51 / 72
女の技量
しおりを挟む
「あれえ、お嶋さんじゃないか。それに咲良さんも」
お朝が襷がけを外しながら出迎えた。
「こちらは吉田様のご友人の奥様でね、お市さんだ。旦那さんが何やら忙しくて江戸見物にも連れて行ってくれないって言うものだから連れてきたんだ。迷惑じゃなかったかい?」
お嶋の言葉にお朝が笑い声をあげた。
「何が迷惑なものか。お市さん、あたしはお朝といいます。見ての通り商家の妾ですよ。以後お見知りおきくださいまし」
お朝が頭を下げると、お市もそれに倣った。
「お市と申します。島田宿から参りました。旦那様の親しいご友人の祝言のために来たのですが、何やら私にはわからないことがあったようで、放っておかれちまってるんですよ。暇に任せてついてきました。何かお手伝いでもあればお申し付け下さいな」
四人が姦しく話していると、奥から富士屋又造が顔を出した。
「おい、お朝。あれ……これはこれは、きれいどころが揃い踏みでしたか。こいつはとんだご無礼を」
如才なく挨拶をしながらも、その目は女たちを値踏みしていた。
「すみません、旦那さん。すぐに支度をします」
お朝が慌てて言うと、間髪入れずお嶋が声を出した。
「なんだいお朝ちゃん、旦那さんを待たせてたのかい? 言ってくれりゃすぐに帰ったのに。申し訳ございません、旦那さん」
「いえいえ、今日はお客様がありましてね。いつもより早いものですから。どうぞごゆっくりなさってください」
お市は奥から様子を伺っている視線に気付いた。
それとなく咲良とお嶋に目配せをすると、二人は小さく頷いている。
「お朝ちゃん、仕事の手を止めたお詫びだ。支度を手伝うよ」
お嶋がずんずんと上がり込んだ。
「さあさあ、咲良さんもお市さんも手伝ってくださいな」
二人は『はい』と声を出し、土間から板場に上がった。
「悪いねぇ、どうも慣れなくて手際が悪いんだよ」
「お朝さんはよく頑張っておられますよ」
咲良がにこやかに応じた。
お市もそれに乗る。
「私なんて未だに何もできないのですよ。できるのはお茶を淹れるのと五平餅を買って来るだけですもの」
お嶋が派手な笑い声を出す。
「ではお市さんにはお茶の支度をお願いしましょうか。咲良さんは何でもできるから……お朝ちゃん、このアジは焼くのかい?」
「うん、一夜干しをいただいたのよ」
「じゃあ咲良さん……といってもそのきれいな着物じゃ匂いが心配だ。そっちはあたしがやるから、味噌汁を頼むよ」
「はい、畏まりました」
咲良は袂から新しい腰ひもを出して襷に掛けた。
お市がすかさず言う。
「さすがお武家様の奥様だ。ちゃんと準備しておられるのですねぇ」
咲良が頷いて言う。
「母に躾けられましたので。こればかりは習慣でございますね」
奥の襖がカラッと開いた。
ぬっと顔を出したのは老人と言ってもよいほどの男だ。
何も言わずじっと咲良を見ているその目は、剣の心得の無い咲良でさえ殺気を感じるほどだった。
「申し訳ございません。煩くしてしまいました」
咲良が頭を下げると、その男が徐に口を開いた。
「いやいや、華やかな声がしたので、楽しそうだと思って覗いていただけですよ。男ばかりだったので明るくなって結構なことだ。こちらは急ぎませんので、どうぞゆっくりと」
顔を引っ込めて襖が閉じる。
蛇に睨まれた蛙はこんな気持ちなのだろうと咲良は思った。
富士屋又造が部屋に戻ったのを見計らってお嶋が咲良に耳打ちをする。
「知ってる顔かい?」
咲良が首を横に振る。
お市が眉間に皺を寄せながら言った。
「義さまと同じくらいの気迫だねぇ、ああ恐ろしい」
同じように感じた咲良が、竈の前にしゃがんで薪を抜いているお朝に言った。
「いつもお見えになる方々なのですか? 随分と遠慮がないような感じでしたが」
お朝が火照った顔を上げた。
「ええ、大体同じ顔ぶれですよ。二人が三人になったり四人になったりはするけれど。でも今日は初めてお目にかかる方もおられましたねぇ……」
「同じ顔ぶれって、この前の方々でしょう? ええっと……富士屋の若旦那さんと、どこぞのお武家様のご次男様でしたっけ? お名前が……」
咲良がそう言うと後ろから声がした。
「山名正晴だ。覚えておけ。おい女、こっちに来て酌をせよ」
「はい、ただいま」
お嶋とお市が同時に声を出した。
「お前たちじゃない。そこの女だ」
咲良を指さして下卑た顔を向ける正晴。
お嶋がすかさず声を出した。
「あらあら、咲良さんはお朝さんのお手伝いがございますので。用意が整いましたらお伺い致しますから、それまではあたしたちで勘弁してくださいませな」
フンッと鼻を鳴らして部屋に戻る正晴を見送りながら、お嶋が座敷まで届くような声でお朝に言った。
「お朝ちゃん、燗をつけるのかい? それともお冷かね」
「お冷がお好みですよ。姐さん、すまないねぇ。もう少しだからよろしく頼むよ」
「ああ、任せておきな。こっちの手伝いはできないが、酒の酌なら慣れたものさ」
お嶋はわざと蓮っ葉な言い方をした。
「さあ、お市さん。昔取った杵柄だ」
「あい、姐さん」
これで二人は玄人だと認識されたと思った咲良は、ホッと息を吐いた。
自分の命はもう捨てているが、この三人にはかすり傷ひとつも負わせたくない。
お朝が小声で話しかける。
「どうしたんだい? 何やらおかしいが」
「ええ、もしかしたらあの中の誰かが、旦那様の追っている人かもしれないのです」
「え? 久さんの? ああ……そういうことか。それで揃って来たんだね? あのお市というのは?」
「旦那様の剣の先輩の奥様です。その方が同じ人を追っているんですって」
「なるほど。あたしも久さんが絡んでいるなら協力は惜しまないよ。でも咲良さん、危ないと思ったらすぐに逃げるんだよ? いいね?」
「ありがとうございます」
その時奥からお嶋の声がした。
「お酒を頼みますよ~」
「はい、ただいま」
お朝が返事をして、咲良が膳の用意を引き継いだ。
アジの干物が程よく焼けて、香ばしい香りが漂う。
香の物は野芹と茗荷の浅漬けだ。
醬油を片口に移し小皿を添える江戸ならではの準備を整える。
味噌汁は豆腐と根深で、炊きあがった白米を茶碗によそって軽く塩を振った。
「お願いします」
咲良が部屋に声を掛けると、三人の女たちが出てきて膳を運び出す。
すっと寄ってきたお市が咲良にこそっと耳打ちをした。
お朝が襷がけを外しながら出迎えた。
「こちらは吉田様のご友人の奥様でね、お市さんだ。旦那さんが何やら忙しくて江戸見物にも連れて行ってくれないって言うものだから連れてきたんだ。迷惑じゃなかったかい?」
お嶋の言葉にお朝が笑い声をあげた。
「何が迷惑なものか。お市さん、あたしはお朝といいます。見ての通り商家の妾ですよ。以後お見知りおきくださいまし」
お朝が頭を下げると、お市もそれに倣った。
「お市と申します。島田宿から参りました。旦那様の親しいご友人の祝言のために来たのですが、何やら私にはわからないことがあったようで、放っておかれちまってるんですよ。暇に任せてついてきました。何かお手伝いでもあればお申し付け下さいな」
四人が姦しく話していると、奥から富士屋又造が顔を出した。
「おい、お朝。あれ……これはこれは、きれいどころが揃い踏みでしたか。こいつはとんだご無礼を」
如才なく挨拶をしながらも、その目は女たちを値踏みしていた。
「すみません、旦那さん。すぐに支度をします」
お朝が慌てて言うと、間髪入れずお嶋が声を出した。
「なんだいお朝ちゃん、旦那さんを待たせてたのかい? 言ってくれりゃすぐに帰ったのに。申し訳ございません、旦那さん」
「いえいえ、今日はお客様がありましてね。いつもより早いものですから。どうぞごゆっくりなさってください」
お市は奥から様子を伺っている視線に気付いた。
それとなく咲良とお嶋に目配せをすると、二人は小さく頷いている。
「お朝ちゃん、仕事の手を止めたお詫びだ。支度を手伝うよ」
お嶋がずんずんと上がり込んだ。
「さあさあ、咲良さんもお市さんも手伝ってくださいな」
二人は『はい』と声を出し、土間から板場に上がった。
「悪いねぇ、どうも慣れなくて手際が悪いんだよ」
「お朝さんはよく頑張っておられますよ」
咲良がにこやかに応じた。
お市もそれに乗る。
「私なんて未だに何もできないのですよ。できるのはお茶を淹れるのと五平餅を買って来るだけですもの」
お嶋が派手な笑い声を出す。
「ではお市さんにはお茶の支度をお願いしましょうか。咲良さんは何でもできるから……お朝ちゃん、このアジは焼くのかい?」
「うん、一夜干しをいただいたのよ」
「じゃあ咲良さん……といってもそのきれいな着物じゃ匂いが心配だ。そっちはあたしがやるから、味噌汁を頼むよ」
「はい、畏まりました」
咲良は袂から新しい腰ひもを出して襷に掛けた。
お市がすかさず言う。
「さすがお武家様の奥様だ。ちゃんと準備しておられるのですねぇ」
咲良が頷いて言う。
「母に躾けられましたので。こればかりは習慣でございますね」
奥の襖がカラッと開いた。
ぬっと顔を出したのは老人と言ってもよいほどの男だ。
何も言わずじっと咲良を見ているその目は、剣の心得の無い咲良でさえ殺気を感じるほどだった。
「申し訳ございません。煩くしてしまいました」
咲良が頭を下げると、その男が徐に口を開いた。
「いやいや、華やかな声がしたので、楽しそうだと思って覗いていただけですよ。男ばかりだったので明るくなって結構なことだ。こちらは急ぎませんので、どうぞゆっくりと」
顔を引っ込めて襖が閉じる。
蛇に睨まれた蛙はこんな気持ちなのだろうと咲良は思った。
富士屋又造が部屋に戻ったのを見計らってお嶋が咲良に耳打ちをする。
「知ってる顔かい?」
咲良が首を横に振る。
お市が眉間に皺を寄せながら言った。
「義さまと同じくらいの気迫だねぇ、ああ恐ろしい」
同じように感じた咲良が、竈の前にしゃがんで薪を抜いているお朝に言った。
「いつもお見えになる方々なのですか? 随分と遠慮がないような感じでしたが」
お朝が火照った顔を上げた。
「ええ、大体同じ顔ぶれですよ。二人が三人になったり四人になったりはするけれど。でも今日は初めてお目にかかる方もおられましたねぇ……」
「同じ顔ぶれって、この前の方々でしょう? ええっと……富士屋の若旦那さんと、どこぞのお武家様のご次男様でしたっけ? お名前が……」
咲良がそう言うと後ろから声がした。
「山名正晴だ。覚えておけ。おい女、こっちに来て酌をせよ」
「はい、ただいま」
お嶋とお市が同時に声を出した。
「お前たちじゃない。そこの女だ」
咲良を指さして下卑た顔を向ける正晴。
お嶋がすかさず声を出した。
「あらあら、咲良さんはお朝さんのお手伝いがございますので。用意が整いましたらお伺い致しますから、それまではあたしたちで勘弁してくださいませな」
フンッと鼻を鳴らして部屋に戻る正晴を見送りながら、お嶋が座敷まで届くような声でお朝に言った。
「お朝ちゃん、燗をつけるのかい? それともお冷かね」
「お冷がお好みですよ。姐さん、すまないねぇ。もう少しだからよろしく頼むよ」
「ああ、任せておきな。こっちの手伝いはできないが、酒の酌なら慣れたものさ」
お嶋はわざと蓮っ葉な言い方をした。
「さあ、お市さん。昔取った杵柄だ」
「あい、姐さん」
これで二人は玄人だと認識されたと思った咲良は、ホッと息を吐いた。
自分の命はもう捨てているが、この三人にはかすり傷ひとつも負わせたくない。
お朝が小声で話しかける。
「どうしたんだい? 何やらおかしいが」
「ええ、もしかしたらあの中の誰かが、旦那様の追っている人かもしれないのです」
「え? 久さんの? ああ……そういうことか。それで揃って来たんだね? あのお市というのは?」
「旦那様の剣の先輩の奥様です。その方が同じ人を追っているんですって」
「なるほど。あたしも久さんが絡んでいるなら協力は惜しまないよ。でも咲良さん、危ないと思ったらすぐに逃げるんだよ? いいね?」
「ありがとうございます」
その時奥からお嶋の声がした。
「お酒を頼みますよ~」
「はい、ただいま」
お朝が返事をして、咲良が膳の用意を引き継いだ。
アジの干物が程よく焼けて、香ばしい香りが漂う。
香の物は野芹と茗荷の浅漬けだ。
醬油を片口に移し小皿を添える江戸ならではの準備を整える。
味噌汁は豆腐と根深で、炊きあがった白米を茶碗によそって軽く塩を振った。
「お願いします」
咲良が部屋に声を掛けると、三人の女たちが出てきて膳を運び出す。
すっと寄ってきたお市が咲良にこそっと耳打ちをした。
27
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
水野勝成 居候報恩記
尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。
⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。
⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。
⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/
備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。
→本編は完結、関連の話題を適宜更新。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる