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肥後屋へ
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何事もなかったように朝は来る。
いつものように朝食を済ませ、久秀は柳屋へ、咲良と新之助は柴田道場へと向かう。
お嶋に干物の土産を渡し、留守の間の出来事などを聞くうちに昼時になった。
「久さんは初顔だから、今日はあたしも一緒に行くよ」
「うん。で? 俺は何をすればいい? 弁当を持っていくのはいつも通り丁稚どんだろ?」
「何ってそりゃあんた、いつも通りに声がかかりゃ愚痴を聞くだけさね。でもさぁ、久さん。本当に浮気は許さないからね」
久秀が盛大な笑顔を浮かべる。
「知らない人が聞いたらお嶋さんが俺の色みたいに聞こえるなぁ。何度も言うが、俺は咲良以外は目に入らないよ」
「ははは! そう? まあ、そうだよね……あんた達には何か深い繋がりがあるのだろうし。でもね、男と女のことなんて先のことはわからない。だからこそ言葉にも態度にも出して伝えなくちゃ。久さん、ちゃんと伝えているかい?」
返事をせずに横を向いた久秀の耳が赤く染まっている。
それを見たお嶋が大きな声で笑った。
「こりゃ要らぬお節介のようだ。それにしてもあんた、今朝はよく起きられたもんだ。咲良さんはちゃんとまっすぐ歩いていたかい?」
「それこそ大きなお世話だよ」
久秀は不機嫌そうな声を出して立ち上がった。
「さあ、とっとと仕事に行こう。俺は早く帰りたいんだ」
呆れた顔をしたお嶋だったが、ニマニマと笑いながら立ち上がる。
「まずは大黒屋だけれど呼ばれても行っちゃいけないよ。今日は肥後屋に顔見せだからね」
「わかった。それにしても肥後屋ってのは大見世だよな? どんな太夫さんなんだい?」
「あそこのピカイチは胡蝶太夫だよ。てっぺんを張ってまだ一年やそこらだけれど、どうしてなかなか肝が据わっていると評判さ」
「へぇ……胡蝶太夫ねぇ。さぞかし別嬪さんなんだろうねぇ」
「絶世の美女といわれているけれど、さる大名家のご子息が贔屓にしているってことで、なかなか馴染みができないっていう話さ」
「ふぅん」
興味も無いという顔をした久秀だったが『和ませ屋』を続けている理由はこの肥後屋にあった。
大黒屋の三朝は富士屋又造が、肥後屋の胡蝶は山名正晴が通っている太夫なのだ。
「まあせいぜいニコニコと愛想を振るさ」
何も知らないお嶋は久秀のやる気の無さを笑っていたが、当の久秀は並々ならぬ覚悟を腹に隠していた。
二段重ねの弁当をのせた番重を丁稚に持たせ、お嶋と久秀は大門を潜った。
昼見世でお茶を引いている女たちから久秀に声が掛かる。
「悪いねぇ、今日は肥後屋さんに行くんだよ」
「あらぁ、胡蝶太夫じゃ太刀打ちなど無理というもの。どうぞごゆっくり」
「ああ、ありがとう。また寄せてもらうよ」
お嶋が苦笑いを浮かべる。
「相変わらずのモテっぷりだねぇ、それにしても随分小ざっぱりしたじゃないか」
「昨日帰ったら新之助に臭いって言われてねぇ。見かねた咲良が髪を洗ってくれたんだ。ついでに少し切ってもらった」
「そいつはごちそうさん」
「お嶋さんに貰ったふのりが全部無くなったってボヤいていたよ」
「あんなものはいくらでも差し上げますよ。なるほどね、だからツヤツヤなんだね? 男ぶりが益々上がったじゃないか」
それには答えず苦笑いを浮かべる久秀。
そうこうするうちに肥後屋の前に出た。
「こっちだよ」
大門の中のことならモグラの穴まで知っていると豪語するお嶋に袖を引かれ、肥後屋の勝手口に回った。
「ごめんなさいよ。柳屋の嶋でございます」
お嶋が声を張ると、すぐに男衆が出てきた。
「ご注文の柳屋弁当をお持ちいたしました」
「ああ、ご苦労様です。いやぁ、太夫たちが湯屋で噂を聞きつけて来ましてね、どうしても注文するといって聞かないのですよ。これからもよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願い申し上げます。これは手前どもの弁当を運ぶ者でございます。以後お見知りおきくださいませ」
お嶋が久秀を紹介すると、男衆がポンと手を打った。
「ああ、こちらがかの有名な『和ませ屋久さん』ですか。なるほど女なら武者ぶりつきたくなるような色男だ。妬けるねぇ」
久秀が困った顔をした。
「いやぁ、そんなに虐めないでください。私は話を聞くしか能のない半端者ですよ」
「いやいや、聞いていますよ? 大した愛妻家だとか。新吉原の花たちを前に、女房の自慢をする男なぞ、そうそういやしません。そこに女たちは惚れるんでしょうねぇ」
久秀は笑ってごまかすことにした。
お嶋が口を開く。
「弁当はうちの丁稚に運ばせますが、太夫達に配るのはこの久さんの仕事です。ご存じとは思いますが、柳屋は弁当は売っても夢は売りません。そこは信用して下さいまし」
「ええ、ええ。十分に聞かせてもらっていますよ。旦那さんもそこは信用して下さっていますから、どうぞご安心なさって。では久さん、こっちへ」
番重を受け取った久秀が男衆の後に続く。
それを見送ったお嶋は丁稚を連れて柳屋に戻って行った。
いつものように朝食を済ませ、久秀は柳屋へ、咲良と新之助は柴田道場へと向かう。
お嶋に干物の土産を渡し、留守の間の出来事などを聞くうちに昼時になった。
「久さんは初顔だから、今日はあたしも一緒に行くよ」
「うん。で? 俺は何をすればいい? 弁当を持っていくのはいつも通り丁稚どんだろ?」
「何ってそりゃあんた、いつも通りに声がかかりゃ愚痴を聞くだけさね。でもさぁ、久さん。本当に浮気は許さないからね」
久秀が盛大な笑顔を浮かべる。
「知らない人が聞いたらお嶋さんが俺の色みたいに聞こえるなぁ。何度も言うが、俺は咲良以外は目に入らないよ」
「ははは! そう? まあ、そうだよね……あんた達には何か深い繋がりがあるのだろうし。でもね、男と女のことなんて先のことはわからない。だからこそ言葉にも態度にも出して伝えなくちゃ。久さん、ちゃんと伝えているかい?」
返事をせずに横を向いた久秀の耳が赤く染まっている。
それを見たお嶋が大きな声で笑った。
「こりゃ要らぬお節介のようだ。それにしてもあんた、今朝はよく起きられたもんだ。咲良さんはちゃんとまっすぐ歩いていたかい?」
「それこそ大きなお世話だよ」
久秀は不機嫌そうな声を出して立ち上がった。
「さあ、とっとと仕事に行こう。俺は早く帰りたいんだ」
呆れた顔をしたお嶋だったが、ニマニマと笑いながら立ち上がる。
「まずは大黒屋だけれど呼ばれても行っちゃいけないよ。今日は肥後屋に顔見せだからね」
「わかった。それにしても肥後屋ってのは大見世だよな? どんな太夫さんなんだい?」
「あそこのピカイチは胡蝶太夫だよ。てっぺんを張ってまだ一年やそこらだけれど、どうしてなかなか肝が据わっていると評判さ」
「へぇ……胡蝶太夫ねぇ。さぞかし別嬪さんなんだろうねぇ」
「絶世の美女といわれているけれど、さる大名家のご子息が贔屓にしているってことで、なかなか馴染みができないっていう話さ」
「ふぅん」
興味も無いという顔をした久秀だったが『和ませ屋』を続けている理由はこの肥後屋にあった。
大黒屋の三朝は富士屋又造が、肥後屋の胡蝶は山名正晴が通っている太夫なのだ。
「まあせいぜいニコニコと愛想を振るさ」
何も知らないお嶋は久秀のやる気の無さを笑っていたが、当の久秀は並々ならぬ覚悟を腹に隠していた。
二段重ねの弁当をのせた番重を丁稚に持たせ、お嶋と久秀は大門を潜った。
昼見世でお茶を引いている女たちから久秀に声が掛かる。
「悪いねぇ、今日は肥後屋さんに行くんだよ」
「あらぁ、胡蝶太夫じゃ太刀打ちなど無理というもの。どうぞごゆっくり」
「ああ、ありがとう。また寄せてもらうよ」
お嶋が苦笑いを浮かべる。
「相変わらずのモテっぷりだねぇ、それにしても随分小ざっぱりしたじゃないか」
「昨日帰ったら新之助に臭いって言われてねぇ。見かねた咲良が髪を洗ってくれたんだ。ついでに少し切ってもらった」
「そいつはごちそうさん」
「お嶋さんに貰ったふのりが全部無くなったってボヤいていたよ」
「あんなものはいくらでも差し上げますよ。なるほどね、だからツヤツヤなんだね? 男ぶりが益々上がったじゃないか」
それには答えず苦笑いを浮かべる久秀。
そうこうするうちに肥後屋の前に出た。
「こっちだよ」
大門の中のことならモグラの穴まで知っていると豪語するお嶋に袖を引かれ、肥後屋の勝手口に回った。
「ごめんなさいよ。柳屋の嶋でございます」
お嶋が声を張ると、すぐに男衆が出てきた。
「ご注文の柳屋弁当をお持ちいたしました」
「ああ、ご苦労様です。いやぁ、太夫たちが湯屋で噂を聞きつけて来ましてね、どうしても注文するといって聞かないのですよ。これからもよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願い申し上げます。これは手前どもの弁当を運ぶ者でございます。以後お見知りおきくださいませ」
お嶋が久秀を紹介すると、男衆がポンと手を打った。
「ああ、こちらがかの有名な『和ませ屋久さん』ですか。なるほど女なら武者ぶりつきたくなるような色男だ。妬けるねぇ」
久秀が困った顔をした。
「いやぁ、そんなに虐めないでください。私は話を聞くしか能のない半端者ですよ」
「いやいや、聞いていますよ? 大した愛妻家だとか。新吉原の花たちを前に、女房の自慢をする男なぞ、そうそういやしません。そこに女たちは惚れるんでしょうねぇ」
久秀は笑ってごまかすことにした。
お嶋が口を開く。
「弁当はうちの丁稚に運ばせますが、太夫達に配るのはこの久さんの仕事です。ご存じとは思いますが、柳屋は弁当は売っても夢は売りません。そこは信用して下さいまし」
「ええ、ええ。十分に聞かせてもらっていますよ。旦那さんもそこは信用して下さっていますから、どうぞご安心なさって。では久さん、こっちへ」
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