二歳らしいが、何と言うか貫禄がある」
「まあ二歳といっても出産経験もある立派な大人ですもんね」
「そうだな」
そう言うと伊藤は立ち上がり、体をゆったりと横たえたエトワールの腹を撫でた。
「皮が戻ってる。早いな」
「へぇ……そんなに皮が余ってたのですか?」
「ああ、出産直後はタルンタルンだったよ。傷が無いか確認もしたが、乳が張っていて、どう見ても出産したばかりの母猫だった」
「出入りしたのは猫だけなんですがねぇ……斉藤はオークション記事でショックを受けたのでしょうか」
「わからんがその可能性は高いよな。後で山中に確認しよう」
「山中さんは無理かもです。走り回ってますよ。聞くならむしろ山本医師か小夜子夫人かな」
「聞きづらいな……」
「仕事だぞ。つまらん感傷は捨てろ」
入ってきたのは三課の課長だった。
「ああ、課長。ご苦労様です」
「……この香り……お前たちはまた俺を差し置いて」
「そう言われましても」
藤田がお道化た顔をした。
カップを下げに来た美奈が初見の男を見て驚いている。
伊藤が慌てて紹介すると、ペコっと頭を下げて出て行った。
「今のは?」
「山中美奈四十二歳です。執事の山中の姪で離婚後ここでメイドをしています」
「当日は?」
「一緒に倒れた斉藤を運んでいます。その後はもう一人のメイドと一緒にずっと寝室に待機していました」
「そうか」
気を利かせた美奈が課長の前にコーヒーを置いた。
課長の口角がぴくっと上がる。
「もうすぐ執事が参りますので、今しばらくこちらでお待ちください」
「お気遣いなく。この度はご愁傷さまでした」
ぺコンと頭を下げた美奈が部屋を出た。
「凄いな……これは本物だ」
「偽物もあるのですか?」
課長は伊藤の言葉に返事もせず、コーヒーに集中している。
「お待たせしました」
執事の山中が客間に顔を出した。
3
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
どんでん返し
あいうら
ミステリー
「1話完結」~最後の1行で衝撃が走る短編集~
ようやく子どもに恵まれた主人公は、家族でキャンプに来ていた。そこで偶然遭遇したのは、彼が閑職に追いやったかつての部下だった。なぜかファミリー用のテントに1人で宿泊する部下に違和感を覚えるが…
(「薪」より)
失った記憶が戻り、失ってからの記憶を失った私の話
本見りん
ミステリー
交通事故に遭った沙良が目を覚ますと、そこには婚約者の拓人が居た。
一年前の交通事故で沙良は記憶を失い、今は彼と結婚しているという。
しかし今の沙良にはこの一年の記憶がない。
そして、彼女が記憶を失う交通事故の前に見たものは……。
『○曜○イド劇場』風、ミステリーとサスペンスです。
最後のやり取りはお約束の断崖絶壁の海に行きたかったのですが、海の公園辺りになっています。
王太子の子を孕まされてました
杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。
※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
異能捜査員・霧生椋
三石成
ミステリー
旧題:断末魔の視覚
霧生椋は、過去のとある事件により「その場で死んだ者が最後に見ていた光景を見る」という特殊能力を発現させていた。けれどもその能力は制御が効かず、いつ何時も人が死んだ場面を目撃してしまうため、彼は自ら目隠しをし、視覚を塞いで家に引きこもって暮らすことを選択していた。
ある日、椋のもとを知り合いの刑事が訪ねてくる。日本で初めて、警察に「異能係」という霊能捜査を行う係が発足されたことにより、捜査協力を依頼するためである。
椋は同居人であり、自らの信奉者でもある広斗と共に、洋館で起こった密室殺人の捜査へと向かうことになる。
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる