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  それから数日後、シューンとトーマが算術の授業を受けている部屋から、風にのって奇妙な音に、窓の下を通りかかった庭師たちが顔を顰めた。

「何の音だ?」

「歯が浮きそうな音だな……」

 部屋には算術の教師と近衛騎士、そして悪ガキ二人とサリーとライラがいる。
 
「止めなさい! 今すぐに! 止めるんだ!」

 椅子に座って背もたれに体を貼り付けている教師が叫ぶ。
 そう、彼は今文字通り椅子に貼り付けられていた。
 サリーの時は座面だけだった強力糊が、今日は背もたれとひじ掛けにも塗られている。
 そして、教師以外の全員の耳には、コルクを削って作った特製の耳栓が装着されていた。
 フォークをそれぞれが両手に持って、黒板を先端で擦っている悪ガキたちは満面の笑みだが、それを聞かされている教師は悲鳴を上げ続けている。
 
 精神を削るような拷問を受けた教師は、椅子ごと引き摺って廊下に逃げた。
 椅子にキャスターなどついているわけもなく、重たい木製の椅子を背負いながら、ホウホウの態で逃げ出した教師の目は涙が溜まっている。
 通りかかった侍従が駆け寄るが、解放するためには上着とズボンを脱がすしかない。
 手を拱いていると、第一王子が駆けつけてきた。

「何をやっている!」

 部屋の中には第一王子の声に机から顔を上げる子供たちと、きちんと礼をする近衛騎士と深々と頭を下げるメイド。

「何事だ。殺人的な音がすると聞いてきたのだが」

 当然だが耳栓が既に外して隠してある。
 シューンがにこやかに返事をした。

「兄上、お疲れ様です。この時間はトーマと算術の授業を受けておりました」

「ではなぜ先生が椅子に貼り付けられて、真っ赤な顔をしているんだ?」

 トーマが答える。

「ちょっとした子供の悪戯です」

「ちょっとした?」

 第一王子が廊下の方を見ると、侍従が急遽用意したバスローブを羽織った教師がよろよろと立っていた。

「先生?」

 教師がズレた眼鏡を直しながら第一王子に挨拶をした。

「我が国の若き太陽にご挨拶申し上げます」

「先生……何事ですか?」

「いや、なに……子供たちから洗礼を受けたところです。油断していました。このような姿のまま授業を続けることをお許しください」

「それは……構わないが。洗礼?洗礼とは?」

「ものすごく古典的な手法に引っかかってしまったのですよ。本当に油断していました。まさかこのような絶滅指定されそうな悪戯を仕掛けてくるとは……」

 第一王子が全員の顔を見回した後、サリーの顔を凝視した。
 サリーが小さく頷くと、第一王子は何を察したのか教師に向かって声を掛けた。

「そうですか、後はお任せした方が良さそうですね。私は戻りましょう」

 出て行ってしまった。
 へらへら笑っていた教師は、着替えることも無くそのまま授業を続けようと黒板の前に立った。

「いやぁ、久しぶりにあの音を聞きましたよ。もしかしたら二十年ぶりくらいかもしれない。そしてもう二度と聞きたくはないですね。それでは授業を続けます」

 シューン以外の全員がニヘラっと笑った。
 授業は恙なく進み、トーマの鋭い質問にも即答で返した算術の教師は、教科書をとんとん机で揃えながら、穏やかな笑顔で言った。

「宿題を出します。覚悟してくださいね?」

 そして教師はとんでもない量の計算問題と、次回は小テストだという予告を残して去って行った。

「あの先生は合格だな」

 全員が頷いた。
 その夜から必死で机に嚙り付く羽目になったシューンは、方法を間違えたかもしれないと今頃になって気づくのだった。
 約一か月を掛けて教師陣を篩いにかけた結果、新しい先生方で辞職を申し出たのは一人だけだった。
 
「案外少なかったな。でも残った教師たちは優秀な人材だ。せいぜい給与面で労おう。財布はどうせサルーン伯爵家だし」

 トーマが悪い顔で言った。

「ということは、伯爵の情報元は使用人だと考えて良さそうですね」

「そこは第一王子に任せた方がいいだろう。子供では荷が勝ちすぎる。それはそうと覚悟は決まったか?」

 今日は頑張っている褒美に、シューンの所に例の猫を連れて行くと約束している日だ。

「決まっていません。お断りします」

 ロバートの意向を聞きはしたが応えるつもりはないトーマスが、サリーに目配せした。
 サリーがニヤッと笑ってロバートに指先を向けた。

「え~い!」

 ポンと白っぽい靄の中からロバート猫が現れた。
 逃げても無駄と察したのだろう、ロバート猫が口を開いた。

「はいはい、さっさと行きましょう。でも2時間で回収してください。それ以上になったら言葉を発します」

「わかりました。2時間以内とお約束しましょう。まずはお風呂ですよ?」

「風呂なら今朝入りましたから!」

「ダメです」

 タイミングよくライラが入ってきた。

「あらぁぁ~かわいこちゃんだぁぁ~。久しぶりねぇ」

「ライラ、今日も全身洗ってやってちょうだい」

「任せといて~」

 ライラはひょいとロバート猫を抱き上げて、テーブルの上に寝かせた。

「さあブラッシングからよ」

「次は真っ白なお腹ね~。まあ! 相変わらずもふもふだわ~ 気持ちよさそう」

 ライラは言うなり自分の顔を猫のお腹に埋めてスリスリと動かした。

「あぁぁ! ダメだ! そこは……」

 堪らずロバートが声を出した。

「ん? 先生何か仰いました?」

 トーマスが慌てて言う。

「あっ……すまん。猫の気持ちになってしまった」

「まあ! 先生ったら面白い方ですこと」

 もふもふを堪能したライラは、猫を洗面台に持って行った。
 さぞ怒っているだろうと、ロバートの顔を見たサリーは思った。

(うっとりしやがって)

 全身洗浄が終わり、テーブルの上でタオルドライしてもらった猫は、つやつやだ。

「いい子ちゃんでしたねぇ。ご褒美を上げましょう」

 ライラがポケットから干し肉を出した。
 ビクッとする猫。
 サリーは慌てて止めに入った。

「ライラ! それはダメよ。この猫は……ベジタリアンなの」

 肩を竦めて干し肉を仕舞ったライラだったが、今度はネコ吹いを始めてしまった。

「ああ~良い匂い」

 足の付け根から首筋まで、たっぷりとネコの匂いと肌触りを堪能しているライラ。
 猫は昇天したかの如くぐったりと為すがままになっている。
 サリーはトーマス医師に言った。

「先生、ロバート先生のお給料をあげて下さいね」

「そうだな、当別ボーナスを申請しておこう」

 ドアがノックされ、シューンがネコを迎えに来た。
 大人しく抱かれて医務室を出るロバート猫は、意外と幸せそうな顔をしていた。
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