和ませ屋仇討ち始末

志波 連

文字の大きさ
上 下
68 / 72

しおりを挟む
 当時を迎えた久秀の心は、自分でも驚くほど穏やかだった。
 
「おはようございます」
 
「うん、おはよう。今日もいい天気だね」

 いつもの会話をした後で、咲良が差し出したのはいつもと違う着物だった。

「ありがとう。大切に着るよ」

「はい、心を込めて縫いあげました」

「なんだか咲良に抱かれているような気持ちになるね。嬉しい」

 咲良が真っ赤な顔で、着替えを手伝った。
 昨日と同じ顔ぶれで、昨日と同じ朝食をとる。
 付き添うのは咲良と新之助、それに宇随と柴田の四人だ。
 玄関にはお嶋とお市、美千代と彩音が揃い、外には柳屋の使用人たちが並んでいる。

「では行って参ります」

 穏やかな顔で久秀達は歩き出した。
 北町奉行所は日本堤から歩いて一刻ほどの距離だが、大川を舟で下り永代橋を左に入り、呉服橋まで乗りつければ、もうそこが北町奉行所だ。

「お待ちしておりました」

 いつも駒井についている火盗改めの男が正門で出迎えた。
 入ってすぐを右に折れると、数棟の建物があり、その先には広い庭が広がっている。
 庭といっても塀を隠すように植えられた柘植がきれいに剪定されているだけで、地面には砂利もなく、剝き出しの土地が踏み固められていた。

「安藤殿」

 屋敷から出てきたのは三良坂と駒井、そして始めて見る顔は北町奉行の佐々木 顕発だろう。

「本日はお世話になります。佐々木様、お骨折りいただき感謝いたします」

 久秀の言葉に、佐々木がすっと頭を下げた。

「我らが不手際により安藤殿には大変なご苦労を掛けてしまった。申し訳もござらん」

「いえいえ、いずれにせよこうなっていたと思います。早い方がお互いのためですよ」

 穏やかな久秀の言葉に、三良坂も駒井もホッと胸を撫でおろした。

「見届け人は我ら三名です。我らの横にお席を用意しておりますので」

 庭を案内したのは権左だった。
 本当にこの男は何者なのだろうと久秀は考えながらついて行く。
 羽織を咲良に預け、股立ちをとった久秀に、新之助が襷と鉢巻を渡した。

「ご武運を」

「新之助殿。よく見ておきなさい」

「はい。一瞬たりとも目を離さず、この瞼に焼き付けます」

 頷いた久秀が咲良に視線を移した。
 今日の咲良は薄い紫の色無地に、久秀と同じ紋を背負っていた。
 
「では咲良。いって参る。必ず戻るから安心して待っておれ」

「はい、旦那様。お待ち申し上げております」

 久秀はすっと咲良の頬に指先を這わせ、その指を口に含んだ。
 宇随と研吾は無言のまま見つめている。
 
「待ちかねたぞ。逃げずに来たことは褒めてやろう」

「お久しぶりだね、高瀬さん」

「俺はお前など知らぬ」

「そう? 俺は何度か道場で見かけたよ。まあいい。さっさと始めようか」

 互いにジリジリと距離を詰めていく。
 久秀の愛刀は亡き景浦光政から譲られた同田貫で反りは少なく、飾りもない。
 質実剛健を体現したような大剣だ。
 高瀬が声を出す。

「どうした! かかって来いこの腰抜けが!」

 久秀は中段に構えて腰をおろしたまま、微動だにしていない。
 遠くで五つの捨て鐘の音がした。
 ふと誘うように高瀬が気を抜いた。
 
「どうやら甘く見ていたようだ。安藤、本気で行かせてもらう」

 久秀の背中から青い焔が立ち上った。
 それを見た北町奉行所の同心たちから声が漏れる。
 宇随が研吾に囁いた。

「高瀬のは色が違うな」

「ええ、どちらかと言うと黄色でしょうか」

「うん、性根と同じなのかもしれんな。安藤のはどこまでも澄んで美しい」

 二人の横に座っている三良坂弥右衛門が呟いた。

「まさかこの域の達人が二人も……どちらが倒れても惜しい」

 宇随は心の中で激しく同意した。
 この域まで上り詰めるために、どれほどのものを諦め手放してきたのだろう。
 天賦の才とは言われていても、所詮は勘に頼っていた己の剣が未熟に思えて仕方がない。

「捨てきってもなお削ぎ落すのか……無欲の極致」

 そう発した研吾に、この男も同じことを感じているのだと宇随は思った。
 ふと風が止んでいることに気付く。
 音も消え、色も消えた。
 これか! と思った刹那、音も色も戻ってしまう。
 無の境地とはかくも深いのかと宇随が感じた瞬間、鋭い金属音がした。

「気が揃いましたな」

 三良坂の声に駒井が頷く。

「早くて見えませんな」

 佐々木も驚嘆の声を漏らしている。
 柴田研吾が宇随にだけ聞こえる声で言った。

「安藤にはゆっくりに見えているんでしょうね」

 宇随が頷く。

「おそらく高瀬にもな」
 
 久秀との力比べに飽いた高瀬が、一気に飛び退った。
 それを追わず、また中段の構えに戻す久秀。
 先にじれたのは高瀬だった。

「ええいっ!」

 久秀の剣が大きな弧を描いた。
 鋼がぶつかり合った鈍い音が響き、高瀬が久秀の横をすり抜けた。

「それまで!」

 立ち上がったのは北町奉行佐々木 顕発。

「この勝負、この佐々木が預かる」

 高瀬が膝をつき、右肩を押さえた。
 みるみる血が滲みだし、鈍色の江戸小紋が染まっていく。
 その二間さきで久秀も膝をついた。
 見届け人側に背を向けている久秀の状態は分からない。
 再び佐々木が声を出した。

「部屋を手配せよ!」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

辻のあやかし斬り夜四郎 呪われ侍事件帖

井田いづ
歴史・時代
旧題:夜珠あやかし手帖 ろくろくび あなたのことを、首を長くしてお待ちしておりましたのに──。 +++ 今も昔も世間には妖怪譚がありふれているように、この辻にもまた不思議な噂が立っていた。曰く、そこには辻斬りの妖がいるのだと──。 団子屋の娘たまはうっかり辻斬り現場を見てしまった晩から、おかしな事件に巻き込まれていく。 町娘たまと妖斬り夜四郎の妖退治譚、ここに開幕! (二作目→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/284186508/398634218)

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

処理中です...