34 / 72
肥後屋へ
しおりを挟む
何事もなかったように朝は来る。
いつものように朝食を済ませ、久秀は柳屋へ、咲良と新之助は柴田道場へと向かう。
お嶋に干物の土産を渡し、留守の間の出来事などを聞くうちに昼時になった。
「久さんは初顔だから、今日はあたしも一緒に行くよ」
「うん。で? 俺は何をすればいい? 弁当を持っていくのはいつも通り丁稚どんだろ?」
「何ってそりゃあんた、いつも通りに声がかかりゃ愚痴を聞くだけさね。でもさぁ、久さん。本当に浮気は許さないからね」
久秀が盛大な笑顔を浮かべる。
「知らない人が聞いたらお嶋さんが俺の色みたいに聞こえるなぁ。何度も言うが、俺は咲良以外は目に入らないよ」
「ははは! そう? まあ、そうだよね……あんた達には何か深い繋がりがあるのだろうし。でもね、男と女のことなんて先のことはわからない。だからこそ言葉にも態度にも出して伝えなくちゃ。久さん、ちゃんと伝えているかい?」
返事をせずに横を向いた久秀の耳が赤く染まっている。
それを見たお嶋が大きな声で笑った。
「こりゃ要らぬお節介のようだ。それにしてもあんた、今朝はよく起きられたもんだ。咲良さんはちゃんとまっすぐ歩いていたかい?」
「それこそ大きなお世話だよ」
久秀は不機嫌そうな声を出して立ち上がった。
「さあ、とっとと仕事に行こう。俺は早く帰りたいんだ」
呆れた顔をしたお嶋だったが、ニマニマと笑いながら立ち上がる。
「まずは大黒屋だけれど呼ばれても行っちゃいけないよ。今日は肥後屋に顔見せだからね」
「わかった。それにしても肥後屋ってのは大見世だよな? どんな太夫さんなんだい?」
「あそこのピカイチは胡蝶太夫だよ。てっぺんを張ってまだ一年やそこらだけれど、どうしてなかなか肝が据わっていると評判さ」
「へぇ……胡蝶太夫ねぇ。さぞかし別嬪さんなんだろうねぇ」
「絶世の美女といわれているけれど、さる大名家のご子息が贔屓にしているってことで、なかなか馴染みができないっていう話さ」
「ふぅん」
興味も無いという顔をした久秀だったが『和ませ屋』を続けている理由はこの肥後屋にあった。
大黒屋の三朝は富士屋又造が、肥後屋の胡蝶は山名正晴が通っている太夫なのだ。
「まあせいぜいニコニコと愛想を振るさ」
何も知らないお嶋は久秀のやる気の無さを笑っていたが、当の久秀は並々ならぬ覚悟を腹に隠していた。
二段重ねの弁当をのせた番重を丁稚に持たせ、お嶋と久秀は大門を潜った。
昼見世でお茶を引いている女たちから久秀に声が掛かる。
「悪いねぇ、今日は肥後屋さんに行くんだよ」
「あらぁ、胡蝶太夫じゃ太刀打ちなど無理というもの。どうぞごゆっくり」
「ああ、ありがとう。また寄せてもらうよ」
お嶋が苦笑いを浮かべる。
「相変わらずのモテっぷりだねぇ、それにしても随分小ざっぱりしたじゃないか」
「昨日帰ったら新之助に臭いって言われてねぇ。見かねた咲良が髪を洗ってくれたんだ。ついでに少し切ってもらった」
「そいつはごちそうさん」
「お嶋さんに貰ったふのりが全部無くなったってボヤいていたよ」
「あんなものはいくらでも差し上げますよ。なるほどね、だからツヤツヤなんだね? 男ぶりが益々上がったじゃないか」
それには答えず苦笑いを浮かべる久秀。
そうこうするうちに肥後屋の前に出た。
「こっちだよ」
大門の中のことならモグラの穴まで知っていると豪語するお嶋に袖を引かれ、肥後屋の勝手口に回った。
「ごめんなさいよ。柳屋の嶋でございます」
お嶋が声を張ると、すぐに男衆が出てきた。
「ご注文の柳屋弁当をお持ちいたしました」
「ああ、ご苦労様です。いやぁ、太夫たちが湯屋で噂を聞きつけて来ましてね、どうしても注文するといって聞かないのですよ。これからもよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願い申し上げます。これは手前どもの弁当を運ぶ者でございます。以後お見知りおきくださいませ」
お嶋が久秀を紹介すると、男衆がポンと手を打った。
「ああ、こちらがかの有名な『和ませ屋久さん』ですか。なるほど女なら武者ぶりつきたくなるような色男だ。妬けるねぇ」
久秀が困った顔をした。
「いやぁ、そんなに虐めないでください。私は話を聞くしか能のない半端者ですよ」
「いやいや、聞いていますよ? 大した愛妻家だとか。新吉原の花たちを前に、女房の自慢をする男なぞ、そうそういやしません。そこに女たちは惚れるんでしょうねぇ」
久秀は笑ってごまかすことにした。
お嶋が口を開く。
「弁当はうちの丁稚に運ばせますが、太夫達に配るのはこの久さんの仕事です。ご存じとは思いますが、柳屋は弁当は売っても夢は売りません。そこは信用して下さいまし」
「ええ、ええ。十分に聞かせてもらっていますよ。旦那さんもそこは信用して下さっていますから、どうぞご安心なさって。では久さん、こっちへ」
番重を受け取った久秀が男衆の後に続く。
それを見送ったお嶋は丁稚を連れて柳屋に戻って行った。
いつものように朝食を済ませ、久秀は柳屋へ、咲良と新之助は柴田道場へと向かう。
お嶋に干物の土産を渡し、留守の間の出来事などを聞くうちに昼時になった。
「久さんは初顔だから、今日はあたしも一緒に行くよ」
「うん。で? 俺は何をすればいい? 弁当を持っていくのはいつも通り丁稚どんだろ?」
「何ってそりゃあんた、いつも通りに声がかかりゃ愚痴を聞くだけさね。でもさぁ、久さん。本当に浮気は許さないからね」
久秀が盛大な笑顔を浮かべる。
「知らない人が聞いたらお嶋さんが俺の色みたいに聞こえるなぁ。何度も言うが、俺は咲良以外は目に入らないよ」
「ははは! そう? まあ、そうだよね……あんた達には何か深い繋がりがあるのだろうし。でもね、男と女のことなんて先のことはわからない。だからこそ言葉にも態度にも出して伝えなくちゃ。久さん、ちゃんと伝えているかい?」
返事をせずに横を向いた久秀の耳が赤く染まっている。
それを見たお嶋が大きな声で笑った。
「こりゃ要らぬお節介のようだ。それにしてもあんた、今朝はよく起きられたもんだ。咲良さんはちゃんとまっすぐ歩いていたかい?」
「それこそ大きなお世話だよ」
久秀は不機嫌そうな声を出して立ち上がった。
「さあ、とっとと仕事に行こう。俺は早く帰りたいんだ」
呆れた顔をしたお嶋だったが、ニマニマと笑いながら立ち上がる。
「まずは大黒屋だけれど呼ばれても行っちゃいけないよ。今日は肥後屋に顔見せだからね」
「わかった。それにしても肥後屋ってのは大見世だよな? どんな太夫さんなんだい?」
「あそこのピカイチは胡蝶太夫だよ。てっぺんを張ってまだ一年やそこらだけれど、どうしてなかなか肝が据わっていると評判さ」
「へぇ……胡蝶太夫ねぇ。さぞかし別嬪さんなんだろうねぇ」
「絶世の美女といわれているけれど、さる大名家のご子息が贔屓にしているってことで、なかなか馴染みができないっていう話さ」
「ふぅん」
興味も無いという顔をした久秀だったが『和ませ屋』を続けている理由はこの肥後屋にあった。
大黒屋の三朝は富士屋又造が、肥後屋の胡蝶は山名正晴が通っている太夫なのだ。
「まあせいぜいニコニコと愛想を振るさ」
何も知らないお嶋は久秀のやる気の無さを笑っていたが、当の久秀は並々ならぬ覚悟を腹に隠していた。
二段重ねの弁当をのせた番重を丁稚に持たせ、お嶋と久秀は大門を潜った。
昼見世でお茶を引いている女たちから久秀に声が掛かる。
「悪いねぇ、今日は肥後屋さんに行くんだよ」
「あらぁ、胡蝶太夫じゃ太刀打ちなど無理というもの。どうぞごゆっくり」
「ああ、ありがとう。また寄せてもらうよ」
お嶋が苦笑いを浮かべる。
「相変わらずのモテっぷりだねぇ、それにしても随分小ざっぱりしたじゃないか」
「昨日帰ったら新之助に臭いって言われてねぇ。見かねた咲良が髪を洗ってくれたんだ。ついでに少し切ってもらった」
「そいつはごちそうさん」
「お嶋さんに貰ったふのりが全部無くなったってボヤいていたよ」
「あんなものはいくらでも差し上げますよ。なるほどね、だからツヤツヤなんだね? 男ぶりが益々上がったじゃないか」
それには答えず苦笑いを浮かべる久秀。
そうこうするうちに肥後屋の前に出た。
「こっちだよ」
大門の中のことならモグラの穴まで知っていると豪語するお嶋に袖を引かれ、肥後屋の勝手口に回った。
「ごめんなさいよ。柳屋の嶋でございます」
お嶋が声を張ると、すぐに男衆が出てきた。
「ご注文の柳屋弁当をお持ちいたしました」
「ああ、ご苦労様です。いやぁ、太夫たちが湯屋で噂を聞きつけて来ましてね、どうしても注文するといって聞かないのですよ。これからもよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくお願い申し上げます。これは手前どもの弁当を運ぶ者でございます。以後お見知りおきくださいませ」
お嶋が久秀を紹介すると、男衆がポンと手を打った。
「ああ、こちらがかの有名な『和ませ屋久さん』ですか。なるほど女なら武者ぶりつきたくなるような色男だ。妬けるねぇ」
久秀が困った顔をした。
「いやぁ、そんなに虐めないでください。私は話を聞くしか能のない半端者ですよ」
「いやいや、聞いていますよ? 大した愛妻家だとか。新吉原の花たちを前に、女房の自慢をする男なぞ、そうそういやしません。そこに女たちは惚れるんでしょうねぇ」
久秀は笑ってごまかすことにした。
お嶋が口を開く。
「弁当はうちの丁稚に運ばせますが、太夫達に配るのはこの久さんの仕事です。ご存じとは思いますが、柳屋は弁当は売っても夢は売りません。そこは信用して下さいまし」
「ええ、ええ。十分に聞かせてもらっていますよ。旦那さんもそこは信用して下さっていますから、どうぞご安心なさって。では久さん、こっちへ」
番重を受け取った久秀が男衆の後に続く。
それを見送ったお嶋は丁稚を連れて柳屋に戻って行った。
33
お気に入りに追加
43
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

狩野岑信 元禄二刀流絵巻
仁獅寺永雪
歴史・時代
狩野岑信は、江戸中期の幕府御用絵師である。竹川町狩野家の次男に生まれながら、特に分家を許された上、父や兄を差し置いて江戸画壇の頂点となる狩野派総上席の地位を与えられた。さらに、狩野派最初の奥絵師ともなった。
特筆すべき代表作もないことから、従来、時の将軍に気に入られて出世しただけの男と見られてきた。
しかし、彼は、主君が将軍になったその年に死んでいるのである。これはどういうことなのか。
彼の特異な点は、「松本友盛」という主君から賜った別名(むしろ本名)があったことだ。この名前で、土圭之間詰め番士という武官職をも務めていた。
舞台は、赤穂事件のあった元禄時代、生類憐れみの令に支配された江戸の町。主人公は、様々な歴史上の事件や人物とも関りながら成長して行く。
これは、絵師と武士、二つの名前と二つの役職を持ち、張り巡らされた陰謀から主君を守り、遂に六代将軍に押し上げた謎の男・狩野岑信の一生を読み解く物語である。
投稿二作目、最後までお楽しみいただければ幸いです。
三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河
墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。
三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。
全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。
本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。
おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。
本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。
戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。
歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。
※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。
※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる