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マリアが眠り続けて、すでに一週間が過ぎていた。
婚約者であるアラバスは、忙しい政務の合間を縫って顔を出している。
マリアの側を離れないトーマスの分まで、何も言わず引き受けてくれているのはアレンだ。
両親はあの日以降、一度も顔を見せてはいない。
「お部屋の準備が整いました」
医務室で寝泊まりしていたトーマスに声を掛けてきたのは、第一王子専属の侍従だ。
「そうか、ありがとう。どこの客間かな?」
「ルビーの間でございます」
「それはまた……畏れ多いことだ」
「あそこであれば続き間がございますので、アスター様もお泊りになれるだろうとの事です」
「なるほど。ご配慮痛みいると伝えておいてほしい」
侍従たちが運ぶ担架に付き添いながら、第一王子の計らいに改めて感謝するトーマス。
メイド達がマリアの着替えをさせている間に、トーマスは王宮にある自室から着替えなどを運んできた。
「トーマス! お前……ちゃんと食べているのか?」
途中の廊下で声を掛けてきたのはアレンだった。
「やあアレン、心配を掛けてしまったな。今日からルビーの間を使わせてもらうことになったんだ。僕もそちらへ移るけれど、少し落ち着いたから仕事にも復帰するから」
悲しそうに顔を歪めたアレンが続けた。
「無理はするなよ? お前でなければダメというものもたくさんあるけれど、今のところ急ぎは無いから。マリア嬢も心配だが、殿下はお前のことも随分心配しておられたぞ」
「うん……ありがたいことだ」
「マリア嬢は?」
「まだ眠ったままだが、時々表情を変えるんだ。そろそろ戻ってくるかもしれないと医者も言っていたよ」
「そうか、早く戻ってくれると良いな」
「ああ、お前には迷惑をかけてばかりだ。申し訳なく思っているよ」
アレンが顔の前でブンブンと手を振った。
「困ったときは相身互いだろ。気にするな。それに、僕にとってもマリア嬢はかわいい妹のような存在だから」
文官を引き連れて去って行くアレンを見送ったトーマスは、その足で第一王子の執務室へと向かった。
「おうトーマス! 今日からだと聞いたが、もう移動したのか?」
「はい。この度は兄妹揃ってご迷惑をおかけしてしまい、お詫びの言葉もございません」
「バカな事を言うな。それに改まった口調で話されると気持ちが悪いぞ? 将来の我が妃とその兄ではないか。何か不足があればいつでも言ってくれ」
トーマスは眉を下げながら精一杯の笑顔を浮かべた。
「トーマス? いったいどうしたんだ」
ひとつ大きく息を吸ったトーマスは、意を決したように口を開いた。
「殿下、もしこのままマリアが目覚めなかったら……縦しんば目覚めても、何か障害が残るようなことがあれば、婚約はなかったことにしていただきたいと考えております」
アラバスがガバッと立ち上がった。
「何を言っている? それほどマリアの状態は悪いのか?」
「いえ、まだ眠ったままですのでなんとも言えませんが……」
「ではなぜだ」
冷静な声に戻ったアラバスが椅子に座りなおした。
「ずっとマリアの寝顔を見ていて……この子の幸せって何なのだろうって……」
「俺が伴侶では不足か?」
「とんでもございません。そうではなく、これ以上ご迷惑をおかけするのは心苦しく……」
「迷惑だと? いきなり伴侶を失い、信頼する側近も去るという事の方がよっぽど迷惑だ。お前のことだ、マリアを連れて領地にでも引き籠るつもりなのだろうが、そうはさせんぞ」
「殿下……」
「お前も知っている通り、俺は生まれた時からこの国を担う責任を背負っている。そのためだけに学び、そのためだけに生きてきたといっても過言ではあるまい。両親とて同じこと。これが王家に生まれた者の定めであり、その伴侶に相応しいと認定された者の運命というものだ。そこに愛は必要かと問われれば、俺は否と答えるしかない。しかし死ぬまで一緒に過ごす相手を、無闇に不快にさせる必要はない事も知っている。それではダメか?」
返事をせず俯いたトーマスに、アラバスが続ける。
「もしもマリアが婚姻に愛を求めているのだとしたら、おそらく失望させることになるだろう。女性というものは愛情という不確かな感情を優先しがちだからな。しかし、今までのマリアを見ていて、それは無いと確信している。そういう気持ちにならない為の教育プログラムも組まれていたと聞く。その辺りはどうなのだ?」
トーマスが重たげに口を開いた。
「殿下の仰る通りでしょう。今までのマリアならあなたに愛情を求める事はなかったでしょうね。子を成すことも王族の義務……仕事として淡々と受け入れたのではないでしょうか。だからこそ! だからこそですよ。あの子の幸せとは何なのでしょうか」
「幸せか……幸せという感情に定義はないよな。お前の考えるマリアの幸せとはなんだ?」
暫しの間だけ考えたトーマスが顔をあげる。
「わかりません。でも僕は、随分長いことあの子の弾けるような笑顔を見ていない。淑女然とした……笑顔というより訓練された微笑ですね。そんな顔しかさせてやれてないんです」
「弾けるような笑顔か……それは確かに俺も見たことが無いな。というより母上もそうだし弟もそうだ。表情一つだとしても俺たちにとっては、すでに戦略の一部なんだ。笑顔を浮かべるという人として当たり前の所作も、一種のタクティクスなんだよ」
トーマスが悲し気な顔で言った。
「初等部の頃のあなたは、太陽のように笑っていましたよ」
「そうだな。まあそれが許されていたのも子供時代だからということだな」
トーマスがアラバスに一歩近づいた。
「マリアには、その子供時代というものがなかったに等しいのです。母が亡くなったあの日からずっと、マリアは子供ではいられなくなってしまった」
アラバスがギュッと唇を嚙みしめた。
「失礼します。王宮医から連絡があり、マリア嬢の意識が戻ったとのことです」
トーマスが駆けだし、アラバスが後を追った。
途中ですれ違ったアレンも、同行していた文官に書類を押し付けて後を追う。
「マリア!」
キョトンとした顔で駆け込んできた三人の男を眺めていたマリアが、ゆっくりと唇を動かす。
「こんにちは。私はマリア・アスターでしゅ……あれ?」
「マリア? いったいこれは……」
青褪めたトーマスを、マリアは恥ずかしそうに見た。
婚約者であるアラバスは、忙しい政務の合間を縫って顔を出している。
マリアの側を離れないトーマスの分まで、何も言わず引き受けてくれているのはアレンだ。
両親はあの日以降、一度も顔を見せてはいない。
「お部屋の準備が整いました」
医務室で寝泊まりしていたトーマスに声を掛けてきたのは、第一王子専属の侍従だ。
「そうか、ありがとう。どこの客間かな?」
「ルビーの間でございます」
「それはまた……畏れ多いことだ」
「あそこであれば続き間がございますので、アスター様もお泊りになれるだろうとの事です」
「なるほど。ご配慮痛みいると伝えておいてほしい」
侍従たちが運ぶ担架に付き添いながら、第一王子の計らいに改めて感謝するトーマス。
メイド達がマリアの着替えをさせている間に、トーマスは王宮にある自室から着替えなどを運んできた。
「トーマス! お前……ちゃんと食べているのか?」
途中の廊下で声を掛けてきたのはアレンだった。
「やあアレン、心配を掛けてしまったな。今日からルビーの間を使わせてもらうことになったんだ。僕もそちらへ移るけれど、少し落ち着いたから仕事にも復帰するから」
悲しそうに顔を歪めたアレンが続けた。
「無理はするなよ? お前でなければダメというものもたくさんあるけれど、今のところ急ぎは無いから。マリア嬢も心配だが、殿下はお前のことも随分心配しておられたぞ」
「うん……ありがたいことだ」
「マリア嬢は?」
「まだ眠ったままだが、時々表情を変えるんだ。そろそろ戻ってくるかもしれないと医者も言っていたよ」
「そうか、早く戻ってくれると良いな」
「ああ、お前には迷惑をかけてばかりだ。申し訳なく思っているよ」
アレンが顔の前でブンブンと手を振った。
「困ったときは相身互いだろ。気にするな。それに、僕にとってもマリア嬢はかわいい妹のような存在だから」
文官を引き連れて去って行くアレンを見送ったトーマスは、その足で第一王子の執務室へと向かった。
「おうトーマス! 今日からだと聞いたが、もう移動したのか?」
「はい。この度は兄妹揃ってご迷惑をおかけしてしまい、お詫びの言葉もございません」
「バカな事を言うな。それに改まった口調で話されると気持ちが悪いぞ? 将来の我が妃とその兄ではないか。何か不足があればいつでも言ってくれ」
トーマスは眉を下げながら精一杯の笑顔を浮かべた。
「トーマス? いったいどうしたんだ」
ひとつ大きく息を吸ったトーマスは、意を決したように口を開いた。
「殿下、もしこのままマリアが目覚めなかったら……縦しんば目覚めても、何か障害が残るようなことがあれば、婚約はなかったことにしていただきたいと考えております」
アラバスがガバッと立ち上がった。
「何を言っている? それほどマリアの状態は悪いのか?」
「いえ、まだ眠ったままですのでなんとも言えませんが……」
「ではなぜだ」
冷静な声に戻ったアラバスが椅子に座りなおした。
「ずっとマリアの寝顔を見ていて……この子の幸せって何なのだろうって……」
「俺が伴侶では不足か?」
「とんでもございません。そうではなく、これ以上ご迷惑をおかけするのは心苦しく……」
「迷惑だと? いきなり伴侶を失い、信頼する側近も去るという事の方がよっぽど迷惑だ。お前のことだ、マリアを連れて領地にでも引き籠るつもりなのだろうが、そうはさせんぞ」
「殿下……」
「お前も知っている通り、俺は生まれた時からこの国を担う責任を背負っている。そのためだけに学び、そのためだけに生きてきたといっても過言ではあるまい。両親とて同じこと。これが王家に生まれた者の定めであり、その伴侶に相応しいと認定された者の運命というものだ。そこに愛は必要かと問われれば、俺は否と答えるしかない。しかし死ぬまで一緒に過ごす相手を、無闇に不快にさせる必要はない事も知っている。それではダメか?」
返事をせず俯いたトーマスに、アラバスが続ける。
「もしもマリアが婚姻に愛を求めているのだとしたら、おそらく失望させることになるだろう。女性というものは愛情という不確かな感情を優先しがちだからな。しかし、今までのマリアを見ていて、それは無いと確信している。そういう気持ちにならない為の教育プログラムも組まれていたと聞く。その辺りはどうなのだ?」
トーマスが重たげに口を開いた。
「殿下の仰る通りでしょう。今までのマリアならあなたに愛情を求める事はなかったでしょうね。子を成すことも王族の義務……仕事として淡々と受け入れたのではないでしょうか。だからこそ! だからこそですよ。あの子の幸せとは何なのでしょうか」
「幸せか……幸せという感情に定義はないよな。お前の考えるマリアの幸せとはなんだ?」
暫しの間だけ考えたトーマスが顔をあげる。
「わかりません。でも僕は、随分長いことあの子の弾けるような笑顔を見ていない。淑女然とした……笑顔というより訓練された微笑ですね。そんな顔しかさせてやれてないんです」
「弾けるような笑顔か……それは確かに俺も見たことが無いな。というより母上もそうだし弟もそうだ。表情一つだとしても俺たちにとっては、すでに戦略の一部なんだ。笑顔を浮かべるという人として当たり前の所作も、一種のタクティクスなんだよ」
トーマスが悲し気な顔で言った。
「初等部の頃のあなたは、太陽のように笑っていましたよ」
「そうだな。まあそれが許されていたのも子供時代だからということだな」
トーマスがアラバスに一歩近づいた。
「マリアには、その子供時代というものがなかったに等しいのです。母が亡くなったあの日からずっと、マリアは子供ではいられなくなってしまった」
アラバスがギュッと唇を嚙みしめた。
「失礼します。王宮医から連絡があり、マリア嬢の意識が戻ったとのことです」
トーマスが駆けだし、アラバスが後を追った。
途中ですれ違ったアレンも、同行していた文官に書類を押し付けて後を追う。
「マリア!」
キョトンとした顔で駆け込んできた三人の男を眺めていたマリアが、ゆっくりと唇を動かす。
「こんにちは。私はマリア・アスターでしゅ……あれ?」
「マリア? いったいこれは……」
青褪めたトーマスを、マリアは恥ずかしそうに見た。
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