愛すべきマリア

志波 連

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 その夜、部屋に戻ったトーマスは、あどけない顔で眠るマリアの頬にそっと触れた。

「なあマリア、あの時お前に何があったのだ? 自分の意識を閉じ込めてしまうほどのショックなことなんだろうね。だとしたら、お前は元に戻らない方が幸せかな? 僕は前のお前も今のお前も心から愛おしいんだ。だから無理しなくていい」

 月あかりがマリアの寝顔を照らし、その頬を青白く染めている。

「今宵も良き聖霊たちに守られて、楽しい夢を見ますように。おやすみマリア」

 その一件以降、十七歳のマリアが顔を出すこともなく、午前中は王妃陛下と庭で遊び、午睡の後は夕食まで授業という日々を送っている。
 マリアを離したがらない王妃の希望で、朝食以外は王族たちと同じテーブルにつく。
 夕食はトーマスも同席するのだが、緊張の中で味を感じられないとアレンに愚痴を溢していた。
 マリアの姿は徹底的に隠され、王宮の中でも現状を知る者は少ない。

「そろそろ進めるぞ」

 その日の執務を終えたアラバスが、帰り支度を始めたトーマスとアレンを呼び止めた。

「進めるって何を?」

「婚姻式だ。ウェディングドレスもできてきたし、教会も大司教のスケジュールも抑えた」

「えっ! でも披露宴はどうするんだよ。各国にも招待状を送らないと拙いだろ?」

「いや、今回は身内だけだ。披露宴もガーデンパーティー形式でやる」

 アレンが慌てた口調でアラバスに詰め寄る。

「第一王子の婚姻式が身内だけだと? そんなことできるわけ無いだろうが!」

 ニヤッと口角を上げるアラバス。

「構わんさ。入籍してしまえば夫婦だ。それに、今後のマリアの回復によっては大々的なお披露目をする」

「無茶を言うなよ」

 トーマスは泣きそうな顔をしていた。

「両陛下も同意だ。どうやらあの二人はどうしても『かわいいマリアちゃん』を娘にしたいようだぜ?」

「おいおい……外交を統括している僕の立場も考えてくれよ」

「そこを何とかするのがお前の仕事だろ?」

 アレンがプッと頬を膨らませた。

「無茶振りだ……」

「なあアラバス。婚姻式を終えたらマリアはどこに住むんだ?」

 トーマスが現実的なことを聞いた。

「もちろん第一王子妃の部屋だが?」

「やはりそうなるのか……」

 アレンはマリアを溺愛する兄の悲痛な声に顔を顰める。
 アラバスは数秒黙った後、静かな声で言った。

「お前が心配していることは分かる。俺も男だからいろいろと思うところはある。しかし、今のマリアをどうこうしようとは思ってないから安心してくれていい。ただ、外敵にも内敵にも知らしめる必要があるだろう? 俺とマリアが婚姻届けを出し、すでに夫婦の寝室を使っているという事実が」

「マリアとの婚姻はパフォーマンスだと言うのか?」

 トーマスが低い声を出した。

「本当の夫婦になるまではパフォーマンスということになるが、いずれにしても俺はマリア以外と夫婦になる意思はない。マリアは今三歳だ。あと十三年すれば婚姻できる年になる」

「だが! それは精神的な話だ! マリアの体は十七歳で、十三年も経てば三十歳だ。子供は? 世継ぎはどうするつもりだ! 三十歳で初産なんて危険極まりない!」

 アレンがトーマスに駆け寄った。
 そうでもしなければ、アラバスの胸倉を掴みかねないほどの剣幕だったからだ。

「それは最悪のシナリオだ。もしこのままマリアが戻らず、十六歳の心のままで三十歳を迎えたなら、カーチスの子供を養子に貰うよ」

「お前……」

「ついでだから言うが、第二妃など絶対に娶らないし、愛人も妾も必要ない」

 アレンが驚いたような顔でアラバスを見た。

「お前ってそれほどマリアちゃんに惚れ込んでたの?」

 それには返事をせず、プイッと横を向くアラバス。
 トーマスが落ち着きを取り戻して言った。

「婚姻のことは納得しよう。部屋のこともお前を信じる。しかし、マリアが今のまま二十五歳になったら、第二妃でも何でもいいから子供は作った方がいい。それだけは約束してくれ」

「トーマス……」

 アレンが俯くトーマスの肩に手を掛ける。

「約束か……お前の気持ちはわかるが、今の俺には返事のしようもないさ。もしかしたら離縁させられて狸女と再婚ということもあるかもしれないし、第二妃として狐女を娶らされるかもしれないのだからな。先ほど言ったのは俺の個人的な希望だ。叶えたいが叶わんかもしれん。王族とはそんなもんだ」

 アラバスに視線を移したアレンが、小さくため息を吐いた。

「僕は公爵家の三男で本当に良かったよ。なあトーマス、もしもアラバスが意に沿わない決断をさせられたら、僕がマリアちゃんを引き受けるよ。どう?」

 友人の言葉に、トーマスが辛そうな笑顔を向けた。

「そうだな……もしもそうなって、僕が生きていなかったらアレンに頼もう」

 窓辺に佇む三人の影を、夕日が長く伸ばしていた。
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