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焔
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当時を迎えた久秀の心は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「おはようございます」
「うん、おはよう。今日もいい天気だね」
いつもの会話をした後で、咲良が差し出したのはいつもと違う着物だった。
「ありがとう。大切に着るよ」
「はい、心を込めて縫いあげました」
「なんだか咲良に抱かれているような気持ちになるね。嬉しい」
咲良が真っ赤な顔で、着替えを手伝った。
昨日と同じ顔ぶれで、昨日と同じ朝食をとる。
付き添うのは咲良と新之助、それに宇随と柴田の四人だ。
玄関にはお嶋とお市、美千代と彩音が揃い、外には柳屋の使用人たちが並んでいる。
「では行って参ります」
穏やかな顔で久秀達は歩き出した。
北町奉行所は日本堤から歩いて一刻ほどの距離だが、大川を舟で下り永代橋を左に入り、呉服橋まで乗りつければ、もうそこが北町奉行所だ。
「お待ちしておりました」
いつも駒井についている火盗改めの男が正門で出迎えた。
入ってすぐを右に折れると、数棟の建物があり、その先には広い庭が広がっている。
庭といっても塀を隠すように植えられた柘植がきれいに剪定されているだけで、地面には砂利もなく、剝き出しの土地が踏み固められていた。
「安藤殿」
屋敷から出てきたのは三良坂と駒井、そして始めて見る顔は北町奉行の佐々木 顕発だろう。
「本日はお世話になります。佐々木様、お骨折りいただき感謝いたします」
久秀の言葉に、佐々木がすっと頭を下げた。
「我らが不手際により安藤殿には大変なご苦労を掛けてしまった。申し訳もござらん」
「いえいえ、いずれにせよこうなっていたと思います。早い方がお互いのためですよ」
穏やかな久秀の言葉に、三良坂も駒井もホッと胸を撫でおろした。
「見届け人は我ら三名です。我らの横にお席を用意しておりますので」
庭を案内したのは権左だった。
本当にこの男は何者なのだろうと久秀は考えながらついて行く。
羽織を咲良に預け、股立ちをとった久秀に、新之助が襷と鉢巻を渡した。
「ご武運を」
「新之助殿。よく見ておきなさい」
「はい。一瞬たりとも目を離さず、この瞼に焼き付けます」
頷いた久秀が咲良に視線を移した。
今日の咲良は薄い紫の色無地に、久秀と同じ紋を背負っていた。
「では咲良。いって参る。必ず戻るから安心して待っておれ」
「はい、旦那様。お待ち申し上げております」
久秀はすっと咲良の頬に指先を這わせ、その指を口に含んだ。
宇随と研吾は無言のまま見つめている。
「待ちかねたぞ。逃げずに来たことは褒めてやろう」
「お久しぶりだね、高瀬さん」
「俺はお前など知らぬ」
「そう? 俺は何度か道場で見かけたよ。まあいい。さっさと始めようか」
互いにジリジリと距離を詰めていく。
久秀の愛刀は亡き景浦光政から譲られた同田貫で反りは少なく、飾りもない。
質実剛健を体現したような大剣だ。
高瀬が声を出す。
「どうした! かかって来いこの腰抜けが!」
久秀は中段に構えて腰をおろしたまま、微動だにしていない。
遠くで五つの捨て鐘の音がした。
ふと誘うように高瀬が気を抜いた。
「どうやら甘く見ていたようだ。安藤、本気で行かせてもらう」
久秀の背中から青い焔が立ち上った。
それを見た北町奉行所の同心たちから声が漏れる。
宇随が研吾に囁いた。
「高瀬のは色が違うな」
「ええ、どちらかと言うと黄色でしょうか」
「うん、性根と同じなのかもしれんな。安藤のはどこまでも澄んで美しい」
二人の横に座っている三良坂弥右衛門が呟いた。
「まさかこの域の達人が二人も……どちらが倒れても惜しい」
宇随は心の中で激しく同意した。
この域まで上り詰めるために、どれほどのものを諦め手放してきたのだろう。
天賦の才とは言われていても、所詮は勘に頼っていた己の剣が未熟に思えて仕方がない。
「捨てきってもなお削ぎ落すのか……無欲の極致」
そう発した研吾に、この男も同じことを感じているのだと宇随は思った。
ふと風が止んでいることに気付く。
音も消え、色も消えた。
これか! と思った刹那、音も色も戻ってしまう。
無の境地とはかくも深いのかと宇随が感じた瞬間、鋭い金属音がした。
「気が揃いましたな」
三良坂の声に駒井が頷く。
「早くて見えませんな」
佐々木も驚嘆の声を漏らしている。
柴田研吾が宇随にだけ聞こえる声で言った。
「安藤にはゆっくりに見えているんでしょうね」
宇随が頷く。
「おそらく高瀬にもな」
久秀との力比べに飽いた高瀬が、一気に飛び退った。
それを追わず、また中段の構えに戻す久秀。
先にじれたのは高瀬だった。
「ええいっ!」
久秀の剣が大きな弧を描いた。
鋼がぶつかり合った鈍い音が響き、高瀬が久秀の横をすり抜けた。
「それまで!」
立ち上がったのは北町奉行佐々木 顕発。
「この勝負、この佐々木が預かる」
高瀬が膝をつき、右肩を押さえた。
みるみる血が滲みだし、鈍色の江戸小紋が染まっていく。
その二間さきで久秀も膝をついた。
見届け人側に背を向けている久秀の状態は分からない。
再び佐々木が声を出した。
「部屋を手配せよ!」
「おはようございます」
「うん、おはよう。今日もいい天気だね」
いつもの会話をした後で、咲良が差し出したのはいつもと違う着物だった。
「ありがとう。大切に着るよ」
「はい、心を込めて縫いあげました」
「なんだか咲良に抱かれているような気持ちになるね。嬉しい」
咲良が真っ赤な顔で、着替えを手伝った。
昨日と同じ顔ぶれで、昨日と同じ朝食をとる。
付き添うのは咲良と新之助、それに宇随と柴田の四人だ。
玄関にはお嶋とお市、美千代と彩音が揃い、外には柳屋の使用人たちが並んでいる。
「では行って参ります」
穏やかな顔で久秀達は歩き出した。
北町奉行所は日本堤から歩いて一刻ほどの距離だが、大川を舟で下り永代橋を左に入り、呉服橋まで乗りつければ、もうそこが北町奉行所だ。
「お待ちしておりました」
いつも駒井についている火盗改めの男が正門で出迎えた。
入ってすぐを右に折れると、数棟の建物があり、その先には広い庭が広がっている。
庭といっても塀を隠すように植えられた柘植がきれいに剪定されているだけで、地面には砂利もなく、剝き出しの土地が踏み固められていた。
「安藤殿」
屋敷から出てきたのは三良坂と駒井、そして始めて見る顔は北町奉行の佐々木 顕発だろう。
「本日はお世話になります。佐々木様、お骨折りいただき感謝いたします」
久秀の言葉に、佐々木がすっと頭を下げた。
「我らが不手際により安藤殿には大変なご苦労を掛けてしまった。申し訳もござらん」
「いえいえ、いずれにせよこうなっていたと思います。早い方がお互いのためですよ」
穏やかな久秀の言葉に、三良坂も駒井もホッと胸を撫でおろした。
「見届け人は我ら三名です。我らの横にお席を用意しておりますので」
庭を案内したのは権左だった。
本当にこの男は何者なのだろうと久秀は考えながらついて行く。
羽織を咲良に預け、股立ちをとった久秀に、新之助が襷と鉢巻を渡した。
「ご武運を」
「新之助殿。よく見ておきなさい」
「はい。一瞬たりとも目を離さず、この瞼に焼き付けます」
頷いた久秀が咲良に視線を移した。
今日の咲良は薄い紫の色無地に、久秀と同じ紋を背負っていた。
「では咲良。いって参る。必ず戻るから安心して待っておれ」
「はい、旦那様。お待ち申し上げております」
久秀はすっと咲良の頬に指先を這わせ、その指を口に含んだ。
宇随と研吾は無言のまま見つめている。
「待ちかねたぞ。逃げずに来たことは褒めてやろう」
「お久しぶりだね、高瀬さん」
「俺はお前など知らぬ」
「そう? 俺は何度か道場で見かけたよ。まあいい。さっさと始めようか」
互いにジリジリと距離を詰めていく。
久秀の愛刀は亡き景浦光政から譲られた同田貫で反りは少なく、飾りもない。
質実剛健を体現したような大剣だ。
高瀬が声を出す。
「どうした! かかって来いこの腰抜けが!」
久秀は中段に構えて腰をおろしたまま、微動だにしていない。
遠くで五つの捨て鐘の音がした。
ふと誘うように高瀬が気を抜いた。
「どうやら甘く見ていたようだ。安藤、本気で行かせてもらう」
久秀の背中から青い焔が立ち上った。
それを見た北町奉行所の同心たちから声が漏れる。
宇随が研吾に囁いた。
「高瀬のは色が違うな」
「ええ、どちらかと言うと黄色でしょうか」
「うん、性根と同じなのかもしれんな。安藤のはどこまでも澄んで美しい」
二人の横に座っている三良坂弥右衛門が呟いた。
「まさかこの域の達人が二人も……どちらが倒れても惜しい」
宇随は心の中で激しく同意した。
この域まで上り詰めるために、どれほどのものを諦め手放してきたのだろう。
天賦の才とは言われていても、所詮は勘に頼っていた己の剣が未熟に思えて仕方がない。
「捨てきってもなお削ぎ落すのか……無欲の極致」
そう発した研吾に、この男も同じことを感じているのだと宇随は思った。
ふと風が止んでいることに気付く。
音も消え、色も消えた。
これか! と思った刹那、音も色も戻ってしまう。
無の境地とはかくも深いのかと宇随が感じた瞬間、鋭い金属音がした。
「気が揃いましたな」
三良坂の声に駒井が頷く。
「早くて見えませんな」
佐々木も驚嘆の声を漏らしている。
柴田研吾が宇随にだけ聞こえる声で言った。
「安藤にはゆっくりに見えているんでしょうね」
宇随が頷く。
「おそらく高瀬にもな」
久秀との力比べに飽いた高瀬が、一気に飛び退った。
それを追わず、また中段の構えに戻す久秀。
先にじれたのは高瀬だった。
「ええいっ!」
久秀の剣が大きな弧を描いた。
鋼がぶつかり合った鈍い音が響き、高瀬が久秀の横をすり抜けた。
「それまで!」
立ち上がったのは北町奉行佐々木 顕発。
「この勝負、この佐々木が預かる」
高瀬が膝をつき、右肩を押さえた。
みるみる血が滲みだし、鈍色の江戸小紋が染まっていく。
その二間さきで久秀も膝をついた。
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